ドストエフスキーは死ぬまでなおらない
フレーブニコフ37
第1話 ラスコーリニコフの誕生
そのパンクバンドのチラシっぽいポスターには醜く不正確な文字で、「罪と罰」と書いてあった。
断末魔の黒いミミズをホッチキス止めした上に赤いペンで毒々しくなぞったような醜さだった。そしてこれが「罪と罰」という文字であることは理解できるのだが、よくみると「罰」の上の部分、あみがしらと呼ばれるはずの部分がクサカンムリになっていたり、「罪」の下の「非」の横棒が2本なかったりしているのだった。
しかしこれでもどうにか「罪と罰」と読めるのであり、したがって人間の能力は凄い、と、その前に立つ彼は思った。しかしこんな誤字脱字のポスターを貼っているくせに、ここは大学の一部であってよいのだろうか、とも思った。
ここはタヌキとイノシシが出没する大学の構内である。キャンパスには他に、自然保護林と人工でない沼、人工的な池、水の出ない噴水、子供の背丈くらい雑草が生えている芝生、ノゴイ、ヘビ、カエル、カメ、スズメ、カラス、猫、コンクリートの建物群、石を積んだり積まなかったりするオブジェ、自転車、台車などがあり、さらに何種類かの人間が合計何百人か、つねに行ったり来たりしている。
立っている彼は、その何種類かの人間のひとりである。分類上はある短い期間にのみ発生する「新入生」と呼ばれるたぐいに属する。もっともこの種類は、この時期そろそろ消滅する予定である。
パンクバンドっぽい「罪と罰」ポスターは、傷だらけの汚い扉にはめられたガラス部分に貼ってあった。ポスターの斜め上には斜めに表札が貼られ、「どすけん」と書いてあった。
どすけん。
ためらいつつドアノブに手をのばした瞬間、向こうから扉がひらいた。彼はその、ありきたりの新入生的外見からはびっくりするほど、よく見るとありえないくらいの瞬速で後ろに飛び退った。
「あ、ごめん」
出てきたのは、この大学構内では特徴のない恰好をした、この時期よくいる種類の人間だった。つまり、髪は長くも短くもなく、適当なシャツ、適当なジーンズ、得体のしれないものがたくさん入っているらしき、重そうな外観のバックパックを背負い、片手にペットボトル、片手にスニーカーをもって、水玉の靴下をはいている、男である。
「ここってドストエフスキー研究会ですか?」
「え、なんだって?」
「ドストエフスキー研究会ですか?」
「え、なんだって?」
「ドストエフスキー研究会ですよね?」
「え、なんだって?」
「どすけん?!」
「え、ああ、そうだよ。たぶん」
「たぶん?」
「うん、ごめん、俺よくわからない」
男は扉から外に出て――大学構内は基本土足である――スニーカーをはくと、軽く後ろを向いて「じゃあまた」といい、じっと眺めている新入生の彼に対しても、挨拶ともこっくりさんともつかない頭の下げ方をして、数歩先にある吹き抜けの階段を下りて行った。
ここは3階なのである。
罪と罰の扉は中途半端に開いている。
新入生は意を決して、扉の中をのぞいた。
「すみません、ここって」
そのとたん奥から複数の声が上がった。
「ロシア文化研究会です」
「ソ連文化研究会だ」
「ボルシチ愛好会」
「東方正教を愛でる会」
新入生は悲鳴をあげそうになった。
「ドストエフスキー研究会じゃないんですか? 入部したいんですけど!」
「え、そうなの? じゃあ入っていいよ」
こうして彼はドストエフスキー研究会、略して「どすけん」に入部した。彼こそが、後にラスコーリニコフと呼ばれる人物であった。
「じゃあ、新入生が来てくれたし、まず名前をつけようかー」
とりあえずそういってみたのはソーニャである。どすけんでは、新入部員には名前をつける規則になっている。
「そこの壁に貼ってあるのから、生きてるのを選んでくれない?」
薄い黄色の壁にはウィキペディアをプリントしたものが数枚貼られている。項目は「ドストエフスキー」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」などである。登場人物名がカラフルなマーカーで彩られている。
「マーカー塗ってあるのはもう死んでるから」
「死んでる?」
「死すべき存在につけられてるってこと」
ソーニャは不親切だ、とゾシマ長老は思った。略しすぎだろう。
略しすぎとか、そういう問題ではないのではないか、と新入生は思ったが、ドストエフスキーマニアなので、さっそくドミートリイ、イヴァン、アレクセイの名にまだマーカーがないのをみつけた。これらはまたの名をミーチャ、ワーニャ、アリョーシャという。ロシア人の愛称はややこしい。
「じゃあぼく、アレクセイがいいです」
「ああ、それはダメ」
「でも生きてますよ?」
「その名前は三兄弟か三つ子が入部しないとつけられないことになってるの」
「ええ、じゃあぼくがあと兄弟ふたり連れてきたらいいんですか?」
とたんにソーニャは色めきたった。
「連れてこれるの?」
「これませんけど」
「なんだ…じゃあやっぱりダメ。ちなみに犬とか猫とかスズメとかつれてきて兄弟ですっていいはるのもダメ」
「そんなことしませんよ。だいたい、どうしてドストエフスキーの名前をつけるんですか」
「だって名前ないと困るじゃない? それにここはドストエフスキー研究会だし」
「みんなどすけんって呼ぶけどね」
部屋にいた3人目の人間がいった。眼鏡をかけ、パイプイスに座り、ぶあつい本をカップ麺のフタにのせ、割り箸をかまえている。
「ぼくはキリーロフだ。そこで三兄弟にこだわっているのがソーニャで、そこで息をしているのがゾシマ長老。黙ってマンガ読んでるのがツルゲーネフ」
「カルマジーノフだよ」
「『悪霊』が好きなんですか?」
キリーロフは本をどかし、カップ麺をかき混ぜはじめた。
「ぼくは伸びすぎたカップ麺がすきだし、ドストエフスキーのことは何も知らない。たいてい知らない。この3人はみんなゾシマ長老に名付けられた」
「でもここ、ドストエフスキー研究会なんですよね」
「そうだ。ドストエフスキー研究会だから、みんなドストエフスキーの登場人物の名前をつけることになっている」
「そして?」
「そして全員、ドストエフスキーの登場人物になる」
「そして?」
「人生をおくる」
「そして?」
「以上だ」
「でもドストエフスキー研究をするんですよね?」
「するよ」
ここで、これまでじっと黙って他の会話をみていたゾシマ長老が発声した。他のどすけん部員は安堵した。なにしろドストエフスキーに興味があって入った人間は、現在は誰もいなかったからである。一応部外秘だが、皆、ウィキペディアに書かれた登場人物名しか知らないのだった。どすけんは、その構成員にとって意味も正体も不明な学生団体であった。
なにしろ人生は解釈なのである。
たぶん。
「するから、安心していいよ。とりあえず、名前つけて」
「じゃあ、アントン!」
「アントンねえ…」とキリーロフ。
「トンマな感じだよね」とゾシマ長老。
「そんなトンマな名前でいいの?」
ソーニャが追い打ちをかける。アントンはトンマではない、と新入生は思ったが、先輩には逆らわないでおくことにした。
「じゃあスタヴローギン」
「ヴが入ってると、舌噛みそうになるよねえ」とソーニャ。
「名前呼ぶのは他の人間なんだから、ちょっと気遣ってよ」とキリーロフ。
「ただでさえ覚えにくいんだからさあ」
「好きなの選べるんじゃないんですか?」
「なまじ詳しいと面倒だなあ」
そうゾシマ長老がつぶやいたのは、全員に聞こえていたが、もちろんひとりごとのつもりだったのである。誰も新入生を傷つけたいと思っていないし、誰も空気が読めないつもりはないのである。
しかし新入生は少し傷ついた気分になっていた。少なくとも、そんな気分にならなくてはいけないのではないか、と思った。
広くもない部屋の空気が一瞬重くなった、ように、少なくとも、新入生は思った。
ああ、ぼくは失敗した。やっと、ドストエフスキー好きの集団に出会えたと思ったのに。ぼくの人生は、すべて失敗だ。
もちろんこれは誰にでもおきるただの認知のゆがみであり、たまたま変な学生サークルに出会ったからといって、人生がすべて失敗になることはない。
そして、たまたま出会った学生サークルの従来の住人は、誰も新入生の認知のゆがみなど、気にしてはいなかった。
「やっぱりラスコーリニコフでいいんじゃない?」
「そうよね。いま空席だし」
「罪と罰のポスター貼っててラスコーリニコフがいないってのも片手落ちだしね」
「やっぱり一番の有名人だしなー」
ああ、やはり失敗だった、と新入生は思った。なぜなら新入生は、ラスコーリニコフとだけは呼ばれたくなかったからである。遠い昔、深い傷を負ったことがあったのである。ここはひとつ、先輩に逆らってみるべきではないか。
しかし、間に合わなかった。
「ぼくはラスコーリニコフは…」
「ラスコーリニコフね」
「きみはラスコーリニコフだ」
「じゃあ、よろしく。ラスコーリニコフ」
「やっぱりラスコーリニコフがいないと、どすけんらしくないよねえ」
こうして、この日、タヌキとイノシシが出没し自然保護林と人工でない沼・人工的な池・水の出ない噴水・子供の背丈くらい雑草が生えている芝生・ノゴイ・ヘビ・カエル・カメ・スズメ・カラス・猫・コンクリートの建物群・石を積んだり積まなかったりするオブジェ・自転車・台車などと何種類かの人間合計何百人かがうろうろしている大学キャンパスで、これまで種類「新入生」だった人間のひとりが種類「どすけん部員」となり、「ラスコーリニコフ」と名付けられたのだった。彼の未来は誰にもわからず、人生は、解釈である。
つづく。
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