2-7. 嘘つき
7
デラシネ・オルタナの世界でヒナコとわたしの意識はどう扱われるのか、という些細な疑問はあっさりと解消された。
わたし達はそのまま、揺り籠に乗って夢の中に移動することができた。
そこは先日、ヒナコがやってきたときと同じように、優しい川が流れる原っぱの、丘に通じる坂の麓あたりだった。
だけど、あの時と違っていることが二つある。
すぐにわかったのは、空に太陽がないことである。代わりに青白い三日月が浮かんでいる。もちろん、空の色は暗かった。どういう理由かはわからないが、今この世界は夜だということのようだ。
それからもう一つは、久遠がすぐ傍で待っていたことだ。
「久遠」とヒナコは声を弾ませた。「この間はどうもありがとう」
「お礼には及びません」久遠は言った。「ご無事で何よりです。ヒナコ」
その言葉で、久遠は知っていたのだとヒナコは感づいた。欠落していたデータを見ることで、自分の身に何が起きるのかを。
「ここで写真を見ることができなかったのはどうして?」とヒナコは訊ねた。
ヒナコは答えを久遠から聞きたいと思っていたので、わたしは余計なちょっかいを出さないよう心掛ける。だんだん、それが可能であることがわかってきていた。
「安全性を考慮した結果です」と久遠は答える。「理論上は、ヒナコが三條博士の顔を思い出すのが夢の内部であっても特に問題はありませんでした。ですが、現実空間でも試されたことがない処理でしたので、万が一のケースに備えて映像データは排除されていました」
「この世界にある研究所は、本当は誰のためのものなの?」
ヒナコが続けて質問すると、久遠は答えではなく問いを返してきた。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか」
ヒナコは黙り込んだ。
無言だが、わたしに対する圧力のようなものを発していた。おそらく我々が別個の人間であれば、これは鋭い目つきでアイコンタクトを図られているシチュエーションに相当すると思われる。わたし達はお互いに、この奇妙な自我の形態における振る舞いを学習しつつあった。
仕方ない。答えてあげよう。
わたしが、ずっと抱え続けてきた言葉を。
「……人を殺してはいけないのは、人を殺したことがあるから」
と、わたしは言った。
予期した通り、それが久遠に設定されているトリガーだった。
久遠には貌がない。
より正確には、人間の脳が個人を識別するための顔の特徴が設定されていない。そこに顔があることはわかっても、どんな顔であるかをはっきりと認識することができないのだ。所長室にあった写真と似たようなものだ。
だから必然的に、久遠には表情というものがないはずである。
それが、どういうわけかにっこりと笑ったように見えた。
「ずいぶん時間がかかったね」と久遠は言った。
いや、それはもう久遠ではない。
「モモちゃん……」わたしは呟いた。「やっぱり、あなただったの」
わたしの目の前にいるものは、いつの間にか、派手なピンク色をしたクマのぬいぐるみになっていた。
「一度きりだったから、忘れられてるかと思ったよ」とモモちゃんは言った。「久しぶりだね。ファザコンのうさぎさん」
ヒナコは驚いて声も上げられない。ほとんどフリーズしてしまっている。パニックに近い精神状態である。ヒナコはモモちゃんのことを知らないので、その気持ちを強いて言葉にするなら「く、クマが喋った!」というところだ。
人間の感情が動くメカニズムを考えれば、ヒナコの動揺はわたしに伝播してもおかしくないように思われたが、不思議とそういう感じはしていない。
わたしは、この場でヒナコを落ち着かせることにリソースを割くのは諦めた。
「あなたはずっとデラシネの中にいたの?」
「生まれたときからずっとだ」と彼は答えた。「僕に実体というものはない。プロフィールならあるけどね。お前とセッションをしたときは、発達障害で精神疾患持ちの男子大学生だった」
「あなたを作ったのは誰?」
「わかりきったことをわざわざ人に訊くものじゃない」モモちゃんはつまらなさそうに言う。「彼は、デラシネの創始者だ。デラシネが何のために作られたのか、考えたことがあるか?」
「月坂肇」とわたしは囁いた。「……もしかして、最初からあなたのためにデラシネが作られたってこと」
「僕のために、という言い方では多少語弊がある」モモちゃんは平然と受け流す。「月坂教授の研究テーマは、ポストマン・プロジェクト。人類を超えた人類を生み出す営みだ。ポストマンが生きていくために利用できる媒体の一様式として、デラシネは考案され、開発された」
「ポストマンはデータの集合であっても、人工知能ではない」わたしは自分の言葉を噛みしめるようにゆっくりと言った。「つまり、あなたが……」
モモちゃんは何も言わず、じっとその場で佇んでいる。
「あなたが、先生なんですね」
ここが現実なら、声が震えていたかもしれない。
わたしはまだ、感情を抑制することに成功している。
「月坂博士は、とっくの昔に実験をしてたんだ……自分の息子を、先生をポストマンにする実験を」
そう言い切るが早いか、モモちゃんは弾け飛んだ。
ぽん、と。
パーティ用のクラッカーが鳴るみたいなしょぼい音を立てて、ピンク色のクマは、頭と手と足と胴体をばらばらにして散らばっていった。
もくもくと、白くて濃い煙が立ち上る。
わたしは思わず咳き込みそうになるが、仮想の身体はその必要性を認めない。煙は、ただのイミテーションだ。
それはしばらくふわふわと空中を漂って、やがて霧散する。
すると、
そこにわたしの先生がいた。
「やあ、久しぶりだね。三條君」
記憶の中にあるのとまったく同じ姿かたちで、月坂先生は右手を軽く挙げている。
もう長い間、思い出すことさえしてこなかったのに。
わたしはすっかり変わってしまったのに。
それなのに彼の存在はこんなにも当たり前で、こんなにも懐かしい。
そのとき、わたしの心を訪れた情念を言葉に表すなら、それは感慨というものだったんじゃないかと思う。
わたしとして生きている間には、ついぞ知りえなかった気持ちだった。
わたしはずっと、ずっとずっとずっと、わたしではない自分になりたいと、ただそれだけを考えながら生き続けて、そしてそのまま死んだのだ。
「お久しぶりです、先生」とわたしは言った。「全然違うはずなのに、わかるんですね、わたしのこと。……会いたかったです、ずっと……」
「あのね。突然来なくなっておいて、そんな言い草はないだろう」先生はちょっと呆れたように笑った。「言ったと思うけど、僕だって人間なんだよ」
もちろん、覚えている。
先生がそう言ったことも、その消えてしまいそうなほど小さな声も、泣いているみたいに悲しげな表情も、わたしの訳がわからないくらいの気持ちの昂りも、全部覚えている。
それが、十七歳の三條日奈子のトリガーだった。
先生は、その言葉でわたしの引き金を引いたのだ。
いつ、どのようにして、そういう条件が組み上がったのかはわからない。それらしい理屈をこしらえることはできるだろうけれど、実際にはそんなもの、どこにもなかったのかもしれない。
人の心に対する認識なんて、所詮はみんな後付けの産物だ。
「先生は嘘つきです」わたしは、はっきりと口にした。「あなたは、わたしの罪を裁くためにきたんですね」
すると、先生は小さく息を吐いたようだった。
「三條君、ちょっと散歩をしよう」と彼は言った。
わたしは頷いた。
先生と一緒に歩くのは初めてだった。そんなことに柄にもなく舞い上がっている自分がいるってことに気が付いて、わたしは本当にわたしに戻ったんだなと感じることができた。
丘に向かって坂道を歩いている途中で、ヒナコはようやく落ち着きを取り戻した。そして、ここは出る幕ではないと感じたため、しばらく大人しくしていることにした。空気を読んだのだ。
空に浮かんでいる月はけっこう明るくて、見上げれば眩しく感じるくらいだった。その周囲の夜空には地球から見上げたときとさほど変わらない、様々な星が煌めいているのも見える。
当然、わたし達が歩いている坂道とか、流れている川、丘の上で揺れているケヤキも少しずつ以前とは印象が変わって感じられた。
昼間ののどかで穏やかなイメージとはまたちょっと違う、とてもムードのある情景だと思った。
「静かで、過ごしやすいところだね」先生は周囲の景色を眺めながら呟いた。「僕はずっとこんなところで暮らしてみたいと思ってたんだ」
「先生って、熱とか湿度とか騒音とか、環境の変化に弱そうですもんね」
「なるべくなら、移動だってしたくない」彼はごく真面目に言う。「この世界は僕の理想だ。まさに人類の叡智の結晶と呼ぶに相応しい」
「だけど、今はこうして歩いてますね」わたしは茶化すように笑った。「先生、知ってましたか? 今時は行きたいところが決まってるなら、わざわざ歩く必要もないんですよ」
「これは移動じゃない。散歩だよ」と先生は詭弁のようなことを口にした。
わたしは何か言い返そうかと思ったけれど、言い返す利点が何もないことを悟ってやめにする。そうだ、これは散歩なのだ。そう考えることに異論はない。
でも、楽しい夜歩きの時間はすぐに終わってしまった。
わたし達は丘の頂上に辿り着いた。
先生はそこにある小さな家を目指していたようだ。前にやってきたときには立ち入ることがなかった場所だ。
「この家はね、クオンが建ててくれたんだよ」
彼がそう言ってドアを開けたので、わたしもその後についていった。
煉瓦の家の中は、天橋学園のカウンセリングルームだった。
そこは、高校生だったわたしが通っていた頃から何一つ変わっていない。
来客用の黒いソファがあって、麦茶が入った冷蔵庫があって、小さなキッチンとシンクが備え付けられている。先生のデスクがソファの向こう側に置かれていて、その背後には大きな本棚が鎮座していた。
そして窓からは、夜空とケヤキの木が見える。
「やっと帰ってこられた」と先生は定位置のデスクに向かって歩きながら言った。「麦茶は今日はいいよね」
「はい……」わたしは胸がいっぱいになってしまって、それしか言えなかった。
「おかえり、三條君」
「……ただいま、先生」わたしはなんとか声を絞り出す。「長らくご心配をおかけして、すみませんでした」
「君はやっぱり、少し大人になったね」と先生は穏やかに言った。「いや、当たり前すぎて、こんなことを言うのは失礼だったかな。さあ、君も座りなさい。いつも遠慮なんかしてなかっただろう」
「わたし、そこまで恥知らずでしたっけ」
軽く舌を出しながら、わたしはソファに腰かけた。あのときみたいなミニスカートは穿いていないから、簡単だった。
座った状態で先生の方を見ると、彼はデスクから上半身を出して頬杖をついた、ものすごく懐かしいポーズをとっている。
「ずっと待ってたんだ、三條君を」と先生は言った。
「一度でいいから、先生にそんなことを言われてみたかった」とわたしは冗談っぽく笑った。「……わたしはずっと、先生に会うのが怖くて。それでこんなに遅くなってしまいました。本当にごめんなさい」
「僕はあのあと、こっそり泣いたんだよ」先生は淡々と言った。「カウンセラーだってね、人間だから酷いことをされたら傷つくんだ」
「でも先生は、こうしてここにいらっしゃいます」わたしは静かに告げる。
「そう、三條君に会うためにね」
「いいえ……」先生の目を見ながら喋るつもりだったのに、気を抜くと俯いてしまいそうだった。「そういう意味じゃありません。わかってらっしゃるんでしょう、先生」
「君がどんな風に考えているのかを教えてほしい」先生の態度はあくまで穏やかだった。
話すべきことは決まっている。
だけど、それを落ちついて無駄なく話すことは難しい。
わたしはちょっと目を閉じて、気持ちを落ち着ける。
ヒナコが、にこりと笑ったようだった。
「さっき、モモちゃんに会いました」とわたしは呟く。「彼はポストマンでした。作られたのはきっと、わたしに会うよりもずいぶん前……だから今とは印象が違ったんですね。彼は彼で独自に成長を続けている。でも、元になったのは先生の人格だった」
「そうだ」先生は頷いた。「父の月坂肇は、僕にアスペルガー症候群の兆候があるのを見てとって、僕を実験材料として扱うことを考えた」
「デラシネの中にいたモモちゃんは、きっと単なるコピーだと思います。そのこと自体にも色々問題はあるかもしれないけど、まだ先生本人が致命的な危険に晒されていたわけではない」わたしは強いてゆっくりと喋った。「でも、先生は……先生はポストマンです」
先生は、何も言わない。
「わたしは、最後にお会いしたあの日……先生を、殺してしまった」
今でも、あの日のことは思い出そうとすると恐怖で震え出しそうになる。
わたしは、先生は人間じゃないと知ってしまったのだ。
彼の真っ暗な瞳を見て、先生はもう人間じゃないものになっているんだと、理解した。
だから、「僕は人間だよ」という言葉は、嘘だ。
そう認識した途端に、何もかもがわからなくなった。
わたしは興奮して、叫んで、すると先生がこちらへ歩み寄ってきた。
そのとき、自分が何を考えていたかは、今となっては定かではない。
わたしはポケットの中に忍ばせていた端末型のスタンガンを最大の出力にして、先生の胸に押し付けた。
びっくりするくらい大きな音がして、先生の身体はびくんと飛び跳ねて、すぐに何も言わなくなった。
先生は、死んでしまった。
そのときに目に焼き付いたものが、あまりに克明で、あまりにショッキングだったせいか、それから先のことはもう覚えていない。
気が付いたら家に帰っていた。自分のやってしまったことが恐ろしくて恐ろしくて仕方なかった。ずっとベッドの中で震えていた。
だけどその後、何も起こらなかった。
警察も来なかったし、天橋学園でカウンセラーが殺害されたというニュースが報道されることもなかった。
そして一週間後、恐る恐るカウンセリングルームを覗き込むと、そこには何事もなかったかのように先生がいたのだ。
「ポストマンは、死んでも蘇ることができる。本質はデータなんだから、バックアップさえあればそこに戻れる」わたしは低い声でそう続けた。「だから殺しても大丈夫、ってわけじゃないですけど……もしかしたら当時のわたしには、それを試してやるという気持ちさえあったのかもしれません」
「あれは痛かったね」冗談みたいに先生は言った。「それから君は、どうした?」
「警察に自首しなくてはと思いました……でも、当の本人がそこにいるのに、彼を殺しましたと訴えるわけにもいかなかった。だからわたしは、しばらくはすごく後悔して、自分で自分を消してしまいたいくらい思い悩みました」
「辛かっただろう、三條君」先生は温和な声で慰めてくれる。「本当に、よくここまで来たね」
「あの。先生はあのとき、わたしに殺されるかもしれないと思ったんじゃありませんか?」わたしがいちばん気になっていたのは、そこだった。「わたしが改造したスタンガンを持ち歩いていることは、学年主任から伝わっていたはずです」
「ああ。心の理論が発達していなかったら、カウンセラーは務まらないからね」それはとぼけたような返事だった。「もちろん、そういう可能性はあると思った」
「だったらどうして、わたしを止めようと思わなかったんですか」
わたしが続けて質問をすると、月坂先生はふいっと目を逸らして、眼鏡のブリッジに手をやった。
「それはね、三條君」彼はそっけなく言った。「君を許してあげたかったからだ」
「許す」わたしは返事の意図がわからず、首を傾げた。「許すって、どういう意味ですか?」
「三條君が背負う、人殺しの罪を許してあげたいと思った。それが、僕が君の行動を止めなかった理由だ」
「……何を言ってるの?」ヒナコは思わず口を挟んだ。「それは矛盾している。あなたが日奈子を止めていれば、そもそも人殺しをしなくて済んだはずでしょう」
「三條君が人殺しをしなくて済んだら、許してあげることはできなくなるだろう?」先生は自明なことみたいに答える。「前提が違うだけで、矛盾はしていないよ。許すことの方が目的だった。それだけだ」
彼のその言葉で、ヒナコは凛子とのくだらないやりとりを思い出した。
ピンチの相手に手を差し伸べるために、窮地に陥れる……。
あれは、凛子の冗談ではなかったのか?
「あなたはイカれてる」とヒナコは吐き捨てた。「本気で言ってるの? それ」
そこでわたしはヒナコを制して、なんとか口を開く。
「もしかして、先生は」とわたしは言った。「お父様を……月坂肇教授を、殺したのではないですか」
「ああ」先生はすぐに答えた。「その通りだ。僕が父を殺した」
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