第7話 ゾシマ長老とサークルクラッシャー

 パーテーションで区切って作られた来客スペースに通されると、対応に出てきたのは、自分よりやや年上だろう男だった。程なくして茶まで出された。こんなにちゃんとやられるとは想定外だ。確かにこんな雰囲気は苦手だ。ポルフィーリイは案外勘が鋭いのかなと思った。

 学生課はその名に反して基本的に学生には無干渉だ。在籍証明だの成績証明だの、学生が求める証明書を淡々と発行する課という印象が強い。だから、今回もいつもの受付に要件を伝えて、申請書を出して許可書をもらって、おしまいというつもりで来たのだ。

 「部室使用団体変更申請書」――もしかすると、ドストエフスキー研究会が発足してから部室の変更があるのは初めてのことなのではないだろうか。自分がゾシマ長老になってから、まだ四年しか経っていないが、長老と名乗る前のことや先輩たちから聞いたことを合わせれば、少なくともここ十五年間のどすけんの動向は把握しているつもりだ。

 ほぼ、お決まりの情報だけの申請書を、こんなにご丁寧に受け取られることになったのは、そこだけは、お決まりではない「事由」のためだろう。もっとも、その欄も書類上では「団体の諸事情による」としか書かれていない(書かなくて良いと前もって言われた)。

 「OKです」申請書にざっくりと目を通した男は、短くそう言ったあと少し黙り込んだ。沈黙が重い。しかし、このくらいの事務処理は長老として、引き受けなくてはならないことだろう。


 事件が発覚し、警察が到着すると部室は即時閉鎖された。第一発見者となったキリーロフは根掘り葉掘り警察から事情を聞かれたようで「ピロシキが憎い」と、明後日の方向に恨みを向けていた。

 警察は個々人に対して調査を行う。いくらキリーロフが話下手だからといって、自分やポルフィーリイが代わることはできない。そんなことは、わかりきったことのはずだったのに、いざ自分たちが個別に事情聴取を受け始めると、どすけんがバラバラの個人に解体されていくような錯覚に囚われた。ゆるい集まりではあったが、確かにドストエフスキー研究会は、一つの団体として各々が各々の役割を担いながら運営されていたのだ。

 学生自治会との交渉、どすけんメンバーへの連絡、そして、遺族とのやり取り。大学サークルとして対応しなければいけないことは、ポルフィーリイが処理していた。「殺人事件が起こったからといって、サークルを解散する理由にはならない」と言い、早々に新しい部室を確保しようとしたのもポルフィーリイだった。「まあ、一応現会長だからね」といってそれらの仕事をこなした彼に「学生課だけは長老が行ってくれませんか」と言われて断る気はなかった。

「いいけど何? 忙しいの?」何の気なしにそう聞いた。ここのところ流石に疲れて見える彼に少し弱音を吐いてもらいたかったのかもしれない。

「いや、学生課だけは、どうしても苦手なんですよ」何でもこなすように思えるポルフィーリイの回答は、ちょっと意外だった。


 「それで、こちらで作成した報告書があるので、目を通していただけますか」

 学生課の男が一枚の紙を差し出す。日時や担当者などが記載され、一番下の欄に「経緯」が書かれていた。


 “部室3✕✕号にて、同部室を使用しているドストエフスキー研究会所属の本学学生4人が殺害された。容疑者は4月**日現在明らかになっていない。警察調査のための現場保存と同研究会会員の精神的影響を考慮し、ドストエフスキー研究会の使用部室を3△△号へ変更することとした。”


 「……短いですね」思わずそう呟いていた。

 のんきだったどすけんを一変させた出来事は、こんなにも簡単な文章で表されてしまうのか。

「不確かな情報を省いて、個人情報を除くと、こんな感じになります」

「……そうですか。そうですね。確かに。この通りです。まちがいない」

「では、このまま、訂正などないということでいいですね。何か、他に聞いておきたいことはありませんか?」

「……いえ」

 話はそれで終わった。

 この短い手続きのために、学生課内まで通されたのかと思うと拍子抜けしたが、窓口では話しにくい内容であったのも確かだった。この大学の学生はスキャンダルに興奮しない賢さを持っているが、連日ニュースを賑わす事件の関係者に興味を示す者がいないとも限らない。

 ともあれ、これで新しい部室が確保できる。どすけんが保持していた備品は血で汚れた上に警察に押収されてしまい、ほとんどのものがなくなってしまったが、まずは集える場所ができれば、少しずつどすけんは元に戻っていくはずだ。そう信じたかった。


 ゾシマ長老は裏口から外に出て角を一つ曲がり、錆びた灰皿のある喫煙所に向かった。昼下がりの日差しが暖かい。春秋はこの喫煙所に限る。建物の裏側に追いやられがちの喫煙所だが、ここはとにかく日当たりが良いのだ。ただ、夏や冬はエアコンの室外機からひっきりなしに風が吹き付けるので、長居ができない場所になってしまう。

 煙草に火をつけると、細い煙がうすく空を濁らせた。喫煙者に対する風当たりは大学内でも年々厳しくなっている。そういえば、自分が入学した頃は部室の中でも煙草が吸えたんだったな、と昔を懐かしみ、ゾシマ長老は深く息を吐き出した。


 セーラムライトのボックスを手に持って、先程の学生課職員が喫煙所にやってきたのは、ちょうどその時だった。あちらが笑って会釈したので、こちらも軽く頭を下げた。変な感じだ。さっき会って少し話しただけの職員だが、気持ちは非常によくわかった。イレギュラーな仕事を終えて安心し、一服しに快適な喫煙所までやってきたのだ。自分と同じだ。とても共感できる。普段職場でしか会わない同僚と、一人旅の旅先のバス停でばったり出会ってしまったら、こんな気分になるんじゃないかと、ゾシマ長老は想像した。


「……大変ですね」ボックスを開けながら職員が話しかけてきた。自分に同情してくれているのか。

「……もう、すごく、すごく大変ですよー。困っちゃいましたよー」まるで、後輩のような口調で長老は答えていた。昔はこんな風に話していたなと思う。何だか今日は昔を思い出しやすくなっているようだ。

「これから、どうなりますかね」

「わっかんないですよー。どうにかなって欲しいですよー」


 こんなとき、ラッスンだったらどうするだろう。

「4人なんて、中途半端な殺し方だ」とは言うだろうな。「4人も殺したら、心神喪失でもない限り死刑は免れない。それならいっそ、気に入らない集団を皆殺しにするまでやった方がいい。でも、一番いいのはやっぱり、一人だけ、こいつはっていう悪を一人滅ぼすことだよ。一人だけなら隠しやすい。一人やって、それでも足りなかったら、次を殺すことを考えればいいんだよ」

 ああ、言いそうだ。ラッスンのことを思い出すと笑いと勇気が湧いてくる。ラッスン、大丈夫だよ。どすけんはこれくらいのことでなくなったりしないよ。お前の愛したドストエフスキーをきっとみんなが守ってくれるよ。

 壁へもたれて相槌を打つ職員に向かって、ゾシマ長老はうす笑いしながら、延々と管を巻き続けた。

 

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