2-5. Theory of M(ank)ind
5
廣崎ラボからデラシネ・オルタナの仮想領域にアクセスした翌々日に、ヒナコは問題の研究所を実際に訪れることができた。
余談であるが、果たして廣崎教授はセッションの様子をモニタリングしていた。デバイス自体にそのための機能があって、ヒナコの周囲の情報を取得する仕組みだったようだ。
バーチャルの世界にあのような施設があったことに、彼も大層驚いたらしい。デバイスから離脱したヒナコはしばらくの間、教授から質問責めにされた。もちろん、見ていたものに大して差がないのだから満足のいく答えが返せるはずもない。
愉快なことに、彼は「自分もあの研究所へ行ってみたい」とまで言い出したのだが、諸々の事情を鑑みたネゴの結果、最終的には後でヒナコの取材結果を報告するという妥協点に着地した。
もしかしたら教授は個人的に久遠への接触を試みるかもしれないと思ったが、それを止めることまではしなかった。
さて、事の次第から大方の予想がつくところではあったが、研究所はデラシネの運営元であるサルガッソ・エンタープライズの傘下にあった。となれば、デラシネのサーバ上で動作している久遠の立場はインサイダーのようなものである。
ここでの久遠の仕事ぶりはまったく賞賛に値するものだった。お詫びにご案内しますとは言ったが、まさかこうも手厚い待遇を受けるとは思っていなかった。アポイントメントから交通手段まで、すべてスムーズに手配してくれて、ヒナコはほとんど何もする必要がなかったのだ。
お姫様扱い、などという場違い極まりない修辞が頭をよぎったくらいだ。
こういう仕事上のパートナーがいたらどんなに素晴らしいかと思ったが、きっとヒナコの一生分の稼ぎをつぎ込んだとしても久遠を雇えるのはせいぜい三ヶ月がいいところだろう。まさしく高嶺の花だ。
研究所の所在地は、日本の地方都市から少し離れたところにある山間部だった。夢の中では涯てがないと思われるほどに広大な森林の真っ只中だったが、地図で見る限り、それよりは幾らか人間の手が入った土地のようだ。
鉄道の駅を降りると、ロータリーでシルバーの送迎車が待っていた。
車体の側面にはサルガッソのロゴタイプがプリントされている。ヒナコは乗用車に詳しくないが、それ以外は「どこにでもある」と呼ぶに相応しい、ごくありふれた車種だった。事前に伝えられていた通りの特徴で、当然ながら中は無人だ。
ヒナコが車に近づくと、後部座席のドアが開いた。生体認証用のデータはデラシネに登録してあるため、それを使って個人を識別しているのだろう。車内に入ると、音声ナビゲーションが起動した。
「九條ヒナコ様、ようこそいらっしゃいました。ご足労いただいて感謝します」
「こちらこそ。わざわざ迎えにきてくれるなんて、VIP待遇もいいところだわ」
「目的地までの所要時間は二十分ほどです。音楽か映像をお楽しみいただくことができますが、いかがなさいますか?」
「これから行く研究所のコマーシャルとかがあれば、それを」
「申し訳ありませんが、該当するデータが存在しません」
「じゃあ結構です。お気遣いありがとう」
「承知しました。安全のため、シートベルトをご着用ください。確認ができましたら発車いたします」
車は予告通りに二十分走って、目的地に到着した。
ヒナコはその間、益体もない考え事をしていた。
これまでろくに休む間もなく動きっぱなしで、少しばかり疲れが出たのかもしれない。あるいは、
考えていたのは、自分は今、何をしようとしているのだろう、ということだ。
最初は、永久乃博士に取材をして記事を書くという明確な目的があった。しかし、博士は死んでしまった。ヒナコは彼が死ぬ前に最後に会った人間として、警察の取り調べを受けた。
デラシネ・オルタナで博士の遺した手掛かりにアプローチしたのは、それによって自分の疑いを晴らすことができるかもしれない、と考えたからだった。少なくともヒナコは自分がそう考えていると思っていた。
だが、本当にそうだろうか?
凛子が言っていた通り、警察が本気でヒナコを殺人者とみなして動いているとは考えにくかった。現に、取り調べから数日が経つものの、あれから音沙汰はない。後で正式な捜査協力の依頼があると言われたが、今のところそのような連絡もきていなかった。
敢えて久遠に訊ねるまでもなく、状況から判断すればヒナコが自身の身を案じる必要性は高くないと言える。
だから現在、自分がとっている行動の意味を合理的に解釈しようとするなら、この調査が後で何かの仕事に繋がるかもしれないという考えに行き当たるだろう。
事実、ライターという職業にはそういう部分が少なからずある。調べ始めた当初は、そのトピックが何を意味していて、誰のどんな需要を喚起するのかがよくわからないことは少なくないのだ。企業などの組織に在籍している記者の中でやり手とされるのは、その段階で企画を通すためのプレゼンテーション能力に長けている人物だと言ってもよい。詐欺師の手腕に近いものだとヒナコは感じるが、人間が利害を調整しながら協働する場にはこういった矛盾が溢れ返っている。
一方でフリーのジャーナリストは、その手のしがらみを持たないのが強みの一つである。とにかく先に行動をして、見られる形にするのは後からでも構わない。つまり、抱える矛盾を少なく済ませられるということになる。その代わり、失敗すれば実入りはゼロだ。すべての責任が自分に降りかかってくる。
しかし、これもまた嘘だということをヒナコは知っている。
自分を衝き動かしているのは、そのような打算ではない。
知りたいという欲求、目の前にある謎を解き明かしたいという願望は、もっとプリミティブなところから出てくるものだろう。本能という言葉の一般的な使われ方に対してヒナコはやや懐疑的な立場をとっているが、この情動のことはそんな風に呼んでみてもいい。
本来は、知りたいという気持ちが先にあって、それが行動を伴うはずではないか。結果として得られたものが何の役に立つとか、誰に必要とされているとか、そんなのは全部、「適応のための進化」という概念と同じで後付けの理屈にすぎない。
にも関わらず、人間の大人たちはあたかも最初から結果の方を企図していたかのように振る舞うし、そう振る舞うことを他者に対しても求めている。
いや……あるいは、その逆かもしれない。
永久乃博士の言っていたことを、ヒナコは思い出す。
物事の結果から原因を推定する能力は、人間という種族全体を特徴付けるものである。そしてそれは、しばしばある種の倒錯を引き起こすことになる。
だいたい、因果という表現が既に倒錯的だと言える。
現実のプロセスを見れば、人が認識できているのはあくまで起こった事象だけだ。結果がまず先にあって、そこから原因となるストーリーを頭の中で逆算して作り出しているのである。
それなのに人は逆さまに考える。自分が認識しているのは原因で、結果はその派生物か何かであるかのように捉えてしまう。
おそらくは、この転倒こそが人間を人間たらしめた。
何故ならこれが、自然な身体に備わった機能だけでは決して認識することのできない、未来を視るための能力だからだ。
心の理論という古い言葉がある。
かつて、他者の気持ちや考えを推測し理解するための機能のことをそう呼んだ科学者がいた。人間以外の生物、例えばチンパンジーなどの類人猿がこれを持っているのかどうかが研究のテーマだったそうだ。その問題について、結局はっきりとした結論は出ていない。
このような発想は、そもそも「人は自分のことを理解できる」という不確かな前提に端を発している。
けれども実際のところは、まるっきり正反対のことが起きていると考えられるのではないか?
本来は、起こった出来事や他人の行動原理を理解する、言い換えれば未来に起こるであろうことを予測し対処する、そのためのコードがまずあって、そこに自分という存在を当てはめてしまっている。
自分がこうだから他人も同じだろうと考えているのではなく、他人の行動や心理を因果関係としてしか把握できないから、いつの間にか自分についても同じに考えるようになる。
そうやって、気付けば自分のことを理解したようなつもりになっている。
自分は自分をわかっている、ということにする。
ひいては自我という観念そのものが、こうした根底的な錯誤の上に組み上げられたフィクションなのではないだろうか。
という辺りまで思考を進めたところで、走っていた車が停まった。
「目的地に到着しました。お疲れ様でした。シートベルトを外して降車してください」
窓の外を見遣ると、森の中にいた。
シートベルトを外すとドアが開いて、ヒナコは車を降りる。
そこは駐車場だった。研究所の裏手に位置しているようで、古いコンクリートの壁に面していた。周囲には他にも何台か車が停めてある。
日差しは木の葉のお陰で弱まっているが、じめっとした蒸し暑い外気が肌に纏わりついた。それに、セミの鳴き声がやかましい。
静かで居心地のよかった夢の中とは大違いだ。そんな当たり前のことをヒナコは思った。
壁沿いに歩いてぐるりと周ったところで、見覚えのあるエントランスが目についた。ガラス製の自動ドアだ。
その手前に白衣の女性が立っている。
髪型は低めの位置で括られたポニーテールで、化粧っ気がなくまだ若いようにも見えるが、年齢はわからない。自分よりは年上だろう、とヒナコは推測する。
「こんにちは」彼女はこちらに気が付くと深くお辞儀をした。「お待ちしていました」
「なんだか至れり尽くせりという感じで、恐縮です」とヒナコは頭を下げる。「記者の九條ヒナコです。よろしくお願いします」
「はい、存じております」女性は微笑んだように見えた。「研究員の奥山です。どうぞこちらへ」
奥山研究員の後に付き従って、施設の中に入った。
当然のことだが、デラシネ・オルタナでは素通りできたゲートがここではきちんと作動していた。ヒナコは既にテンポラリユーザーとして登録されており、認証は一瞬で済んだ。
その先にあるロビーは、仮想世界で見たままだ。観葉植物もある。大きなソファが置かれているが、誰かが座ってお喋りをしていたりはしない。
「あの……直接連絡を差し上げることもなく、大変失礼いたしました」ヒナコは前を行く奥山に声をかけた。
「お気になさらなくて結構ですよ」彼女は振り返ってにこりと笑う。「話はクオンから聞いています。珍しいご経験をなさいましたね」
「ええ、本当に……」ヒナコは頷いた。「今も、ここが夢なのか現実なのかわからなくなるくらいです」
「それは、とても興味深い問題です」奥山は目を細くする。「揺り籠をご覧になったようですね」
「揺り籠?」思わずヒナコは訊き返した。
「ええ。バーチャルセッションのサービスにアクセスするための装置を、ここではそう呼んでいます」
「ああ、はい。そうです」ヒナコはうんうんと首を縦に振る。「すごく驚きました。仮想世界で仮想世界にアクセスできるなんて……」
「シミュレーションとは本質的にそういうものなんです」と奥山は言った。「九條さんはゲームをなさいますか?」
「ゲームって、トランプとかですか」
「何でも構いません、ルールと目的があって、他人と競い合うものなら」
「それだったら友達と、お酒を飲みながらやったりしますね」
その友達というのは凛子や玲紋のことだ。
三人で遊ぶと、数字が絡むゲームでは凛子とヒナコがいい勝負をする。それ以外は概ね、玲紋が圧倒的に強い。
「ゲームをすると、他人の思考をシミュレートしようとするでしょう」奥山は小学校の優しい教師のように喋った。「例えば、ポーカーで考えるとわかりやすいと思います。基本となるルールは、カードを組み合わせてより強い役を作った方が勝ちとなるシンプルなものですが、そこに参加者が持ち点をベットして勝ったプレイヤーが取り分を得るという仕組みを加えることによって駆け引きが発生します」
「はい」ヒナコは少し首を傾げることで話の続きを促した。「ポーカーもたまにやるので、よくわかります」
「みんな、自分の持っているカードが強くて勝てる自信があるときには、たくさん点数を賭けたい。それはゲームのルールから自明に導かれる合理的な判断と言えます」と奥山は穏やかな声で続ける。「でも、そう考えることが正しいからこそ、反対の行動にも意味が生じます。つまり、実際には弱い手札しか持っていないのに、わざと掛け金を吊り上げたりする。ブラフと呼ばれる行為です。そうすることで、対戦相手が怖気づいて勝負から降りるのを狙うわけです」
「相手の強硬姿勢が、本気なのかはったりなのかを見極めなくてはならない。交渉事によく似ています」
「その通りです」彼女は右手の人差し指を立てた。「強気な行動がブラフであるかどうかは、持ち点の状況とか、相手プレイヤーの性格とか、表情とか、色々な要素から考えることができます。そうしていくと、『相手は自分がどのように考えると考えたか』という観点も出てくることになります。これが最も単純な、シミュレーションの入れ子構造です。そして原理的に、入れ子は無限に生成できるのです」
「読み合いにきりがなくなる、あれですね。すごく身に覚えがあります」とヒナコは苦笑いした。「でも結局、どこかの時点で考えるのをやめるしかなくなる」
「それは、ポーカーが現実の出来事だからです」奥山は立てていた指をたたんで、口角を上げる。「考えているのは人間の頭ですから、演算処理の資源は非常に限られています。論理的に無限の入れ子を想定することはできても、実際に生成しようとするとエラーになってしまう。コンピュータのプログラムにおいても、無限ループは初歩的な禁則事項です。大元の基盤となるハードウェアがある以上、それが必ずボトルネックになるからです。この、ボトルネックというしみったれた表現こそが、我々にとっての現実性というものを端的に言い表しています」
「どうも夢のない話ですね」ヒナコは自分の口をついた表現がおかしくて少し変な顔になった。「デラシネ・オルタナの技術は、そんな味気ない現実を変えてくれるでしょうか」
「現実という語が持つ、人間にとっての重みが薄れていくのは確かでしょう」奥山は微笑を浮かべたまま言う。「ハードウェアの性能やソフトウェアの演算効率が改善すれば、バーチャルで実現できる事象は増えます。そうして、人間が思いつくようなことは概ね仮想空間でやれるという世界になるわけです。それも、現実よりよっぽどよい形で。すると当然、そちらに生活の軸足を移したいというニーズが出てくるでしょう。デラシネ・オルタナが目指すのは、当面はそういった状況です。ただ、現在の方式の延長線上で無限を取り扱おうとするなら、どうしても何らかのフィクションは必要になります」
そのあとも少し話をしてから、ヒナコと奥山は連れ立って二階へ上がった。
細い一本道の廊下があって、左側の壁には四つ、右側には三つのドアが並んでいる。これも見覚えのある景色だった。
「ところで、奥山さん」ヒナコはそこで気になっていた質問をすることにした。「貴女がここのボスですか?」
すると彼女は目を丸くして眉を下げ、困惑したような、今にも泣き出すのではないかと思えるような、さもなくば笑いそうになるのを堪えているような不思議な表情になった。
「いいえ、私はヒラの研究員ですよ」ちょっと間をおいてから奥山は答えた。「どうして、そう思われたのですか?」
「他に人を見かけないから……」ヒナコはなんとなくきょろきょろと視線を逸らす。「それに、デラシネ・オルタナで所長の書斎に入ったんです。衣裳箪笥が大きくて、きっと部屋の主は女性だと思いました」
「他のメンバーはみんな、どこかの部屋に閉じこもっています。シャイなんです」奥山は例の教師みたいな口調で言った。「所長は今、不在ですが……九條さんの観察は鋭いと言えます。今日いらっしゃったのは、所長室の書斎をご覧になるためですね?」
「はい、その通りです」ヒナコは頷く。「それも久遠が伝えてくれたのでしょうか。本当、話が早くて助かります」
奥山は小首を傾げてもう一度笑顔を見せた。可愛らしい人だとヒナコは思う。
二階の奥にある所長室は、仮想世界よりもこちらの方が少しだけ片付いている印象だった。とはいえ根本的に物が多すぎるという問題が解決されたわけではなく、エントロピーが多少低下した程度である。
足の踏み場もないような状態ではなくなっていたので、書斎までは苦もなく辿り着けた。卵の形をしたデバイスも、以前見た通りの場所に置いてあるのが見えた。
書斎のドアを開けると、室内に篭った暖かい空気が吹き出てくるのを感じた。
部屋の中は暗い。
そこは、揺り籠の中で見たのとまったく変わらない光景だった。
机上のコンピュータが稼働する音だけが、静かに響いている。
ヒナコはゆっくりと中へ踏み入って、ラックの上にある写真立てを手に取る。
今度は、
拍子抜けするくらいあっさりと、
見ることができた。
そこに写っていたのは、女性だった。
カジュアルでありながら上品な濃紺色のドレスに身を包んでいて、黒く豊かな髪が肩のあたりまで垂れ下がっている。
街中で見かけたらつい振り返ってしまいそうなくらいの、目鼻立ちがくっきりとした美人だ。女優か何かだと言われても驚かない。
唯一、落ち着いた表情が重ねてきた年齢を感じさせるが、はっきりとしたところはわからない。まだ三十代と言われても納得できそうだし、ずっと年上のようにも見える。
それはお世辞にも、ヒナコとは似ても似つかぬ顔である。
*
ここは、どこだろうか。
夢か、それとも現実か。
そして、わたしは誰だっただろうか?
そう――
全部、最初からわかっていた。
ただ、ちょっとの間、忘れていただけだ。
「奥山」とわたしは言った。
「はい」背後から答えがあった。声が微かに震えているのがわかる。
「ただいま戻りました。ご迷惑をおかけしました」
「いいえ……貴女が戻ってくるのを、ずっとお待ちしていました」と奥山は囁く。「おかえりなさい、三條博士」
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