ヨワイボクノウタ

星永静流@ホシ

第1話 ヨワイボクノウタ

 ヨワイボクノウタ

the134340th

 

ある朝僕は家出をした。といっても一人暮らしをしてるのだけど。最近彼女が僕の部屋に転がり込んできて、一人の時間が減ったからなのかもしれない。一人でどこへも当てがないまま街の中をぶらつく。そうだ、海に行こうと決意をしたのはお昼に散歩して見つけたとんかつ屋さんのテレビに映った海を見てだった。まだ白昼だ。このまま海へ行けば夜には帰ってこれるだろう。そう、一日だけの家出だ。

 僕はいろいろな事から逃げていた。仕事のことと彼女のこと。それから十三秒先未来のこと。僕こと涼太はここ五年ほど働いてる職場でだいぶ追い込まれていた。好きなパソコンの前でやる仕事は肉体的には楽だが、仕事の量が多くて精神的にくるものがあった。それから彼女こと橙子のこと。彼女はいい家の子で、いい大学いい就職先に通っており、僕とは大違いだった。僕の給料二十三万、彼女の給料三十万以上。僕のボーナスは給料一ヶ月分、彼女のボーナスは給料三ヶ月分。彼女と付き合ってる分には楽しいが、コンプレックスを感じていた。彼女は可愛いし仕事はできるし、才色兼備だった。一人暮らしをしている僕の部屋にはあっという間ににか彼女のもので溢れかえって、僕のものはだんだん減っていった。

吐く息が白く濁る季節に海に行ったことがない僕にとって冬の海は新鮮味があって、それはそれで楽しみだった。僕はメトロ副都心線に乗って平和台から池袋まで出る。ガタガタと揺れる電車の中には中高生ぐらいの若い子が笑いを交えて話ているのと、いい歳をした女性が鏡を出して化粧をしている。僕はそれを片隅で見ながらレールの軋み立てる音とごうごうと鳴る暖房に耳を澄ませて、携帯に表示される地図と海までの情報とにらめっこをしていた。電車の中は少しカビのようなにおいがする。携帯を弄っていると携帯が震えた。橙子からだ。

「今日休みじゃないの?」

 僕は少し悩んでから無視をすることに決めた。今はそういう気分じゃない。僕は家出をしてるのだ。

メトロ副都心線からJR湘南新宿ラインに乗り込む。ごみごみとした人で溢れた池袋駅には僕の職場がある。初めのうちは仕事が楽しかった。プロジェクトの成功に達成感もあるし、どこまで行っても先が見えない仕事だったからやりがいもあった。カタカタと叩くキーボードにも、左手で動かすマウスにもこだわりが出てきた。ただ最近の仕事には客先に交渉をしに行ったり、自分でもわからない分野を後輩に教えたりと、自分が望んでない方向に仕事が進んでいた。先輩にもっと僕は現役でやりたいと説得をしたものだが、これも昇進のためなのだと力説された。

僕は横浜の近くまで来た。ここからは歩いて行こうと決めたのは、これは一日限りの旅だと気づいてから。彼女と出会ったのは仕事でだった。橙子は初めはおとなしい子だった。今だからだろうか、こんなに甘えてくるのは。仕事は淡々としているけど、内容は密が詰まっていたし、彼女は営業に向いているルックスや仕事の手際の良さ辺りができるのだと感じさせられた。彼女に仕事のことを相談したら、ある程度意味が通じなくても論理的な考え方でアルゴリズムを一から考えさせられたし、それが他の出来事や、恋人的な喧嘩でもよく論破をさせられたものだ。だからだろうか、最近僕が彼女の前で億劫なのは。別に彼女と別れたいと思っているわけではない。彼女が望むなら結婚だってしたいし、少しでも彼女と一緒にいたい。ただ今は少し居づらい。それだけだ。

海が近くなって空が赤みを増しだした。もう夕方だ。夕焼けの空の海は僕が想像していたよりも綺麗だった。赤と青のコントラスト、一定のリズムを奏でる波、キラキラと光る砂。でも思ってしまう。これが本当に僕が見たいものだったのだろうか。ただ逃げて転がって、行きついた先が海だなんて。ここまで辿り着いたら僕には何もないじゃないか。帰ろう。明日からも仕事だ。今日という大事な休日を一日無駄に使ってしまったのかもしれない。僕は難解な日常で単純な答えを探していた。この先待つ明日が明るく輝くだろうか。そう信じてもいいのだろうか。

僕は夕ご飯を食べに近くの喫茶店に寄った。一人のおばあちゃんが経営してるのだろうか。とても古くて、とても懐かしいにおいがした。そのおばあちゃんにカレーライスと甘めのコーヒーを頼んで携帯を眺める。帰るころには夜だ。彼女はきっと僕の部屋でふてくされているだろう。

「あなたみない顔ね。遠くから来たの?」

 おばあちゃんに声をかけられた。誰もいないからだろうか。

「はい、東京の西の方から」

 ふーんとおばあちゃんは肯いてカレーを温める。

「家でしてきたでしょ」

 僕は思っていることをおばあちゃんに心を中のことを当てられてびっくりした。そういうことが顔に書かれてるみたいに図星だった。

「はい……」

 僕はおばあちゃんの顔を見た。アッハッハッハとおばあちゃんは笑う。

「その、どうして、わかったんですか?」

 少しどもった。

「アッハッハッハ。そんなもんよ、冬に海に来る人たちはみんな。崖の上に立たないだけましねえ」

「そうですか……」

 僕は俯いた。

「何をそんな暗い顔をしてるの?」

 話そうか、話すまいか僕は随分悩んだ。しばらく二人の間には沈黙が漂っていた。でも僕はここまで来た理由を話した。

「実は……」

仕事のことと彼女のこと。そして十三秒先未来のこと。おばあちゃんはまたアッハッハッハとまた笑った。

「そんなこと誰も悩むさあ」

 それに、とおばあちゃんは告げたす。

「そんなこと昔の人だってそうさあ。みんなそうやって悩んで生きてきた。私だってそうさあ。私だってこれから先のことでわからないことばっか。それでも何とかなるものだよ」

 おばあちゃんは少し訛りを交えながら言葉を放った。そうかもしれない。でも……。

「変わらない僕も、未来とかそういう類のものも信じていいのでしょうか」

 僕には自信がない。彼女のことをこれからも信じ歩けるだろうか。この薄給で将来二人で安心だろうか。十三秒先もわからないようじゃ、この先無限に派生する未来を作れないのじゃないか。そう思った。でもおばあちゃんは

「自分の不完全さを認めることはなんの弱みでもないのよ。それは強みさあ。あんたが思ってることは、180度真逆のことだよ」

 おばあちゃんはそう言ってコーヒーとカレーライスを出してくれた。とても懐かしい、母親が作ってくれたようなジャガイモがゴロゴロとしたカレーライスだった。「今度は彼女さんも連れてきなね」そうおばあちゃんは言って僕はその店を去った。

少し駆け足気味で駅へと向かう。橙子にメールで「今日はごめん」と伝える。そしてもう一言「橙子に言いたい言葉がある」と付け加えた。僕のしてきたことは回り道かもしれない。でも助走は長い方が高く飛べるのだ。



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