2-8. 人殺しをめぐる論議(Ⅲ)

 

  8

 

 幼い月坂瞬は、利発な少年だった。

 好奇心がとても旺盛で、身の回りに溢れかえっている不思議な物事を見つけ出し、それを探求できる素晴らしい能力を持っていた。

 退屈などという言葉とは、これっぽっちも縁がなかった。どこを見渡しても、この世界は面白いものばかりだからだ。


 ただ、友達と仲良くすることは苦手だった。

 周りの友達は、瞬のようにありふれた不思議を面白がることはなかった。その代わりに彼らはいつも、何か瞬の目には見ることのできないものに関心を向け、熱中しているようだった。

 そのこともまた不思議で面白いと瞬は思ったのだが、友達はそうではないらしかった。瞬は孤立しがちな子どもになった。


 しかし、寂しくはなかった。瞬には大好きな父親がいたからだ。

 父は科学者で、驚くほどたくさんの知識を持っていた。瞬が不思議を見つけて父のところへ持って行くと、嬉しそうな顔をしてその不思議について一緒に考えてくれた。父と一緒に考えると、ただの不思議が膨れ上がってもっとすごい不思議になることもしばしばあった。そういう時間が、幼い瞬にとっては人生の至福だった。

 ところが、そんな二人の関係はある頃を境に変わっていった。


 元々、父は非常に先進性の高いテーマで画期的な成果を上げてきた偉大な科学者だったが、どうやら更に深いところへ歩みを進めようとしているらしかった。彼は研究室に篭りがちになって、瞬と顔を合わせる時間は次第に減っていった。

 瞬が小学校六年生の頃、久しぶりに父が休暇をとって、家族で食事に出掛けたことがあった。そこで瞬は、そのときに抱えていた不思議を父にぶつけてみた。


「なぜ、人を殺してはいけないのですか」と瞬は言った。

「なぜ、なぜ、人を殺してはいけないのですか、と問うのだね」と父は答えた。

 それは、瞬にとって非常に難しい答えであり、問題だった。

 三日三晩悩んだが、父が何を言おうとしたのかはわからなかった。


 父の研究室に初めて呼ばれたのは、それから一週間ほど経った後だった。瞬は白い部屋でヘルメットを被らされ、上着を脱いでよくわからないコードの先にくっついた吸盤を身体中にぺたぺたと貼られた。

 そのとき、「瞬はポストマンになりたいか?」と父は訊ねた。

 質問の意味がわからなかったので「わかりません」と答えると、父は「いずれわかるようになる」と言った。


 それから定期的に、父の研究室に呼ばれるようになった。与えられるのは、計器のようなものを取り付けられてしばらくじっとしている、という任務が大半だった。たまに簡単な知能テストのようなものもあったが、何であれどこも痛くはなかったし、父に会うことができるし、帰りには美味しいご飯を食べさせてもらえたので瞬には何も文句はなかった。

 父がどのような研究をしているのか、瞬はとても興味があったし、父も折に触れて教えてくれてはいたのだが、なにぶん難しすぎてきちんと理解することはできなかった。それでも彼がポストマンなるものの誕生を目指していることと、それが人類史上に比類のないほど偉大な研究であることは徐々にわかってきた。


 二年ほど経ったある日、父は「今日のプログラムは特別だ」と言った。何が特別なのですかと訊くと、彼は「とうとうポストマンが生まれるんだ」と興奮ぎみに語った。

 瞬は種々の念入りな検査を受けたあと、白くて丸っこい、卵みたいな形をした機械の中に入ることになった。

 卵の中は暗くて、少し怖かった。でもすぐに眠くなって、目が覚めると研究室の白いベッドの上に寝かされていた。

「よくやった、瞬」と父は言った。「成功だ……これは間違いなく、ポストマンだ」

 それを聞きながら、もし父の研究が上手くいったら、また昔のように一緒に遊んでもらえるだろうか、と瞬は考えていた。


 そうして、更に何年かが過ぎた。父のワーカホリックは良くなるどころか、どんどんエスカレートしていった。

 瞬もずいぶん成長した。高校生だった。相変わらず人付き合いは得意ではなかったが、なんとか上手くやれていた。ガールフレンドのようなものもできた。どういうわけか、彼女は瞬のことが好きでしょうがないようだった。悪い気はしなかった。


 父の研究への協力は続けていたが、同時にそれが人の道を外れたものなのではないかという思いも持つようになっていた。

 瞬には、人の道を外れる、ということの意味がよくわかっていたわけではない。だから、父が悪人だと考えたのではなかった。でも、このままでは何かとてつもなく恐ろしいことが起きるのではないかという予感があった。

「ポストマンは生きているのでしょうか」とあるとき瞬は父に訊ねた。

「生きているとも」と彼はすぐに答えた。「どうしてそんなことを訊く?」

「ポストマンは、死んでも蘇ることができます。その状態は、客観的に見れば不死と同義です」

「そう、その通りだ」父は満足げに頷く。

「それを生きていると定義するなら、なぜ、人を殺してはいけないのですか」

「その問いは無効だ」と父は言った。「人は人を殺すことができる。そして、人殺しに意味などない」

「そうですか」と瞬は呟いた。


  *


「結局のところ、僕が父を殺した動機は……怨恨のようなものだった、と言えるだろう」と月坂先生は言った。「ポストマンになるということの意味を、父と同じように考えることはできなかった。彼は息子に永遠の命を与えようと思っていたのかもしれないけど、僕にはそれは間違いだとしか思えなかった」

「先生は、ずっとそのことを隠して生きていたんですか」

「自首をするという選択肢は僕にはなかった。それは最大の逃避だと思った」先生は静かに告げる。「だけど、ずっと考えていたことはある。第一に、果たして父を殺したのはいけないことだったのか?」

 ヒナコがまた何か言いそうになったけど、わたしはそれを押し止めた。


「それは突き詰めてしまえば、自分が殺されたくないという欲求に根差した行為だ。つまり、殺人そのものに対する否定的な価値観は共有できている。その点を敢えて議論する必要はない。今回のケースは、自分が殺されることと自分が他人を殺すことの二者択一でどちらを選ぶかという問題に置き換えてもいい」先生は机の上で両手を軽く組んだ。「だから、どっちが善でどっちが悪かという話ではない。言うまでもなく、どっちも悪だ。ここまでは簡単だね」

 わたしは小さく頷きを返した。


「次に考えるべきは、人殺しはいかに許され得るのかという難題だった」と先生は続けた。「僕の場合、登場人物が父と自分の二人しかいないから話は単純だ。僕を許すことができるのは、父と僕のどちらかだけだということになるだろう。そして当然だけど、父はもう死んでしまったから僕を許すことはできない。だから、この問題をブレイクダウンすると、僕は僕自身の殺人をどうやって許すことができるのかということになる」

 わたしは黙って話を聞いている。ヒナコも少し落ち着いて耳を傾けようとしていた。


「自分の行為を自分の中だけで正当化することは難しくない。特に、僕の場合には簡単だ。正当防衛という言葉を使ってもいいくらいの状況だった。でも、この考え方は間違っている。本来、他者の存在しない世界には罪もまた存在しないからだ」先生はテーブルの上の自分の両手をじっと見つめている。「人間が自身の行いのうちに罪を認識するには、他者か神のいずれかが絶対に必要だ。それがないところに罪はない。よって許すという行為も成立しえない」

「他者も神も、決して自分だけの手の内には収めきれないものです」とわたしは言った。

「そう、人はどうやっても自分で自分の罪を許すことはできないんだ。言い換えれば、それが罪の定義だ。人殺しという罪の特殊性は、そこに許しを与える可能性を持った他者の存在をあらかじめ奪い去ってしまうところにある」先生は軽く目を閉じて頷く。「だから、殺人を犯した人間には二つの道しかない。他者の存在に目を瞑って罪そのものをなかったことにしてしまうか、決して許されることのない罪を負い続けるかだ」


 わたしはそれを聞いて、急に先生の考えていることがわかったような気がした。

 許してあげたかった。

 彼はそう言ったのだ。


 雷鳴のように訪れた閃きは、しかしあまりにも信じがたい発想だった。

 でも、そう考えれば辻褄が合う。

 きっと、そうだ……。

 だから先生は、殺されたのだ。

 わたしは自分の考えたことを、おっかなびっくり口にした。


「先生はこの世界で初めて、自分が殺されたことを許すことのできる人間になろうと思ったんですか」

 先生は顔を少し上げて、こちらを見た。

「ポストマンは、殺されても蘇るから……」わたしは、自分がまだ喋れることを確かめるように弱々しく呟く。「だから、自分が殺されることで、そしてその罪を許すことで、人殺しが許され得る世界を作ろうとした……」


 先生がやろうとしたこと。

 それは。

 自分の身を捧げることで、この世に決して存在しないはずの救いを齎そうとした。


 それでは。

 それではまるで、ゴルゴタの丘で磔にされた救世主ではないか。

 では、わたしは。

 わたしが、殺してしまったのは。


「まったく……三條君は本当に面白いことを考える」月坂先生は、心底おかしそうに声を上げて笑った。「君は、僕を神様か何かだと思ってるのか?」

 わたしは多分、きょとんとしていただろう。

 先生がそんな風に笑うのを見るのは、ほとんど初めてと言ってもいいくらいだったから。

 それに、わたしは今まさに、本当に先生のことを神様か何かだと思おうとしていたところなのだから。


「ごめん、君はきっと勘違いしていると思って、少しからかってしまった……。でも、落ち着いた方がいいよ」と先生はまだ笑っている。「あのね、おかしいと思わなかった? ここまでの話の中に、非常に大きな矛盾がある」

「父を殺した動機について語ったことが本当なら、あなたはポストマンじゃない」とヒナコがすぐに言った。「あなたは、ポストマンになることは死ぬことと同じだと思っていた。だったら、ポストマンにされてしまった後で父を殺すのは矛盾している」

 わたしは、ぽかんとした。


「そう、明快な答えだね」月坂先生は頷いた。「それに、僕をポストマンだと考えるには何度かおかしなことを言ったはずだ。もし、三條君が最後にカウンセリングルームにやってきた日に本当に僕が殺されたのなら、どうやってもその日の記憶を保持することはできない。バックアップを取るタイミングがなかったからだ。蘇生した僕は、殺されたときのことを忘れてしまっていることになる。スタンガンを食らって痛かった、なんて感想は言えるわけがない」

「ちょっと。ちょっと待ってください」とわたしは思わず声を上げる。「でも、それは……わたしは確かに、先生が死んでいるのを見たはずです。あんなにはっきり……」


「記憶というのはあやふやなものだ」と先生は微笑んだ。「世界五分前仮説って知ってる?」

「知っていますけど……」

「君は自分のことを三條日奈子本人だと思っているだろうけど、それはバックアップから蘇ったポストマンが自身を連続した自我とみなすことと同じだ。実際には、彼女の罪の意識が僕の死というイメージを育てて、君を作り出すときに本来以上に強く刻印してしまったとしても何もおかしいことはない」彼は捉えようによっては残酷なことを平然と言った。「僕は君の放った強すぎる電圧でしばらく動けなくなっていただけだ。普通、スタンガンで人は死んだりしない」

「ポストマンは機械の身体だから、そんなこともあるのかと……」

 わたしが呆然と呟くと、先生は肩を竦めた。

「本気で言ってるなら君、僕に会って頭も高校生に戻ったんじゃない?」

「すいませんね。ちょっと、舞い上がっちゃってるみたいで」とヒナコが言った。

 余計なお世話もいいところだ。


「君が思いついた素っ頓狂なストーリーよりも、ずっと簡単な話だ。僕は実際には死んでなんかいなかった。だから三條君に、そんなに気に病むことはないと伝えたかったんだよ」

「でも、それじゃあ、先生がわたしを止めなかった理由がわかりません」

 わたしが食い下がるように言うと、先生はちょっと目を逸らした。


「あそこで君を無理矢理止めたら、きっと一生引きずる傷になると思ったから」と彼はやや居心地悪そうに答える。「最悪、僕が痛いのを我慢するだけで済むかなと考えていた。ちょっと見積もりが甘かったよ。まさかあんなに強いやつをお見舞いされるとは思わなかった。それに……結果的には全然違う形で、言葉通り君はこの件を一生引きずる羽目になってしまったわけだから、僕の判断が正しかったと胸を張って言うことはできない」


 先生の言葉を聞いて、わたしは何も言えなかった。

 ただ頬のあたりに違和感があって、触ってみると指先が濡れていた。

 こんなことってあるだろうか。

 わたしは泣いている。

 九條ヒナコの身体に間借りしたような状態で、デラシネ・オルタナの揺り籠の中で夢を見ながら、それでもわたしが涙を流している。


 先生は、自分の父を殺していたとしても、やっぱりわたしの先生だった。

 わたしがあんなに取り乱してめちゃくちゃなことを言い、めちゃくちゃな行動をしていたにも関わらず、先生はどこまでもわたしに対して正しくカウンセラーとして接し続けたのだ。

 自身の身も顧みず。

 救世主と比べれば多少見劣りはするかもしれないけれど、なかなかできることじゃない。

 とても立派な人だと思う。


 だけど十七歳のわたしだったら、そんな事実にさえも、むしろ傷ついていたかもしれない。

 あのときわたしが欲しがっていたのは、そういう綺麗なものではなかった。

 愛が欲しかった。


 それは今だって、どぎついくらい鮮明に残っている気持ちだ。

 思い出すだけで、喉の奥が熱くなってくるような気さえする。

 その想いをなかったことにしてしまわないためだけに、こうしてわたしがここにいると言っても過言ではない。


 でも、それでも、

 馬鹿だったな、と今なら思える。

 本当に馬鹿だった。

 気付かないだけで、欲しかったものはちゃんとそこにあったのだ。

 そして、そういう風に思える自分がいることを、よかったねと許してあげることができる。


「ありがとうございました、先生」とようやくわたしは言った。「それに、本当にごめんなさい」

「こんな形になるとは思わなかったけど、もう一度会えてよかった」と先生は頷く。


 それからわたし達は、窓の外にあるケヤキと三日月を眺めながら、ぽつぽつと思い出話に花を咲かせた。

 わたしにとっては、夢のような時間だった。

 あらゆる意味で、夢としか言いようのないものだった。

 もちろん、わたしはそれを知っている。


「……あのー」と気まずそうにヒナコが言った。「色々、わからないことがあるんですけど」

 そうでしょうそうでしょう、とわたしは思った。

 もうだいぶ満足したから、後はヒナコに喋らせてあげてもいいくらいだ。

「いいだろう、質問を受け付けよう」先生はちょっとずれた眼鏡を直しながら言った。


「永久乃博士って、結局誰だったんですか」

「かつて、父の共同研究者のような立場にいた人の一人だ」と先生は答える。「きっとそれについては、三條君の方が詳しいだろう」

 永久乃博士は、わたしの師匠だった人物である。永久乃数一という名前は人工脳研究者としてのペンネームのようなもので本名は別にあるが、さして重要な情報ではない。本人はそれなりに名のある科学者だ。


 何を隠そう、彼こそがアンダーグラウンド時代のデラシネを運営していた張本人だった。月坂教授が開発したベースを継承したものと思われる。肩書きは帝都大学の工学教授だったが、サルガッソ・エンタープライズの非公開研究チームで、わたしの同僚として働いていた時期も長かった。

 デラシネのサーバ上で動作する人工知能、久遠の開発を統括したのも永久乃博士である。ソースコードの主要な部分は彼がほとんど手ずから書いていた。

 あまり、他人が読んでわかりやすいとか美しいと感じるコードを書く人ではなかった。後に運用の引き継ぎを受けたとき、その難解さには手を焼いたものだ。


 最終的に、彼はわたし達と袂を分かった。研究方針が食い違ったためだ。研究所の主流派が、主に安全性の観点から徐々に生体ハードウェアの利用に傾いていったのに対し、彼はあくまでも月坂肇の打ち立てた「人体の機械化」というセオリーに準拠しようとした。そうして続けた研究は、昨年の人工脳開発の成果発表に結実している。

 サルガッソ・エンタープライズの研究機関は、その名の通り一度入った者を逃がさないと言われる。機密保持のためである。永久乃博士が雲隠れしていたのは、単に彼自身があまり人付き合いを好まないという以上に、サルガッソの目を逃れるためという意味合いが大きかっただろう。

 しかしながら、ここが永久乃博士の面白いところというか不気味なところというか、研究者としてはそうまでして生体ハードの方針を拒んでおきながら、自分自身は後にちゃっかりその技術を利用して新しい肉体に乗り換えているのだ。

 わたしよりずっと年上なのに、あれだけ若々しい外見を維持したまま健康に生きていたのはそのためである。実に彼らしい屈折ぶりだと言える。


「じゃあ、久遠の中からあなたが出てきたのはどうして?」とヒナコは問いを重ねた。

「それは少々込み入った説明を必要とする質問だね。まず断っておくべきなのは、クオンから出てきたのはクマであって僕じゃない。僕はあのピンク色をしたクマの中にいた」先生は腕組みをする。「ここからは、クオンというシステムの独自性に関わる話だ。彼は、受け取った情報を処理するためのメインとなる評価関数が、自分自身を呼び出すリカージョン、再帰の構造になっている」

「ここでもまた、入れ子ですね」

「そう……そしてリカージョンを用いるからには、無限ループを避けるための離脱判定が不可欠になる。そこだけは、絶対に外部にあるルーチンで、なおかつクオンから見て隠蔽された処理系統じゃなきゃいけなかった。そんな条件を満たすプログラムとして使われたのが、当時中学生だった僕から作られたポストマンだったんだ」


 ヒナコは先生の説明を噛み砕くために頭の中で軽く整理しようとした。

 入れ子が原理的に無限ループを生むというのは、奥山も言っていたことだった。

 人はそこでフレーム問題に陥ってしまうことを回避するために、例えば神という概念を持ち出す。


「それって久遠にとっては、あなたが神様ということ」

「君は詩人だね」先生は少し嬉しそうにした。「正確には僕ではなくて、クマちゃんがだけど。それに神様というよりは、困ったときに頼りにできるカウンセラーかな」

「あなたは、あのクマちゃんとは別物?」

「僕自身が直接関係していたのは、クオンではなくてクマちゃんの方だ。僕は専用の機材を使って、クマちゃんと特殊なプロトコルで通信をすることができた」


 彼は解説を続ける。

「僕はいずれ三條君にコンタクトをとるために、クマちゃんの中に自分のデータを格納した。

 いや、そこまではっきりとした意図があったわけでもない。その時点では、実現する目処なんてちっとも立っていなかった。ただ、三條君とのことに強い心残りがあったカウンセラーの僕が、その自分を記録しただけだ。

 でもそれからしばらくして、クオンが作られた。クマちゃんは当然デラシネの中にいたから、三條君がサルガッソで研究員として働いていることを知っていた。君が新しい身体を使ってやろうとしていることも察知できただろう。そこで、気を利かせたんだと思う。

 クマちゃんはクオンと情報のやりとりをする過程で、少しずつAIとしての行動規準となるパラメータを上書きしていった。質問に対する返答が一定の条件を満たすと、クマちゃん自身がクオンの代わりに呼び出されるようにね。

 いいかい、これが最も重要なところだ。作られたときから、あらかじめクオンにトリガーが設定されていたわけではない。その逆なんだ。クマちゃんがクオンを唆して、『なぜ、人を殺してはいけないのか』という質問をさせるようにした。

 このように外部から影響を受けて、自らの存在意義そのものを創造していくことができるというのが、人工知能としてのクオンの真の革新性だ」


 その説明は、ヒナコが久遠と接する中で受けた印象を裏付けている気がした。

 久遠は柔軟だったのだ。

 受け答えそのものには旧来の人工知能らしい杓子定規な部分もあったけれど、行動の全体像がどこか人間的に感じられた。


「どうして、永久乃博士は死んでしまったんでしょうか。それに、どうして彼が、久遠と同じ質問を私にしてきたんでしょうか」

「それは僕にもわからない」先生は首を振った。「だけど、今の僕は立場上クオンが持っていたデータを閲覧できるから、推測をすることはできる。……きっと彼は、自分が用済みになったと思ったんじゃないかな」


 ヒナコは、永久乃博士にインタビューをしたときのことを思い出す。

 あのときは持っている情報が少なすぎて、彼がどんな人間で、何を思って話しているのかがまるで掴めずにいた。

 今思い返せばわかる。博士はやはり、苦悩していたのだ。

 我々の自我に対する執着が、進化の系譜と矛盾すると彼は言った。

 その考えはきっと、自身の存在に対する疑念のようなものと切っても切れない関係にあっただろう。

 もしかすると彼は、デラシネを通じて外の世界に助けを求めたのかもしれない。


「サルガッソの研究所を離れた後も、永久乃博士はよくクオンと個人的に話をしていた。彼にとって多分、クオンは唯一友達と呼べる存在だったと思う」と先生はちょっと遠い目をして言った。「きっと、彼もクオンに訊かれたんだろう。なぜ、人を殺してはいけないのかって。博士は、友達の問いに真剣に答えようとした。それで……最後に彼が出した答えが、死だった」

 自分は、博士を追い詰めるようなことを言ってしまっただろうか。

 ヒナコがそんな風に考えそうになっていたので、わたしは違うよと思う。


 永久乃博士を動かしていたモチベーションは、昔デラシネでモモちゃんが語ったそれによく似ていた。二人とも、月坂肇の思想に心酔していたのだ。原理主義者と呼んでもいい。

 月坂教授が遺したものは、技術であるよりも以前に一つの思想だった。

 ポストマンという言葉に込められた、そもそもの意味がその核心である。

 そこには明らかに、自身が人間であることを超越せんとする意思がある。そのことを人間が指向するのは、それ自体が巨大な矛盾だ。初めから、極めて強い自己否定性を孕んだ思想だったと言っていい。

 ここで殊更に彼らの信念そのものの是非を問うつもりはない。でも、永久乃博士が自死を選んだ事実は、ポストマンの理念から論理的に導かれる帰結にほど近いものだとわたしは考えている。


 おそらく、マクロな視点に立てば、そのような考えはこの世界の在り方に対する一つの正しい理解だと言えるだろう。

 何もかもが移ろい、やがて変わっていく。人間という種族だってその例外ではありえない。ごく当たり前のことだ。

 人間の存在は今後、地球における生命ないし非生命の進歩と発展にとって邪魔なものになっていくのかもしれない。少なくとも、自我なんてものがなくなれば、この世界で最も醜くて恐ろしい人間同士の争いは見なくて済むようになるはずだ。


 わたし達が今ここに存在してしまっていることなんてどこをとってもたまたま偶然の所産でしかなく、自我などというものは何かの間違いで鏡に映り込んでしまっただけの、いや、それだって本当に映っているのかどうかさえも怪しいくらいの薄っぺらなフィクションに過ぎない。

 そんなものにいつまでも、みっともなくしがみつくだけの価値があるのかと考えることは、間違っていると言えるんだろうか。


「なぜ、なぜ、人を殺してはいけないのですか、と問うのだね」と先生が言った。「僕からの質問に対する、父の答えだ。彼は狂っていたと僕は思うけど、紛れもなく一人の天才的な科学者だった。これこそが、問われるに値する真の問題だろうね」

「それもまた、入れ子構造……」とわたしは少しだけ笑う。

「『人を殺してはいけない』という命題は真であることが証明できない。だから、それが成立する理由を問うたところで空論にしかならない。

 でも、『人は、なぜ人を殺してはいけないのかと問う』という命題なら事実に根差していて、ひとまず真だと言えそうだ。よって、理由を問うことができる」

 先生は講義でもするみたいに喋りながらゆっくり立ち上がって、窓辺の方に歩いていく。


「人を殺してはいけないのは、それがいけないことだから。

 たぶんこれが、『なぜ、人を殺してはいけないのか』と問われたときのいちばんシンプルでいい答えだ。伝えるべきことを伝えていて、おかしな嘘を含んでいない。

 当然、こんな物言いが馬鹿げた同義反復であることは誰にだってわかるだろう。でもね、問いそのものが無根拠な前提を含んでいるから、そういう風にしか言えないと考えるのが正しいんだ。

 それでも、僕らは人を殺してはいけないということにするしかない。

 何故なら、人は人を殺したことがあるからだ。そして、殺してしまったことを悔やんだ。こんなことは二度と起こるべきではないと考えた。そのように考えた人が、いた。

 だから人間は、万人に当てはまるような答えがどこにも存在しないとわかっていても、何度でも繰り返し問わなくちゃいけなかったし、きっとこの先も問い続けるだろう。殺すべきではなかった、という気持ちをなかったことにしてしまわないためにね。

 以上が、父が発した問いに対する僕の答えだ。

 それだけのことに後から色んな理屈をくっつけて尤もらしく論じようとすると、嘘が混じってくる。嘘を含んだ命題は、偽だ。人殺しの是非はわからないが、偽の命題をあたかも真であるかのように主張するのは絶対に悪いことだと考える人にとって、それは人殺しよりもいけないことになってしまう」


「……人がフレーム問題の克服に用いる概念は、原理的にすべて無根拠な前提を含んでいます」先生が言うのを聞いて思いついたことを、わたしは呟いた。

 彼はその意見に対して特に何かコメントをすることはなく、ただ窓から覗く月を見上げた。


 つられて、そちらに目を向ける。

 光を反射して輝く三日月は、誰かの横顔みたいな形にも見えた。

 静寂。


「わたしにとって、先生がそれでした」

 月坂先生は何も言わない。

「会えなくなってからも、たまに考えてたんです。あの日言われたことについて……わたしって結構、根に持つタイプなので」

「どうもそうみたいだ」と先生は少しだけ笑った。


「先生のおっしゃる通りだったんだと思います。わたしは両親から貰い損ねてしまったものの代わりを、先生に求めていただけだった」青白いお月様に向かって懺悔でもするみたいに、わたしは続けた。「だけど、そのことを事実として認めようとするのと同時に、それでも自分が抱いていた感情は嘘じゃなかったんだと思いたい気持ちも強くなって。現実にはこうやって合わせる顔ひとつ持っていなかったのに、先生の存在はわたしの中で、消えてなくなるどころかどんどん大きくなっていきました。失ってしまったはずなのに、失うと決めてしまったから、もう二度と代わりになるものは見つけられなかった。……でも結局はそのお陰で、わたしはわたしのまま、ここへ来ることができました」

「人は、時にバーチャルな存在にこそリアリティを感じるものだね」

「はい」とわたしは小さく頷いた。「ひょっとしたら、神様を信じる気持ちとよく似ているのかもしれません」


 窓の外。ケヤキが風に揺れている。

 またしても、静寂。


「……月が綺麗ですね」わたしは思い切って言ってみる。

「うん」先生は味も素っ気もなくそう答えやがった。「で、他に何か相談したいことはある?」


 でもそれが、彼なりの挨拶なんだということがわかってしまった。

 夢はいつか醒めるものだ。

 最初から、そうわかっていた。


「先生、一つ提案があります」わたしは、きっと言うべきでなかったことを口にした。「今なら、デラシネ・オルタナのサーバ上に、ここにいる先生のコピーを取ることができます。この内部で活動するだけなら、自我の連続性も担保できるはずです。外で、セッションを監視している人間にやらせます」

「……この世界でずっと暮らせるんなら、それも悪くないかもね」先生はこちらに背を向けたままそう答える。「だけど、元々この一回きりと決めてあったんだ。今ここにいる僕は、三條君が高校をやめた少し後の時間から来ている。自分がその後どうやって生きて、死んだのかもわかっていない」

「それは、罪滅ぼしですか?」とわたしは見苦しい上にとても失礼なことを訊いてしまう。

「そうではないよ。罪と向き合うのは、ここにいる僕の仕事じゃない。それはきっと、元の自分がやっている」彼は、いたって真面目に答えてくれた。「今の僕はカウンセラーだから、どっちが三條君にとってよりよいことなのかを考えたつもりだ。これはね、君を大人だと認めたから教えていることだ」

 先生はそこでいったん言葉を切って、振り返った。


「あなたのためを思って。なんて、子供が聞いたらきっと腹を立てるだろう?」


 ふと、あらゆる思い出や、葛藤や、感傷だったものが、瞬く間にわたしの中を通り過ぎていった気がした。


 先生は、どこまでいってもわたしのカウンセラーで。

 先生にとって、わたしはいつになってもカウンセリングの対象だった。


 先生だって本当は人間なのに。

 先生にだって、癒えない傷があるのに。

 そこへわたしが触れることは、叶わない。

 それが、わたし達の関係だから。


 かつては忌まわしかったはずのそんな図式と一緒に、わたしは、彼の言葉を意外なほどすんなりと受け入れることができた。


 いつか、先生が言った通りだった。

 自分を大人とみなすことに躊躇いを覚えなくなったら、それが大人ということ。

 涙はもう、乾いている。


「先生のこと、ずっと忘れません」とわたしは言う。「こうなっちゃうと、ずっとがいつまでなのかっていうのも、正直わかりませんけど……」

「クオンという名前が、そういう意味だったね」先生は、わたしの顔を見て少しだけ笑みを浮かべた。「さて、それじゃ。今度会うときには、一緒に飲めるお酒でも用意しておくよ」

 ジョークだと思ったので笑い返そうとしたんだけれど、あまり上手くいかなかった。

 だから、ヒナコが代わりに、ここ一番でしか使わないとっておきのスマイルを見せてあげた。


「好きです、先生」

 わたしが最後にそう告げると、先生は一瞬だけ、困っているのか笑っているのかよくわからないおかしな表情になる。


 そして言った。

「僕は、死んでもいい」

 三日月が瞬く。

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