第2話 ソーニャと斧

「で、きみはいつ人を殺すの?」

「はい…?」

 ドストエフスキー研究会、略して「どすけん」の部室には、まだ午前8時を少し回った時刻であるにもかかわらず、珍しく二人の部員がいた。ラスコーリニコフとソーニャだ。


 ラスコーリニコフがどすけんに入部してから1週間と2日がたっていた。彼は入部以来毎朝、1限の授業前一時間をどすけんの部室で過ごしていた。生来の心配性である彼は、定められた時刻ぴったりに約束の場所に到着することができない。

 もしも途中でお腹が痛くなったら? もしも人身事故で電車が遅れたら? もしも道端でお年寄りに道を尋ねられ、説明が伝わらず結局目的地まで一緒に歩いて案内する羽目になってしまったら? そんな事態に思いを巡らせると、とてもぎりぎりに家を出ることなんてできない。

 実際、どすけんに入部する前までは、誰よりも先に教室に入り、授業が始まるのを待っていた。けれどいまや彼は部室を手に入れた。部室に備え付けのコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、コンビニで買ったパンを食べる。優雅な朝食のひとときだ。

 ここでも教室でも、朝の一時間が自分ひとりである点は同じだったけれど、だだっぴろくがらんどうの教室よりも、人の生活の痕跡が残るこの場所の空気は彼を安堵させた。


 しかしこの日はいつもと勝手が違っていた。扉を開けると誰もいないはずの部室に、女がひとり、床に突っ伏して寝ていた。ソーニャだった。シャツがめくれて背中の肌が少しだけ見えていた。顔をのぞきこむと口元からよだれがたれているのが見えた。かすかな寝息が聞こえた。傍らには空になったビール缶が三つ転がっていた。

 ラスコーリニコフはソーニャを起こすべきかどうか五分ほど考え、結局しないことにした。部室には仮眠をとるのにちょうどよさそうなソファがあるのに、女が床に大の字になって寝るなんて相当なことだ。眠りたくて眠っている人間を起こすような非道な行いを彼は好まない。それに、起こすとしてなんと声をかければいいのかわからなかった。起こしたあとソーニャと何を話せばいいのか。

 ラスコーリニコフは入部以来毎日ソーニャと顔を合わせていたが、まだふたりきりで話したことはなかった。彼がこのどすけんでラスコーリニコフと呼ばれ、そして彼女がソーニャと呼ばれているのは全くの偶然なのだったが、ドストエフスキーマニアである彼は、それらの呼称が意味するふたりの関係性について意識せずにはいられなかった。

 できれば自分がこの場を立ち去る一時間後まで、ずっと眠っていて欲しいと思った。いや、本当ならいますぐにこの部室から逃げ出したかったのだが、彼はとどまることにした。普段通りに、たったひとりでいるかのように、この部屋で朝食を食べるんだ。


「だから、いつ、殺すの、人を」

 ソーニャが起き掛けに突然そう口走ったのは、ラスコーリニコフが朝食のパンを半分まで食べかけていたときだった。

「殺すって…? え…?」

「人殺しなんでしょ? ラスコーリニコフっていうのは」

「ああ…、小説のことですか」

「殺すの? きみも」

「あの…、寝ぼけてます?」


 ソーニャはラスコーリニコフの顔をじって見つめていた。獣のような眼だ。ラスコーリニコフもまた、凶暴な獣を警戒するかのような心持ちでソーニャを見つめていた。ふたりが見つめ合っていた時間は正確には5秒から6秒間に過ぎなかったが、ラスコーリニコフにはそれが永遠にも等しく感じられた。やがて耐えきれなくなって彼は視線を逸らした。

「あんぱん、ちょうだい」

 そう言うなりソーニャは、ラスコーリニコフが持っていた食べかけのパンを奪い取り、一口食べた。それはあんぱんではなく、クリームパンだったが、ラスコーリニコフは事前にその事実を伝える機会を逸した。

「変な味がする、このあんぱん。まるでクリームパンみたいな」

「クリームパンですから」

「おはよう」

「あ、おはようございます」

「いま何時」

「8時…15分くらい」

「いつからいた? 早いな」

「いつも8時くらいに、ここ来てるんです」

「そうだ、きみに誕生日プレゼントをあげよう」

「え…。今日ぼくの誕生日じゃないですよ」

 ソーニャは素早く立ち上がると、本棚の脇の長机の上に立ち、棚の最上段に置かれていた黒いバッグを抱え降ろした。

「はい。誕生日おめでとう」

「いえ、誕生日じゃないです」

「なんだっていいよ。とにかくプレゼント。開けてみて」


 ラスコーリニコフに手渡された真っ黒なバッグは、プレゼントというには薄汚く使い古されており、そしてずっしりと重かった。恐る恐るファスナーを開けると、中から異様なものが現れた。


 斧だった。


「なんですか…。これ」

「見てわからない? 斧」

「いえ、そうじゃくて、なんで斧がここに」

「ラスコーリニコフといえば斧でしょ」

「だからってなぜここに斧が」

「ゾシマ長老から聞いたのだけれど」と前置きしてソーニャは話し始めた。

 ゾシマ長老は、現どすけん部員の中でもっとも古くから在籍する部員である。長老と呼ばれるだけあって、過去にどすけんで起こった出来事についてはだいたいなんでも知っている。ゾシマ長老がいったい何年生なのか、何歳なのか、本当にこの大学の学生なのかは誰も知らない。

「どすけんでこれまでにラスコーリニコフと名付けられた人間はきみで3人目なの。1人目はどすけんを創始した初代部長。自分でつくったドストエフスキー研究会で自らラスコーリニコフを名乗るなんて相当イカれた男ね。2人目は初代部長と入れ替わりで入部した、ゾシマ長老の同級生。生粋のドスエフスキー読みで、『罪と罰』を最初から最後まで暗唱できたという伝説をもつ。ふたりには、極度のドストエフスキーフリークであったという点以外に、ある共通点がある。それは、ふたりとも、人を殺しているということ。それも、この斧で。だからラスコーリニコフは呪われた名なの。ラスコーリニコフの名を受け継ぐ者は、必ず人を殺す。そしてきみが3人目のラスコーリニコフだ」

「そんなまさか…。人殺しって、それ本当ですか」

「は!? 疑ってるの!? 私が嘘を言っているとでも!?」

「いえ、疑ってるとかそういうんじゃなくて、だってそんな大学で殺人事件だなんて」

「あ!? じゃあなに、大学じゃなかったらいいっていうの!? 関係ないんだよ! 大学だろうがどこだろうが、殺人なんて起こってるんだよ! いつでもどこでも人類はあちこちで殺し、殺されあってるだろうが!」

「だいだい斧で殺すとかいつの時代の話ですか」

「じゃあなんだ!? 銃で殺すのか、きみは。それともナイフか、毒殺か」


 8時50分。まずい。授業が始まる。

「この話の続きはまた今度。ぼくは授業に行くので」

「待って。忘れ物」

 ソーニャが斧に目線をやる。

「え? これ持って教室に行くんですか」

「当たり前でしょ。そんな物騒なものここに置いておけないんだから」

 これ以上ここで口論をしても時間の無駄だと察したラスコーリニコフは、仕方なく斧を持って出ることにする。ただし、中身が見えないようにしっかりとバッグにしまい直して。

 出掛けようとするラスコーリニコフにもう一度ソーニャが声をかける。

「それで、誕生日はいつなの」

「ぼくの誕生日ですか」

「当たり前だ。自分の誕生日は知ってる」

「9月1日です」

「次の9月1日で19歳?」

「いえ、実は一浪してて、今度20歳になります」

「じゃあそれまでにやっておきな」

「え、何を」

「人殺し。でかいことをやるなら10代のうちがいい」


 ラスコーリニコフがこの日、ソーニャから聞いたことは何もかもが滅茶苦茶だった。とてもにわかには信じがたかった。「呪われた名」なんて、新入部員をからかっているに決まっている。

 だがたしかに斧はこの手の中にある。誰が、なんのために、こんなものを用意したのか。

 重い。腕がちぎれそうなほどに重い。

 このとき、ラスコーリニコフの中でふたつの問いがひらめきのように生じた。深く考察しても仕方がない、けれど彼の人生にとっては決定的な問い、つまりは文学的な問いだ。


 ぼくはいつか人を殺すのだろうか。そしてソーニャ。いつか彼女を抱くのだろうか。

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