第5話 ピロシキの宴

 そのころドストエフスキー研究会では、奇妙な集団が円陣を組んで座っていた。

 全員が目と口のところだけを切り抜いた奇妙な形のかぶりものをかぶっており、したがってそこにいるのが何者なのかは本人以外誰にもわからなかった。そのかぶりものは茶色い布でできた、カレーパンマンの頭のような形状をしていた。しかし、もし誰か無邪気な者が「そのかぶりもの、カレーパンかい?」などと指摘したが最後、集まった者は烈火のごとく怒り狂ったに違いない。

 なぜならここに集っていた者たちは、これから「ピロシキの宴」を行おうとしていたからである。


 カレーパンはピロシキではない。

 ピロシキはピロシキである。

 ピロシキをカレーパンと間違える者は地獄に落ちる。


 これがピロシキの宴に集う者たちの信条であった。

 集まった合計4人が持ち寄ったものは各自が調達したピロシキと水のみ。これに、ドストエフスキー研究会そなえつけの「使い捨て紙おしぼり」を並べると用意がととのう。これから、この宴では神聖な儀式「利きピロシキ」が行われるのである。部屋の空気は緊張で沸騰せんばかりであった。実際、ひとりが電気フライヤーを使いピロシキを現在進行形で調理していたため、締め切った室内はかなり熱せられていた。


 ピロシキは近年日本のパン屋で見かけることが減った。学祭でピロシキの屋台を出すと「ピロシキ?なにそれ?フロシキ?」と小学生に嘲笑されたことあるくらいだ。だがこの集団は、その小学生のおかげで、ピロシキという秘教への忠誠を再度確認したほどの狂信者ぞろいなのだった。学祭での涙ぐましい努力にもかかわらず、客からは「カレーパンだと思って買ったのにぃ」という不満の声が聞こえたこともあった。そのたびにこの狂信者は「カレーパンマン、いつか殺す」と心に誓った。

 とはいえカレーパンマンを殺すためにはピロシキではなくカレーパンを食べなければならないのではないかという問いも出され、いくら信仰のためとはいえこの「踏み絵」はむしろピロシキを冒涜することになるのではないか、という議論が毎度沸き起こり、結果カレーパンマンは殺されずにすんでいるのだった。


 さて「利きピロシキ」を開催するには、過剰なまでの努力が必要とされる。つまり、近所のコンビニエンスストア、パン屋、もし存在するならロシア料理店を回り、「ピロシキはありませんか?」「ピロシキ…って何ですか?」といった会話に耐え、そこで発見できなかった者はインターネットで「ピロシキ レシピ」と入力し、神聖なピロシキの製造方法を学習し、必要な物品を調達し、調理しなければならないのである。

 だが日本に住むピロシキ教徒はありとあらゆる苦難に打ち勝ち、ピロシキを生産するのだった。なお、ピロシキ教には日本分派とロシア本教があり、ロシア本教は当然「ロシアの正しいピロシキこそが唯一のピロシキである」と主張し、日本分派側は「たとえ<中華まんの具が入った揚げパン>であろうとも、日本に固有に根付いたピロシキの正統性を持つ」と主張した。固有とか正統とかいう言葉はいかようにも使い回せるものだ。


 さて、ついに、進行形でピロシキを調理していた最後のひとりの準備が完了した。これでようやく儀式を開始することができる。いざ全員が、目の前のピロシキに手をのばそうとした途端――――


 鍵のかかったドアがめりめりとひび割れたのである。







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