第3話 ハラショー

 1限は休講だった。

 定時が近づいてもまばらにしか学生が集まらず、嫌な予感がしたその時、前の方で携帯電話を眺めていた学生が、小さく溜息をついて席を立った。

 決まりだ。今日ここで第二外国語の講義は開催されないのだ。ラスコーリニコフが苦々しい気持ちで掲示板を確認しに行くと、3日前に休講が決まったことを告げる掲示が出ていた。

 彼はこのような場合、開放感よりも焦燥感を覚える性質を持っていた。急なスケジュール変更は苦手だ。3限にまだ講義があるから、帰ってしまうわけにはいかないのだ。急に与えられた時間をどう使うのが一番有効なのか、彼は答えを探して戸惑っていた。


 こういった場合の避難所として存在しているはずの部室には、今日に限って戻るわけにいかない。あの錯乱したソーニャと再び対峙する勇気などなかった。

 行き先を求めて、掲示板の先にあった構内案内図を見ていると、ふと思いつくことがあった。後ろめたい考えではあるが、悪い考えではないないはずだ。彼はフラフラと操られたように歩き始めた。


 燃やせるゴミ、リサイクルするプラスチック、ビン、缶など、それぞれのゴミに1つずつ物置が割り当てられ、そこに入れられない大きさのゴミが、傍らに積まれていた。学内のゴミは一度この集積所に集められ、まとめて運び出される仕組みになっていた。

 学生食堂の地下に位置する集積所に足を踏み入れると、まだ午前中の時間にあっても辺りは薄暗く、点滅する蛍光灯によって視界を保っていた。

 サークルに所属している学生にとって、このゴミ集積所はなじみ深い場所だ。大量のビール缶、一世代前のデスクトップパソコン、マガジンラック、直径30センチはある丸太、鉄パイプ、イベントに使ったのだろうクリオネのような生き物のきぐるみなど、多岐にわたるゴミの山から必要なものを持ち出し利用することは、どのサークルでも行われていることだった。「どすけん」のソファも元はといえばこの場所から持ち出されたものらしい。

 そう、ここは何が捨ててあったとしても、不自然ではない場所だ。


 ラスコーリニコフは肩にのしかかる黒いバッグの重みをずっと感じていた。人からせっかくもらったものを、その日のうちに捨てることに抵抗がないわけではない。しかし、こんな訳のわからないものを早く手放して自由になりたいという気持ちが勝った。

 ソーニャは物騒だから部室にこの斧は置いておけないと言っていた。(それまで確かに部室に置いてあったのに、なぜ急にそんなことを言い始めたのかは不明だが)だとすれば、この斧は「プレゼント」された自分が家に持ち帰り管理するのが自然だろう。だから、部員には「家に持って帰った」と言おう。今後、誰かを家に招いて言及されても、「奥にしまっちゃったから急には取り出せないな」と言おう。そして、数年たっても覚えている奴がいたら、「大掃除のときに捨ててしまったかもね。また探してみるよ」と言おう。そうしているうちに自分は順調に卒業できるだろう。そもそも、こんな薄汚れた、何年も使っていないような斧に、今更注目が集まる機会があるなんて思えない。ソーニャ以外の部員は存在も知らないかもしれない。ソーニャだって、プレゼントしたこと自体すぐに忘れてしまうかもしれない。そうだ、捨ててしまおう。捨ててしまうのが、正しい。

 今や冴え冴えとした頭で決心した彼は、黒いバッグを燃えるゴミ、斧を金属ゴミへと分別するべく、ファスナーに手をかけた。


「……ハラショー」


 それは、小さな、色のない声だった。しかし、ラスコーリニコフには確かにその声が聞こえた。その、薄汚れた、黒いバッグの、ファスナーの隙間から。

 次に目が合った。瞳の黒い、やや充血した目だった。何がハラショーなのかわからないけれど、こいつロシアの人じゃないんじゃないかなと思った。その声は続ける。


「もう、察していると思うが、自分は斧だよ……」

「え、あっはい」

 もちろん、察してはいなかった。

「ロージャ、あなたの力になろう」

「はあ」


 ラスコーリニコフは急に愛称で呼ばれたことに戸惑い、その他のいろいろなことに戸惑い、気の抜けた返事をした。

「今から、人間の姿になって、ここから出よう」

「え、いや、そういうのは……」

何が「そういうの」なのかわからない。しかし、否定はしておきたい。もし、その否定が通りそうにないとわかっていたとしても。

「でも、その前に聞いておきたい」

「……何でしょう?」

ラスコーリニコフはほんの一瞬であっても、その「斧」が出てくるのを遅らせてくれたことに安堵した。

「力強い男と力強い女、どっちで登場したら良い? ああ、どちらにせよ、とても強いから、そこは安心して欲しい」


 なぜ強いと安心なのか、まったくわからなかった。

 彼はラスコーリニコフになってから、意外にも初めてラスコーリニコフになったことを後悔していた。その呼び名が気に入った訳ではなかったが、大学生活を送る上で、自分の思い通りにならないこともあるだろうとしか、今までは思っていなかった。ラスコーリニコフになったために、こんな目にあうなんて想像もしていなかった。

 でも、ラスコーリニコフってこんな奴だったっけとも、思わずにはいられなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る