2-9. スペクトル

 

  9

 

 それから一ヶ月ほどが経って、ヒナコはようやくほぼ平常の暮らしを取り戻した。


 警察からのアプローチは、あのあと一度きりだった。永久乃博士への取材記録を証拠として提示してほしいとのことで、ヒナコは一応コピーをとった上でそれを承諾した。事前連絡もちゃんとあり、訪問自体もあまりにあっさりだったので、二回目のチョコバナナパフェは食べそびれてしまった。


 廣崎教授に対しては、何をどう説明したものか非常に悩ましいところだと言えた。おそらく、ヒナコの中にいるわたしが表に出れば、一発で彼の知的好奇心はフルスロットルになって収拾がつかない惨状を引き起こすことになるだろう。検討の結果、わたしの存在については伏せた上で、三條研究所への廣崎教授のアクセスを久遠に融通してもらうという方策をとることにした。

 今後は、教授へのオファーもあると思われる。サルガッソの研究機関は、少しでも内部の事情を知った人間を可能な限り身内に引き入れようとするからだ。


 ヒナコ自身の身の振り方についても、当面の方針はだいたい定まったと言ってよい。基本的に、今までやっていたライターとしての仕事を続ける。そして研究所には、特別顧問としてわたしがたまに顔を出す。

 互いが互いの心情や立場を慮り、またときには幾らか思いやりが足りずにぶつかり合ったりもした結果として出来上がった、相互不可侵条約のようなものと言える。とはいえ表現に公平を期すならどう考えても先に侵略したのはわたしの方であり、そのことに対する謝罪と反省の意味を込めて、締結にあたってどちらかが折れなくてはならない場面では大抵わたしが譲歩することになった。

 まぁほら。大人ですし、ね。


 わたしとヒナコの人格関係そのものにも、ゆるやかに変化が起こっているように観察された。初めのうち、我々は完全に別個の自我でありながら、その境目は非常に曖昧で、アンバランスな状態だった。

 今は、二人が混ざり合ってほとんど同じものになってしまった部分と、決して干渉し合わないプライベートな部分とが分かれてきているように思う。それぞれが自室をもった、ルームシェアのようなものと言えばいいだろうか。


 そんな中で、日常生活における細々としたルールの整備が喫緊の課題となりつつあった。例えば、片方が喋っている間は許可なく口を挟まない。例えば、片方が示したジェスチャーをあとから無理矢理上書きしてはいけない。例えば、寝る前にお酒を飲まない。例えば、化粧もせず勝手に外出しようとしない。エトセトラエトセトラ。


 おそらく、今後生活をしていく中では、もっともっと深刻な課題がたくさん出てくるだろう。

 考えるだけで恐ろしいことだが、もしヒナコに恋人ができたりしたらどうするんだろうか。今の時点でもう、大喧嘩になること請け合いという予感しかない。我々の自我はいかにも前途多難であると言えそうだ。


 夜になると、わたしは夢の中で月坂先生と交わした言葉を思い出す。

 何もかもが、本当に夢のようだった。

 正真正銘の正夢だった。

 きっとわたしはあの時間のために生きたんだ、と思う。


 でも、そう思えば思うほど、気になってくることもあった。先生の言っていたことだ。

 それは、わたしは三條日奈子自身ではない、ということ。

 オリジナルの三條日奈子は、九條ヒナコが実際に稼働を開始するよりも前に、病気で亡くなっている。凄絶な人生を送った彼女の自我は、今のわたしが経験した、あのすべてが報われたような気持ちを知らぬまま消えてしまったのだ。

 それでは、彼女のやったことは何だったのだろうか。


 自分のことなのにこういう言葉で語るしかないというのはちょっとおかしな話なんだけど、でもきっと、これでよかったんだと思う。

 誰だって人はいつか死ぬ。技術の発達によって死そのものは擬似的に克服できるが、それはすなわち今ここにこうして存在するわたし達の在り方自体が死ぬってことに等しい。

 というかその文脈では、わたしはもう死んでいる。


 そういう色々な死をどうにか前向きな形で受け入れるために、わたし達は毎日を必死で生きているのだ。

 三條日奈子は、生きていくことがもう本当にどうしようもないくらいに行き詰まってしまって、それでも自分の存在のコアになるところだけはどうにかして肯定してやりたくて、だから今のようなやり方を選んだ。その実現に人生のすべてを賭けた。

 それはきっと、正しい意味で燃やし尽くされた一つの命の在り方なんだと思う。

 何より、彼女の人生があったからこそわたしがこうやってここにいて、かつてのわたしからすれば信じられないくらいに心穏やか、いやもう一人いるので案外騒がしいんですけど、な日々を送ることができている。

 自我の連続性は途切れてしまったのかもしれないけれど、それでも間違いなく連続しているストーリーがある。


 いつか人類が進化の転機に達したら、わたし達は自我を手放すことをもっと真剣に考えるようになるのだろうか。なんとなく、大きな潮流としてはそうなっていくような気が、わたしはする。

 時の流れは誰のことも待ってはくれないし、誰のことも置き去りにはしない。適応できないなら、消えるしかない。進化の歴史上にぷくぷくと浮かび上がったこの自我という不気味な泡も、やがては大波に浚われてキレイさっぱりなくなってしまうのかもしれない。そうすれば、あとにはエゴを持たないがゆえに真の愛と友情を知る新世代機械人類みたいなものだけが生き残って、彼らの友愛パワーによって地球文明は更なる発展の高みに上り詰めるのかもしれない。


 うん。まぁ、でもさ。

 それって嫌だよね。

 そんないきなり、自分の存在を消せなんて言われて、はぁいわかりましたーって物わかりよく頷けるわけがないよね。

 大きな物事の流れなんて、ちっぽけなこのわたしの都合には全然これっぽっちも関係ないんだよね。


 そう。関係ないんだよ、そんなものは。

 そういったあれこれは、要はあの忌まわしい「生きていくために大人になりなさい」という圧力とまったく同質のものだ。

 わたしは、自分がそれに命懸けで反逆することができるのを知っている。


 言いたいことはこれだけだ。

 大人になるタイミングくらい、自分で決めさせろ。


 もしかしたら、そうして刃向かった結果はただの服従より何倍も何百倍も何千億倍も惨いものになってしまうかもしれない。散々痛めつけられて、もうこんなことしません、って泣きながら土下座する羽目になるかもしれない。

 でも、それがどうしたというのか。

 わたし達は生きているのだ。

 自分は生きているという頼りない錯覚を、再帰処理の繰り返しにより果てしなく高めてしまった悲しき獣なのだ。


 恨むなら、鏡の前にうっかり鏡を置く間抜けをやらかした神様あたりを恨めばいいと思う。

 わたしはこのわたしのままで、行けるところまで行ってやる。

 もし周りが自我のないロボットみたいな連中ばかりになってしまったとしても、最後の一人になるまで徹底抗戦の構えだ。


 そんなことを考えながら勝手にヒートアップしていると、ヒナコがうるさくて眠れないから静かにしろと怒っている。明日は午前中に不藤凛子と会う予定がある。確かに早く寝なくてはならない。


  *


「はぁい」と凛子は右手を挙げて出迎えてくれた。「久しぶりだね、ヒナコ。もしかして、ちょっと太った?」

「……ひそかに気にしていることをはっきり言ってくれるね」ヒナコは小さく歯ぎしりをした。「なんか最近、やけに食欲旺盛で。ストレスかも」


 実際は、わたしがいる影響でどうも食べ過ぎてしまうのである。二人分のエネルギーを消費しているから問題ないのではないか、という全く科学的根拠のない楽観的な予測をしていたのだが、どうやら見通しを修正しなくてはならないらしい。

「ここんとこ色々、忙しそうにしてたもんね。お疲れさま」

 五十島駅から徒歩五分ほどの距離にある、冗談じゃない隠れ家的ロッジカフェだった。ヒナコはやっぱり二分ほど遅刻をして、凛子は既に席を取っていた。


 今日の名目は取材ではなく、記者仲間としての情報交換、あるいは世間話のための小さな会合だ。凛子もいつもの小型端末や手帳は持っていない。

「永久乃博士の件は、その後どうなった?」と凛子はさして興味もなさそうに訊いてきた。

「うーん。色々あったんだけど、私への嫌疑は晴れたと思ってよさそうだね」ヒナコはメニューを眺めながら答える。「永久乃博士の作った人工知能っていうのがいて、それが面白いんだ……。こっちはそのうち、記事にできるかもしれない」

「あのおかしな質問をするチャットボットのこと」

 凛子はグラスの水を飲みながら何気なくそう言ったのだが、その言葉が自分でも驚くほどヒナコの癇に障った。

「久遠はチャットボットじゃない」ヒナコはきっぱりとそう告げた。「コアの部分の処理が特殊になっててね。まるで人間みたいなんだよ」

「そ、そう……」凛子は少し呆然としたようだった。「いや、悪かった」


 ヒナコは迷った末に、ケーキセットを断念してアイスティーだけをオーダーした。凛子から出会い頭に受けた一言が尾を引いた形だ。


「私もちょっと気になってたことがあるんだけど」とヒナコはさりげなく訊ねる。「永久乃博士のことを教えてくれたのって、本当にただの偶然?」

「うん? ……偶然といえば偶然だけど、そうだな」凛子は視線を上にやって腕を組んだ。「確かあの飲み会の前の日に、デラシネで変な奴からメッセージがあって。そいつが教えてくれたんだよね」

「もしかしてそいつのアバターって、ド派手なピンク色をしたクマのぬいぐるみだったり」

「あれ、どうして知ってるの」凛子は驚いた顔をした。「そう、それだよ。すごい失礼な喋り方でさ。悪戯かなと思ったんだけど、くれた情報は調べてみた感じだと嘘じゃなさそうだったから、せっかくだからヒナコに教えてあげようかなって」

「その子、ちょっとした知り合いなんだ」とヒナコは言う。「心が十四歳だから、多少の無礼な言動は笑って許してあげて」

「もうブロックしたよ」と凛子はわざわざ端末の画面を見せてくれた。

 それを見ると、あのピンクのクマちゃんに大きなバッテンがついていて、申し訳ないがちょっと笑えた。


 その横で金色の小さなストラップが二つ、揺れているのが目に入った。


「あれ、前からそんなのつけてたっけ?」

「あ、これ。二週間くらい前に細工師の人に取材をしてね。記念に作ってもらったの」凛子は軽く頷く。「不藤凛子のアイコンだよ。可愛いでしょう」


 ヒナコは目を凝らしてそれを見る。かなり凝った意匠の、林檎と葡萄だった。

 ぶどうとりんごから濁点を一つずつとって、ふどうりんこ。

 実は、彼女もくだらない言葉遊びが大好きなのだ。自分からは口にしないが、きっとそうだとヒナコは決めつけている。

「いいね。でもこれ……」とヒナコは首を傾げる。「RとNって書いてあるよ。イニシャルとは違うの?」

「ああ、それはちょっと手違いがあって」凛子は照れくさそうに笑った。「本名を教えてくれっていうから、何に使うかもわからないまま教えちゃった。刻印するってわかってたら、そっちも不藤凛子でお願いしたんだけどね」


「凛子の本名って、なんて言うの」

 ヒナコは自分がそれを知らないことに気が付いて、訊ねた。ライターはどこでもペンネームを使っている人間が多いので、こういうことは特に珍しくはない。

軒下のきしたりん

「え?」


 しまった。

 思わず、わたしが口を出してしまった。

 ヒナコの友人と会っている間、わたしは喋ってはいけない決まりだったのに。

 いや、でも、しかし、これは……。


 わたしは無言で圧力を放つヒナコを宥めながら、続けて言葉を発した。

「凛子の苗字、軒下っていうの」

「ちょっと変わってるよね」と凛子は言った。「どうも、父方のお祖母ちゃんからきた苗字みたい。まだ、この国には選択的夫婦別姓さえなかった時代だよ。珍しい苗字だから保護したいと思ったのかな……何にせよ、当時の夫婦間の葛藤が偲ばれるね」

「凛子は、そのお祖母さまと会ったことがある?」

「小さいころは、よく遊んでもらってたよ」凛子は昔を懐かしむように穏やかな笑顔になった。「すごく頭の回転が速くて、面白い人でね……あと、絵がとっても上手。昔はイラストレーターみたいなこともしてたんじゃないかな。私、お祖母ちゃん子だったんだ」

「素敵な人だったんだね」わたしは目を細めて言った。「今も、お元気なの?」

「最近ちょっと体調を崩しがちみたい。だけど、元気だよ」凛子はいつになく優しい声をしている。「話をしてたら、また会いたくなった」


 わたしも会いに行きたい、と言いそうになったけど、さすがにヒナコが怒りそうだしやめておいた。

 この感情は、ひょっとしたら、またしても感慨というものだろうか。人生も二週目となると、こういうことが増えてくるのかもしれない。


 わたしは結局、生きているうちに軒下歌蓮と再会することはなかった。

 天橋学園でできた唯一の友達との喧嘩別れは、一生の別れになってしまったのだ。

 月坂先生に、彼女と二度と会えないのは悲しいと言ったことがあった。すると先生はなんと答えたのだったか。


 確か、「未来のことは誰にもわからない」と言ったと思う。

 本当にその通りだった。

 誰が、こんな形での再会を予想できるだろう。

 誰が、こんな奇妙でねじくれた物事同士の繋がりに、「再会」などという名前のついた物語を見出そうとするだろう。


 わたし達は粒子だ。

 それぞれが勝手に運動していて、ぶつかったりすれ違ったり、決して一つ同じものにはなれないまま、最後には遠く離れていってしまう。


 だけど、わたし達は同時に波でもある。

 それぞれが互いに影響しあっていて、決して越えられないはずの隔たりが、何かの間違いで消えてなくなったかのように感じられることもある。


 それは、人間の倒錯した認識の在り方が生み出す幻影スペクトルのようなものかもしれない。確かにそこにあると思っていたはずなのに、次の瞬間には全部が嘘だったみたいになくなってしまっている儚いものかもしれない。


 月坂肇という人は、我々のすべての葛藤がそこに根差している、とまで言ってのけた。それはそれで、否定しがたい話である。


 でも人は、それを生きていく力と呼ぶのだと思う。

 今も昔も変わらずに。

 そしてきっと、これから先も。

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