第4話 おかしな人間の夢

 いつからか、ラスコーリニコフは夢の中にいた。夢の中では、世界中が奇妙な疫病にさらされ危機に瀕していた。


 その疫病は、アジア奥地で発生したごくごく微細な細菌で、空気に乗って短期間のうちに世界中に広がった。それは新種の旋毛虫のような形状で、邪悪な知性と意思を持ち、取り付いた人間をたちまち凶暴な狂気に陥れるのだった。感染した人間はみな、かつて人類が一度も抱いたことがないような強烈な自尊心と自負心を注入され、自分は聡明で、自分の信念は常に正しいと思い込むようになるのである。


 自分の判断、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対だと信じた人々はかつていなかった。全村、全都市、全民族が残らずそれに感染した。感染に例外なく、例えば強固なシェルターを備えた富裕層、アメリカ大統領でさえも免れることはなかった。

 その結果、すべての人々が不安におののき、互いに相手が理解できず、それでも各々自分だけが真理を知っていると考えて、他人を見てはそのたび苦しみ、自分の胸を殴りつけ、手をもみしだきながら泣いた。


 どんな人間同士の間でも何が善で何が悪か、誰をどう裁いていいのかについてついぞ意見が一致することはなかった。そしてつまらない恨みで互いに殺し合った。殺し合いは集団化し、互いにグループを形成するかに思えたが、その矢先に内輪揉めが起こりすべて瓦解した。

 文明は破壊され、飢饉がおこり、人類は残らず滅びてしまった。


 全世界でわずか数人の人々だけが、この災厄を逃れることを許された。それは新しい人種と新しい世界を創り地上を更新し浄化する使命を帯びた純粋な選ばれた人々だった。しかし誰もどこにもそれらの人々を見たものはいなかったし、声や言葉を聞いたものもいなかった――。


『――そうだ、この旋毛虫を僕は知っている。でもこれは断じて僕の夢じゃない。ラスコーリニコフの夢だ』まどろみの中でラスコーリニコフは気づいた。これは小説「罪と罰」で主人公「ラスコーリニコフ」が見る夢だった。物語のラスト、殺人罪で服役中のラスコーリニコフは熱に浮かされながらこの夢を見る。この「ばかばかしい夢」は悲しく重く彼の心に跡を残した。


 まだ彼がドス研に入りラスコーリニコフと呼ばれるようになる前、初めて読んだ「罪と罰」で出会ったこの奇妙な夢の描写は彼の心に大きな衝撃を与えた。そしてこの衝撃は繰り返される夢となって彼の意識に長い間居座り続けているのだった。だが彼自身理解できないのは、なぜこのエピソードが彼にとってこれほど大きな存在になったのかということだった。


 ――ロージャ、起きて、ロージャ。

 冷たいアスファルトの空間に無機質な声が響いていた。彼が意識を失って以来長い時間が経過し、閉ざされた大学構内のゴミ捨て場は完全な闇に覆われていた。闇の中でロージャへの呼びかけが延々とこだましていた。

「お前が殴ったんだろうが」

 ふいに意識を取り戻したラスコーリニコフは半ば無意識に呼びかけの主にこう返答した。実際にはなぜ自分が意識を失ったのか彼は知らなかった。


 闇におおわれているためラスコーリニコフには呼びかけの主の姿を見ることはできなかった。だが置かれた状況から常識的に判断して、声の主の正体は意識を失う前に話しかけられた斧なのだろうと彼は判断した。初めこそ驚いたものの斧が喋るという事態の異常さについては幼少から漫画、小説、アニメといったコンテンツを享受して育った彼にとってさして受け入れがたいものではなかった。むしろなぜこの世界でだけは剣や斧や喋ったりせず、魔族や亜人が我が物顔でそこらを跳梁跋扈していないのか不審に思うことの方が多いくらいであった。


 そのような背景を踏まえ、状況を受け入れると、彼はこれから始まるであろう「知性を持った異種族とのファーストコンタクト」という茶番を演じることが何とも馬鹿らしくなってきた。事ここに及んでは、彼はもう何を言っても負けなのだと感じた。「貴様の目的はなんだ」「こんな美男、美少女が俺の前に」「僕にかかわるな」、どのようなフレーズで答えたとしても、それは一つの型として成立させられてしまう。非常識の上であれば何だって許されてしまう。


 沈黙の中20秒か30秒ほど考えた末、彼はすくと立ち上がり一言も発することなくその場を後にした。途中、落ちている廃材に盛大にバランスを崩しかけたが意に介さなかった。体中が冷えきって、のどがひどく渇いていた。


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