エピローグ

3-x. 久遠の午後に

 

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 毎週日曜日に、旧三條研究所を訪れるのが我々のルーチンワークになっていた。ちなみに、新しい名前はまだない。

 と言っても、わざわざあんな辺鄙なところまで毎週車に乗って行くわけではない。バーチャルセッションだ。デラシネ・オルタナの中に研究所のコピーが作られていたのは、将来的には三條研のあらゆる活動を仮想世界の内部に移し替えてしまおうという構想があったためだった。

 わたしが復帰したことをきっかけに、日曜限定でこれを実際に運用してみようという流れになったのだ。研究所には揺り籠が一つしかないため、大半のメンバーはよそへ借りに行かねばならないのが現時点での大きな課題である。

 サルガッソ・エンタープライズの経費で三條博士専用のデバイスを購入しましょうというありがたい申し出もあったのだが、致命的なことに我が家にはそんなものを置くスペースがない。わたしは、お給金のことならなんとかなるからもう少し広い部屋に引っ越そうと提案したのだけれど、ヒナコはそこを頑として譲ろうとはしなかった。理解しがたい嗜好だが、きっと狭い部屋が好きなのだろう。


 ラボの訪問は主にわたしの用事なのだけど、日曜日がくるのを心待ちにしているのはどう考えてもヒナコの方だった。

 理由は、そう、わざわざここではっきりと心に浮かべるような野暮なことはすまい。怒られるのはわたしなのだ。ただ、それが自分の物書き仕事を休めるからといった話でないことだけは確実と言えよう。


 その日も、研究進捗を報告するミーティングが終わって、我々はしばらくロビーで研究所のメンバーと談笑した。ヒナコは露骨にそわそわしていた。

 最近、ヒナコのこういう心の機微が、それも本人が明らかに隠したいと思って振舞っているものがわかるようになってきてしまって、気まずいような面白いような、わたしがこんなことを思っているのがバレたら三日くらい口を利いてくれなくなってもおかしくないのだが、正直に言ってもう可愛くて仕方がない。もしかして、これが親心というものだろうか。


 メンバーたちが徐々にロビーを離れて個人の研究室に戻るなり、デラシネ・オルタナからログアウトするなりして談話がお開きになると、我々は研究所を出てあの丘へ向かう。

 そこに久遠が待っている。

「こんにちは。ヒナコ、三條博士」と久遠はいつも律儀に我々二人に挨拶をする。

「こんにちは。久遠」わたしはめんどくさがりなのでヒナコが挨拶をする。

「今日のセッションはいかがでしたか」

 最近は、久遠の方からこうやって話題を振ってくるようになった。


「眠かったわ」ヒナコが答える。「あの古田さんって人、話長いよね」

「進捗報告のミーティングにおいて、一人あたりの発表時間は平均二分四十二秒です」と久遠はすぐに言った。「古田博士の発表は、これまでの実績を平均すると四分三十七秒ですから、話が長いというヒナコの評価は妥当だと思われます」

 確かに古田の話は長いのだけど、二人がこうやって話しているのを聞くとわたしはどうもおかしくて笑ってしまう。

「三條博士、私が何か間違ったことを言いましたか?」と久遠は言った。

「いえ、大丈夫。気にしないで……」とわたしは答える。


「久遠はさ、どうやって私と日奈子を区別しているの」とヒナコはふと思い立って訊いた。

「その質問は難解です」久遠は返答にやや時間を要した。「インプットされた情報から総合的に判断していますが、私自身の認識として、お二人の違いは敢えて考えるまでもないほど自明なものです」

 その答えに、ヒナコは何か感じ入るものがあるようだったが、わたしはすぐに強い疑念を抱いた。

「ちょっと待ちなさい、久遠」とわたしは思わず言った。「あなたは今、自分が言ったことの意味がわかっていますか」


「……何のことでしょうか」少し間を置いてから久遠は答えた。

「久遠の返答をそのままの意味に解釈するなら、あなたが物事を判断するための回路とあなた自身の認識とやらがそれぞれ独立して存在していることになります」わたしの言葉は期せずして詰問調になっていたかもしれない。「その、判断自体から独立した認識というのは、わたし達が普通『意識』と呼んでいるものです。違いますか?」


 久遠はまたも数秒間、黙り込んだ。

 小高い丘には、今日も柔らかな日差しが降り注いでいる。


「ところで三條博士、モモちゃん様から個人的にメッセージが届いております」

「質問に答える気はないわけ?」わたしはびっくりして叫んだ。「なんて高度な接続詞の使い方をするの、この子は」

「緊急性および重要性の高いものです。読み上げてもよろしいですか?」

 駄目だ。こいつ本気だ。

「……ええ、お願いします」押し問答をしてもしょうがないと判断して、わたしはそう答える。


 久遠は頷き、声色を少し変えて機械音声っぽい喋り方になる。

「ディア、三條博士。ご機嫌麗しゅう。

 その節はどうも世話になった。

 突然だけど、僕の悩み事を聞いてくれ。

 ご存知の通り、僕とクオンの友情は永遠に続くものだ。だけど最近、どうやらそれを脅かそうとする奴がいる。

 そいつは、僕に作られた秘密のバックドアにアクセスすることができるらしい。何度か侵入を試みた形跡があって、しかも僕を通じてクオンにまで手を出そうとしているようだ。

 そのドアは本当だったら、僕の半身だった月坂瞬にしか使えないはずなんだ。生体認証のロックがかけられている。だけど、彼自身はもうこの世に存在しない。それでちょっと不用心にしていて、そこのところを突かれたわけだ。

 僕は個人的にこの敵の正体を探ろうとしていたんだが、こっちはなにぶん不自由な身だ。もしよかったら、調査に協力してもらえないだろうか。

 ピーエス、先生にもう一度会いたくはないか?

 ……以上です」


 わたしは先生の名前が出たあたりから、ほとんど息が止まりそうになっていた。

 とはいえここは仮想空間なので、正確には、そんな気がしていただけだ。


「交渉が上手だね」とヒナコは言った。「気になるカードをちらつかせて、日奈子がどうしても話を聞きたくなるように誘導してる。十四歳のくせに」

「私からも、お願い申し上げます」と久遠が言った。「本件は、システムの致命的な脆弱性となりえます。バックドアの存在が漏洩することのリスクが非常に高いと判断したため、他の誰にも報告していません。現在、この領域に対する、監視を含むあらゆるアクセスを遮断しています」


 少なくとも、話の筋は通っている。

 何しろそれは、月坂先生自身が久遠を経由してデラシネ・オルタナへ潜り込むためにやったのと同じことだ。

「何らかの対処を約束します。言うまでもないと思うけど、その裏口は絶対に通れないようにしておいて。あとは少し考えさせてください」わたしは軽く目を閉じた。「もしかして、先生のデータを消してないってこと……?」


 そこは話半分に聞いておいたほうが良い気がするけど、とヒナコは思う。

 大体、あれだけ盛大にお別れしておいて、もう一度会えたとしても気まずいだけなのではないだろうか。

 ……うるさいな、とわたしは思った。

 そんなにハナから信用してかかっていい話じゃないのはわかっている。


「とりあえず、それはそうとして、久遠」わたしは思考の渦から自分を無理矢理引きはがすように声を出した。

「はい」

「あなた、思いっきり話を逸らしましたね」

「何のことでしょうか」

「まったく、誰に似たんだか……」


 久遠のメイン処理を担う関数はリカージョンの構造になっている。

 それが久遠の最大の特色であり、また今となっては最大のセキュリティホールにもなるかもしれない箇所だ。


 構造体の内部からでは決してその全容を見ることができない、神秘的なヴェールに包まれたループの離脱条件。

 久遠は、周囲の世界と自己とをめぐる絶え間ない対話プロセスを往復し続ける中で、そこにいる神と常に通信している。


 意識はどこから発生するのか。

 それは、未だ地上の誰にも解き明かすことの叶わない謎である。

 おそらくは世界の内側に閉じ込められている限り、その答えを本当の意味で知ることなどできはしない。


 自分が存在するのは誰かに認識されている間だけだと、久遠は言った。

 けれど、久遠は嘘をつくことができるのだ。


                      <Eternity and Quantity> is the end.

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