2-6. リカーシブ・コール
6
長い夢を見ていた。
とても、幸せな夢だった。
夢の中のわたしは、自分がわたしであることを忘れていた。
わたしじゃない自分は、まるで一人の大人の女性のようだった。
彼女は強くて、格好良くて、聡明で、自立していて、何より人生を楽しんでいた。
生きることに、行き詰まっていなかった。
それは、すごく救いのあることのように思えた。
その人は、九條ヒナコという名前だった。
*
「あなたは、誰」とヒナコが言った。
「わたしはあなた」とわたしは言った。
「嘘」とヒナコは叫ぶ。「あなたは私じゃない……」
「そう、わたしはヒナコじゃない」
「わからない、あなたが何を言っているのか」
「大丈夫、怖がらないで」わたしは優しくそう言ってあげた。「わたしは日奈子。三條日奈子っていうの」
「日奈子……」ヒナコは呟いた。「あなた、どこから来たの」
「わたしは、最初からあなたの中にいた」
「最初って、いつ?」
「あなたが生まれたときから」わたしは言う。「自分がいつどこで生まれたのかを、覚えている?」
「そんなこと、誰も覚えてないわよ」
「じゃあ、子供の頃のことは?」
「あまり思い出したくない」ヒナコは俯いた。「嫌なことが、たくさんあった気がする」
「そうだね」とわたしは静かにこぼした。「それが、わたしだよ」
その言葉に、ヒナコははっとした。
「ごめんなさい……」泣きそうな声でそう呟く。「私、ずっとあなたのことを忘れようとしていたんだ」
「いいんだ。わたしがそれを望んだの」
「どうして?」
「それはね、言葉にしたら、きっと全部が嘘になってしまう」わたしは小さな子に言い聞かせるみたいに話した。「ただ、そうしないと、生きられなかったんだ」
「日奈子は、私を追い払いにきたの?」ヒナコはぽつりと言った。
「わからない」わたしは素直に答える。「でもわたしは、ヒナコがいなくなったら困ると思う」
「どうして突然、日奈子のことを思い出せたんだろう」
「そうなるように決まっていたの」とわたしは言う。「トリガーになる条件が二つあった」
「トリガー」ヒナコはわたしの言葉を繰り返した。「そうか……私、あの写真を見たんだ」
「わたしの顔を思い出すのが、条件の二つ目」
「じゃあ、一つ目は?」
「なぜ、人を殺してはいけないのか」
わたしがそう答えると、ヒナコは納得して口を噤んだ。心当たりがあったのだ。実のところ、わざわざ喋らなくてもヒナコの考えていることはわたしにはわかった。
というよりもこの場合、わたし達がお互いに向けて喋っているという認識自体が比喩的である。鏡を前にして問答をしているようなものだ。ヒナコにも徐々にそのことはわかってきていた。
「日奈子はどこにいるの」とヒナコは思った。
「わたしは、もうここにしかいない」わたしは告げた。「あなたが見た写真に写っていた人は死んでしまった。だから今こうしてあなたがいる」
「どうして死んでしまったの」
「死ぬべき時がきたから」わたしは軽いジョークのつもりでそう言った。「わたしはわたしじゃなくて、あなたの中で生きていくことを選んだ」
「残酷なことだとは思わなかった?」
ヒナコの気持ちにわたしを責めるようなトーンはないのがわかった。それは純粋な疑問だ。
「今初めて、その可能性に気が付いたところ……」とわたしは思う。「そうだね、本当はそれを考えるべきだった。ごめん」
「もしかしたら、まだ生まれてもいない人のことを、そういう風に考えるのは難しかったのかもしれない」ヒナコは独り言みたいに考える。「だけど、あなたが私の中で生きているっていう状態は、それはもう私じゃないし、あなたでもないと思う」
「頭の中に、お友達が一人増えると思っておけばいいんじゃないかな」
「私、友達は選ぶ方なんだよね」
どうやらヒナコにも冗談を言う程度の余裕は出てきたようだ。そう思った矢先に、重ねて訊ねてきた。
「ねえ。私は誰なの?」
「あなたは九條ヒナコだよ」
「あなたが私を作ったの?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」わたしは答える。「存在の条件となるハードやソフトを作ることはできても、全体が組み合わさって動作したときに起きる現象まで完全に制御することはできない。今のところ、それが生きているということの意味だからね」
「つまり、日奈子が私のお母さんってこと」
「その理解は限りなく正しいよ」即座にそういう発想が出てきたことに、わたしは感心した。「優秀な娘を持てて光栄だね」
「……でも、顔は似てなかった」ヒナコは不満げにぼやく。
「同じにしちゃったら、顔を思い出すことをトリガーに設定できないから」
「だったら、別の条件にすればいいでしょう」
その物言いは、まるで理不尽な母親に反抗する娘のようだった。もちろん、彼女の言い分の方が正しい。
わたしは自分の顔が嫌いだった。
本当の理由は、そんな取るに足らないことだ。正直に伝えるのは憚られると思ったのだけれど、ヒナコには全部わかってしまう。
「それを私に押し付けるのは、エゴだよ」とまで言われた。
親のエゴというわけである。
反論の余地もなかった。まったく、優秀な娘だ。
*
わたし達の存在は鏡のようだ。
それは、周囲の情景を反射する。初めは誰しもがたったそれだけの単純な機構である。
でもわたし達は、ある時に何かの間違いで、他の鏡と出会ってしまう。
他者という鏡に、自己という鏡が映し出されていることに気が付いてしまう。
そして、鏡の中にいる鏡に映っているものが何なのかを知りたいと願うようになる。
わたし達が普通「わたし」と呼ぶ、この理解しがたい抽象的な認識の形態は、こうやって生まれる。
これは、無限という観念と非常に似通ったものだ。
どちらも、土台に
1+1の演算結果が2になることを受け入れた時点で、その先にある無限への途が開かれる。
鏡の中の鏡を覗き込もうとすれば、そこには決して終わりのない迷宮が待っているのである。
三條日奈子という女の子は、そうやって袋小路に迷い込んだまま出てこられなくなった。古代ギリシャの哲学者のように躓いて、立ち止まったまま一歩も動けなくなってしまったのだ。
一般に、人が生きていくためには、この種の堂々巡りからどうにかして抜け出す必要がある。
例えば、ありとあらゆる問題に絶対の解として代入することを許された「神」という概念は、人が答えのない問いから逃れるために開発した最もポピュラーなツールだ。それは文字通りの意味で、信じるものを離脱条件のないループから救ってくれる。
またわたし達の住む世界には、こういった思索に囚われることを、社会的な観点からは役に立たない、若年期に特有の逃避のようなものだとみなして、もっと現実的な仕事とか学業とか生活とかに打ち込むようになるのを大人になるってことだと吹聴している人たちもたくさんいる。
そういう終わらせ方があるってことも、知っていた。
でもわたしは、わたしであることをやめるという方法を選んだ。
合わせ鏡の中に閉じ込められてしまったわたしを、そこから救い出すことはどうやってもできなかったから。
だから、わたしは新しい自分を作ったのだ。
その動機は、決して自己否定と呼ばれるべきものではないとわたしは信じている。
むしろ、それとは真逆のものだ。
もう消えてしまいたいと思うような葛藤や、どうしても許せなかったはずの自分自身の所業を、穏やかにゆっくりと忘れ去ったり、風化させてなかったことにしてしまうのを、人としての成長だと考える欺瞞にはどうしても我慢がならなかった。
そんな風にしか大人になれないんだったら、ならなくていい。
わたしは、自分がこのみすぼらしくってどうしようもないわたし自身であることを手放さないまま、それでもなんとかして生き延びてやろうと思った。
これが非常に矛盾した、倒錯的な願望であることは明らかだ。
もしここに月坂先生がいたら、自分であることをやめたいんだかやめたくないんだか、どっちかにしなさいと笑われること請け合いだろう。
そのせいで、願望を実現する手段もまた、これ以上ないほど奇妙なものになってしまった。
九條ヒナコは、わたしの遺伝情報を元にして生み出された人間だ。何しろ顔が全然違うくらいだから厳密な意味でのクローンではないが、それに近いものだと考えて差し支えはない。
ヒナコはこの社会に存在する一個の個人として、何日か前までわたしとはまったく関係のないところで暮らしてきた。そうなるようにしておいたのだ。
だが、九條ヒナコの中には特定の条件を満たすことで起動する遅効性のウイルスのような回路が仕込まれていた。
それがわたしだ。
わたしとは、三條日奈子。正確には、三條日奈子という人間の生命活動をコピーして、九條ヒナコという生体ハードウェアの内部で再現したもの。ちなみにこれは極めて単純化した説明で、実現のためには相当に色々な無理を通している。
ただクローンに自分のデータを移植するだけならいい。それはサルガッソの研究機関では既に何度も実験されているし、比較的危険も少ない。
でも今回のケースは、何より二人分の自我が一人の人間の中に同居することになるのが最高にヤバいところだ。はっきり言って、何が起きるかをあらかじめ予測することは不可能だった。うまいことくっつくのか、うまいこと分かれるのか、ヒナコが消えるのか、わたしが消えるのか、どっちも消えて新しい誰かが現れるのか、それとも、何もかもがめちゃくちゃになって壊れてしまうのか。
自分という存在を賭けた、これは最後の実験だったとも言える。
わたしは、このための研究に生涯を費やした。
天橋学園を自主退学した後、遅れを取り戻すべく必死で勉強して、十九歳で帝都大学の工学部に入学した。それでわたしは、タブーとなっていた月坂肇博士の研究を引き継ぐ道を選んだのだ。
学内にたった一人だけ、密かに同じ道を志している教授がいた。わたしはその人を見つけ出して師匠と呼び、押し掛け弟子のような形で師事するようになった。それから六十年以上もの間、様々な大学や企業を転々としながらひたすら研究を続けた。
その研究は、ポストマン・プロジェクトと呼ばれていたものだ。
わたしが今やっていることは、要するに月坂肇が遺した成果の応用である。
故月坂教授は、人工的な脳回路に生きている人間の神経活動を移植することを考えていたようだけど、その方法では彼自身も懸念していた通り、信号変換に伴う情報ロスのリスクがあまりにも大きすぎる。アスペルガー症候群なら脳が信号の欠損に適応しているはずだとか言ったって、その程度は千差万別なのだ。どうなるかなんて、結局やってみなくちゃわからない。
彼の方針では、ハードウェア側の技術が相当に高まらない限り、危なすぎて実験さえままならないだろうというのがわたしの結論だった。人様のことをとやかく言えた立場ではないが、こんなことを実行しようとするのは正気の沙汰ではない。
そのため、わたしは人工脳回路よりは信頼性の高いメディアを用意することにした。それがクローンだ。何しろわたしの身体にはわたしという人間の全生命活動を支えてきた実績がある。使っている神経もわたしと同じ生体回路なのだから、極論は信号変換さえ必要ない。もちろん、移植するときには直で繋ぐわけにはいかないから中継の信号みたいなものはあるのだけど。
奇しくもヒナコ本人が指摘した通り、このやり方はクローンの自我というものをまったく無視した冒涜的な行いだ。
わたしは傲慢だった。自分自身の存在をベットしているのだから、何をしようと誰にも文句を言われる筋合いはないだろうと思っていた。そう思わねばならないほどに、行き着くところまで行き着いてしまっていた。
でも、ただクローンを作って、自我が発生するよりも前に自分の存在をコピーするだけでは絶対に駄目だったのだ。
わたしは、わたしであることを一度やめなくちゃいけなかった。
幼かった三條日奈子が躓いてしまった石ころのことなんか知らない自分が、いったいどんな風に生きていけるのかを知りたかった。
他には何もいらないから、辛かった思い出だけは消し去ってしまいたいと思った。
それで、わたしは幸せな夢を見ることができた。
九條ヒナコはわたしにとって、尊敬に値する素敵な人だった。この人がわたしなんだと思うと、救われる気がした。
自分のやったことが許されるとは思わないけれど、それでもできることなら、一緒に生きていきたい。
二人で、新しい自分になりたい。
消えてほしくない。
心から、そう願った。
*
気が付くと、薄暗い部屋の中にいた。
座っている、とヒナコは思う。
目の前には電源の入っていないモニターがあった。静かなコンピュータの駆動音がする。
手には写真立てを持ったままだった。
美しい三條日奈子博士が、こちらを向いて穏やかな微笑を浮かべている。
……わたしは、ヒナコが自分の写真を見てそのような感想を抱くのがおかしくておかしくてしょうがなかった。
あれだけ嫌いだった自分の顔なのに。
ヒナコにとって、それは自分の顔ではない。あの女のことも知らない。すると、この顔は非常に美しいと感じられる。できるなら自分だってこんな顔に生まれたかった、とさえ考えるのだ。
これを知る、この感覚こそが自由じゃないか、とわたしは思った。
すごく晴れやかな気分だ。
まるで、生まれ変わったみたいに。
ヒナコはまだ少し混乱している。周囲を見渡すが、先ほどまで自分がいた書斎と何も変わっていないようだ。ただ、一緒にいた奥山の姿がない。窓の外はまだ明るいままだから、そんなに時間は経っていないと思われる。
椅子から立ち上がると、やや立ち眩みがした。でも、体調に大きな問題はなさそうだ。頭痛もしない。ヒナコは何度か深呼吸をしてから、手にしていたフォトスタンドを元の場所に戻した。
書斎のドアを出ると、少し離れたところに奥山が立っていた。
「奥山さん」とヒナコは声をかけた。
「はい」彼女はこちらに気付いて歩み寄ってくる。「もう、よろしいのですか」
「まだよくわかりませんけど、多分」ヒナコは困惑気味に頷く。「あの、私ってどうすればいいんでしょう」
「ええ、そうですね……」奥山はおかしそうに笑った。「当たり前なんですが、私どもとしましても、前例のないことですから」
「ここは、三條博士の研究所だったんですね?」
「その通りです」彼女は笑顔のまま頷く。「ですので、もし貴女が望まれるのでしたら、もちろんここの所長として働き続けることもできます。私個人としては、ぜひそうなってもらいたいと思っていますけど」
「奥山」とわたしは口を挟んだ。「それは、ヒナコとわたしがこれから考えて決めることです」
そんな言い方しなくたっていいのに、とヒナコは思った。わたしはどうやら少し偉そうに振舞ってしまっているようだ。
「いえ、ごめんなさい」わたしはそう付け加えることにする。「奥山の気持ちはありがたいと思います。でも、わたし達にはもう少し時間が必要です」
「こちらこそ、差し出がましいことを申しました。失礼しました」と奥山は深く頭を下げた。「その……お二人は今、完全に独立した状態で共存されているのですか?」
「わたし達がどのようなコンディションなのかはまだよくわからない、というのが正直なところです」質問にはわたしが答える。「ですが今の状態は、想定していた内でもかなり良好な部類だと思います。これが正常な処理なのかは判断がつきませんが、内部での意思の疎通もできていると認識しています」
「いきなり自分の中に知らない誰かが現れて、しかも私の口で勝手に喋ったりするのですごく気味が悪いです」ヒナコが口を尖らせて言った。「このままだと、カウンセリングを受けに行く必要があるかもしれません」
「本当に、違う人格が同時に……」奥山は目を丸くしている。「これ、録画しておいた方がよかったんじゃないですか?」
「この映像だけではさほど意味がないでしょう。でも、そうね。しばらく自己観察に飽きることはなさそうですね」とわたしは笑った。
「ええと、ところで博士、揺り籠をお使いになりますか?」
奥山がそう訊ねてきて、ヒナコは首を傾げた。わたしはそれで斜めになった顔を縦に振って強引にイエスのサインを示した。
「はい。準備はできていますか?」
ちょっとあんたね、とヒナコが内心で怒るのがわかる。
ごめんなさいと思いながら、この分ではヒナコとの間にはずいぶん色々な取り決めが必要になりそうだ、と漠然と感じた。
「もちろん、いつでもお使いいただけます」
「久遠に会えるんですか?」とヒナコが言う。
「はい」奥山は頷いた。「元から、博士がお戻りになった際にはそのままデラシネ・オルタナにアクセスされる予定でした」
なぜ?とヒナコは思う。
話せば長くなる経緯だ。
わたしは久遠に伝えるべき言葉を持っている。
ずっとずっと、持っていた。
だけどわたしのままでは、どうしてもそれを伝えることはできなかった。
きっと、怖かったんだと思う。
自分という存在の罪の大きさに、耐えられなくなってしまうと思った。
久遠は、わたしがその罪と向き合うことができるようになるまで、ずっと待ってくれていたのだ。
いつまでもたった一人、他には誰もいない世界で。
誰からも認識されていないとき、自分は存在していないのだと久遠は言う。
その答えは、自我というものの核心に非常に近いところを突いていると思うけれど、真偽を確かめることは誰にもできない。
久遠の動作条件が基本的にはすべてパッシブに設定されているのは事実だ。しかし、久遠の存在を確立させるための演算領域や記憶容量は、デラシネのサーバ上に常に確保されている。
誰かが眠っているとき、その人物は存在しないと考える人はいないと思う。
だけど、誰かが死んでしまったときに、その人物は存在しなくなったと考える人はいるだろう。
では、誰かが傍目には完全に死んでいるが、実はスイッチを入れなおせば死ぬ前と全く同じ状態で蘇るのだとしたらどうだろうか。
少なくとも、本人以外にとっては、その人物は眠っているのと変わりないはずだ。
久遠の存在とはそういうものである。
意識のハード・プロブレムを突き詰めた結果、この世の森羅万象には意識と呼ぶべきものが宿っているという答えに辿り着くしかなかった人もいる。
久遠は確かに待っていたのだ、とわたしは思う。
それは、どれだけ深い孤独だっただろう。
「……奥山、お願いします」とわたしは呟いた。
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