第8話 あまりにロシア的なお茶会

 ゴールデンウィークが明け、ラスコーリニコフは久しぶりにどすけんの部室を訪れた。地方から出てきたばかりで友人のいないラスコーリニコフにとってゴールデンウィークはずいぶん長く感じられた。といっても休みの間にしたことといったらパソコンにインストールされていたマインスイーパーとスパイダーソリティアの全難易度一通りクリアしたくらいであったが。

 新しい部室は旧部室と離れた位置にあった。その理由は殺人という凄惨な事件が行われた現場から少しでも距離を置かせたいという学生課側の心情的配慮、というわけではなく単なる空き部屋事情によるものだった。どすけん新部室はこれまで軽音学部の楽器置き場兼溜まり場として非公式に占有されており、再三の勧告にも応じない彼等に学生課は手を焼いていたのである。不幸な事件は部室明け渡しの良い口実になったのだ。


  ラスコーリニコフが部室のドアを開けると、殺風景の中にキリーロフが一人座っていた。彼はお茶を飲んでいた。テーブルの傍らには奇妙な金属の壺が置かれていた。

「ああ、ラスコーリニコフ、久しぶり。お茶でもどう?」

「お久しぶりです、頂きます。それは何ですか?」

 ラスコーリニコフは金属の壺を指さした。

「サモワールだよ、ロシア文学に良く出てくるお茶を淹れるやつ。警察の取り調べから昨日戻ってきたんだ」

「ああ、これがサモワール。実物は初めて見ました」

「最近のは電熱式になっていてお湯を沸かしたらすぐに上に付いてるティーポットでお茶を淹れられるようになっている」

 キリーロフはティーポットを軽く持ち上げて見せた。サモワールの下部からは電源コードが壁に伸びていた。


 3分後、ラスコーリニコフはキリーロフの淹れた紅茶を飲んでいた。紅茶の銘柄などよく知らなかったが、柑橘系の爽やかな香りがいかにも紅茶らしい紅茶であった。

「こんな風に一体で紅茶を淹れられるなんて合理的ですね。どすけんの備品なんですか?」

 ラスコーリニコフは何気なく尋ねた。

「そう、むかしシャートフが買った。シャートフは3年前の部長で、サークルの年間部費となけなしの貯蓄を使い果たして突然このサモワールを買ってきたんだ。8万4800円。シャートフ事件と呼ばれている」

 キリーロフは書類棚から一冊のノートを取り出し、ラスコーリニコフにあるページを開いて投げよこした。そのページには一面びっしりさまざまな筆跡さまざまな色で『シャートフ死すべし』と書かれている。

「それはシャートフ事件当時の部誌。なにせ男子大学生なら半年は食べられる金額だからね。そんな暴挙が許されるはずもなく、彼は吊し上げられて構内の沼に沈められた」

「シャートフなだけに」

 ラスコーリニコフはよく分からず生返事をした。


 キリーロフとラスコーリニコフの二人しか居ない部室は静かだった。二人は茶葉を変えて紅茶をおかわりした。新しい紅茶は枯葉のような渋い香りがして、ラスコーリニコフは前の方が好きだなと思った。外からは軽音部の練習音が聞こえてきた。ひと昔前に流行ったアニソン曲だった。

「たぶん、事件が起こる前からみんなシャートフを沈めてみたいと内心思っていた。そして彼自身もどこかそれを望んでいたんじゃないかと思う。だから柄にもなくサモワールなんて買ってきた」

「入部のときに言っていた、どすけん部員はドストエフスキーの登場人物になり、その人生を生きる、ということですか?」

「ぼくはこれをロシア的アイデンティティの危機と呼んでいる」

「サモワールを買って沼に沈められることはロシア的でしょうか」

「焼け石に水程度にはね。あいにく、どすけんの人間はほぼ誰もドストエフスキーを知らない。だからって小説に手を出すほどの生真面目さも気力も持ち合わせていない」

「それはよく分かります」

「でもこのサークルではドストエフスキーの登場人物になる以外に何も明らか活動はないし、実際のところそれを誰かに要求されることすらない。それでたまにおかしくなる。きみはどうだろうね?」

「シャートフは沼に沈められて死んだんですか?」

 ラスコーリニコフは話題を戻した。

「いや、沼から這い上がって普通に卒業したよ。今どこでどうしてるかは知らないけど、警察には学生課経由で連絡がついたんじゃないかな。それでピロシキ集団殺人とは関連性なしとしてサモワールが返ってきたというわけ」

 キリーロフは楽しそうにラスコーリニコフを眺めていた。

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