第6話 キリーロフはお腹が空いている

 キリーロフがコンビニから出てきたとき、彼は左手にカップヌードルを、右手にコカ・コーラを持っていた。

 キリーロフは決してレジ袋を使わない。

 もしもレジ袋を使っていたら、コンビニの棚にあるものを衝動的に大量に買い込んでしまうだろう。もしもレジ袋を使ってしまったら、眠れない夜にジャンクフードを夜通し食べ続けてぶくぶくと太ってしまうだろう。そんなことは許せなかった。だからレジ袋を使わずに、両手で持てるだけのものを買うと決めていた。

 

「あ、キリーロフ、いいところにいた」

 大学に向かって歩くキリーロフとすれ違いざまに声をかけてきた者がいた。ソーニャだった。


「ソーニャ、帰るところ?」

「うん。さすがに2日連続で部室泊はないでしょ」

「昨日はゾシマ長老と飲んでたんだっけ?」

「そうそう、珍しくゾッシーが恋の悩みとか昔の武勇伝とか熱く語るもんだからおもしろくて終電逃がしちゃった」

「あ、そう」


 ゾシマ長老の恋愛事情に興味がないわけではない。けれどいまキリーロフは少し疲れていた。そしてお腹が空いていた。余計なことを言ってソーニャを勢いづかせるよりも、早くこの会話を切り上げたかった。


「バイト終わり?」

「そうだけど」

「稼いだ?」

「まあ、それなりに」

「いくら?」

「それ聞いてどうするよ」

「いいじゃん、別に、教えてくれても。私とキリちゃんの仲だろ」

「どんな仲だよ」

「ゾッシーから聞いたんだけど、この前キリちゃんが車に乗ってるとこを目撃したって。隣にいた人が……」

「7万! 7万だよ」

「マジで!? 1日で!? 悪い男だ」

「いや、何も悪いことはしてない!」

「犯罪だろ」

「完全に合法だ!」


 キリーロフが何か特殊な「バイト」をしているらしいこと、それによって法外な報酬を得ているらしいことは、ドストエフスキー研究会の部員たちの間で知れ渡っていた。だが「バイト」の具体的な内容については誰も知らなかった。ホスト、麻薬の密売、パチプロなど様々な憶測が流れたが、キリーロフは「バイト」の内実について決して口を割らなかった。


「それより宴は?」

「ああ、ピロシキ?」

「そう、ピロシキの宴。たしか今日だっただろ」

「そろそろ始まった頃じゃないかな。私は今回はパス。あれに参加すると帰れなくなるし」

「俺は出るよ。急がなきゃ。じゃあな」

「でも、キリちゃん、ピロシキは?」

「これだ、これ。カップ・ヌードル・ピロシキ味」


 キリーロフが左手に高く掲げたカップヌードルは、もちろんピロシキ味などではなく、オーソドックスなしょうゆ味だったが、そんなことはどうでもよかった。これ以上「バイト」の件でソーニャに詮索されるのを避けたかったし、カップ麺でもピロシキでも何かを腹に入れたかった。


 彼は少し疲れていたし、お腹が空いていた。


 ピロシキの宴がすでに始まっているとしたら、途中から部室に入るのは少し気がひける。ドアを開ける前にやはりノックするべきだろうか。そんなことを考えながらキリーロフがドストエフスキー研究会の部室の前にたどりついたとき、しかしノックすべきドアはなかった。


 破壊されたドアの向こう側で、奇妙なかぶりものをした4人とたくさんのピロシキが床に転がっていた。赤い、血のようなものが床一面にひろがっているような気がした。

 キリーロフには、そこで何が起こったのか理解できなかったし、理解しようとする意思も持てなかった。なぜなら彼はお腹が空いていたのだから。


 左手のカップヌードルしょうゆ味と右手のコカ・コーラをテーブルに置き、まだ手が付けられていないピロシキを拾って食べた。かすかに血の味がするような気がした。

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