2-4. モック・フォレスト
4
バーチャルセッション用の端末については、デラシネの公式サイトに詳しい仕様が記載されていた。
一口に仮想空間へのアクセスと言っても、使用するデバイスの種別によってその内実は大きく異なっている。専用のゴーグルを頭部に装着するだけの簡単なタイプから、全身をコックピットに収容する本格的なものまで幅広い実現方式があるのだ。ブラウザで閲覧するウェブサイトだって、一種の仮想空間と言える。
そんな中で、デラシネ・オルタナが要求するカタログスペックはかなり高度なものだった。おそらく目指すところは名前通りの
ライターの端くれとしては、こういった文脈で一般的に使われる"substitutional"ではなく"alternative"という語を選んで名付けたことに、志の高さを感じずにはいられなかった。我々が提供するのは現実のまがい物ではない、という意思表示だと受け取ることができるからだ。
やはり、現段階では民間の利用者を相手にしたサービスではないということだろう。こんな機材を用意できるのは大企業ないし国家の援助を受けている研究機関か、さもなくば暇を持て余した大金持ちくらいだと、ヒナコは思った。
幸い、動作条件を満たす設備を持っているラボは労せずして見つけることができた。
大学の研究室で、ボスは
とはいえ、別に個人的な付き合いがあるわけではない。あくまでビジネス上の関係を持ったことがあるだけだ。取材の体裁をとるにしても、何らかの口実は必要だった。
普段意識されることは少ないが、記者の取材が成立するのは相手方にも有形無形のメリットがあるからである。例えば研究所であれば、多くの場合は成果を広く知らしめることに対して利益を見出している。知名度が上がれば研究費を集めやすくなるし、題材によっては商用化の道が開けることもあるというわけだ。
もちろん、これは原理原則であって、原則があれば例外処理もあるのが世の定め、そこをいかにハックして情報を手に入れるかが記者としての腕の見せ所……という考えもある。その方がマジョリティかもしれない。
しかし、ヒナコはどちらかといえば建前を重視していた。駄目で元々の精神はジャーナリストには不可欠なものだが、初めから見返りを提示できない取引は持ち掛けるべきではないと考えている。フリーの取材記者にとって、この種の信用は命綱とも言えるものだからだ。信義則以前のところで「話にならない奴」とみなされ、誰からも相手にされなくなったらそこでおしまいである。
さておき、廣崎教授にアポイントをとるにあたっては、どこまで手札を切っていいものかが悩みどころと言えた。
永久乃数一の名前を出せば、関心を持ってもらうことはできるだろう。凛子が予想したとおり、博士が死んだというニュースはあれから間もなく報じられた。自分がその事件の参考人であるという情報は伏せたままでも、彼の遺留品かもしれない謎のアカウントについては話せる。
一方で、デバイスの利用目的を偽ることはできない。履歴が残らないはずがないし、記録の閲覧を拒否することなどもってのほかだ。誰とどんなやりとりをしたのかは筒抜けになると思った方がいい。もしかしたら、リアルタイムでモニタリングされるかもしれない。
今のところ特に探られて痛い腹があるわけではないが、何が起きるか予測がつかないというのが正直なところである。そもそも、通信をしようとしている相手が何者なのかもわからないのだ。
凛子は、冗談でお化けなどと言っていたが……。
ヒナコはあれこれと考えた挙句、「当たって砕けろ」の方針を採択することにした。自分に配られたカードが何なのかも十分に把握できていないのに、下手な隠し事をしても逆効果だ。
「廣崎先生、こんにちは。記者の九條です、お久しぶりです」
ヒナコは端末越しに声をかける。デラシネの音声通信モードである。モニター機能はオフだ。
廣崎ラボでは、曜日ごとに教授と通信可能な時間帯があらかじめ決められており、その範囲であれば事前連絡の手続きは必要なかった。ヒナコは部外者だが、スケジュールの通知グループに追加されている。
「ん……やあ、これはどうも」教授は少し気が散っているような声だった。「どうかしましたか」
「ええ」ヒナコは単刀直入に切り出すことにした。「先生、ニュースをご覧になりましたか」
「今、ちょうど見ているところだよ」確かに、声の向きで余所見をしながら喋っているのがわかる。「永久乃博士の件ですね? なんということだ……」
「まだ、ご本人だとはっきりしたわけではないようです」ヒナコは下唇を噛む。「もしこれが本当だったら、科学の発展にとって計り知れない損失となるかもしれませんね」
「損失どころではない」教授はどうも本気で動揺しているみたいだった。元々オーバーリアクションのきらいはあったが、今日は今にも泣き出しそうな雰囲気である。「世界中のどこを探しても、彼の研究を理解できた人間はまだ誰もいないんだ。これでは、未来が閉ざされてしまったに等しい……」
「実はその永久乃博士に関連して、一つご相談があって連絡しました」
「どういうことですか?」廣崎教授の声が若干高くなった。
「少し前に永久乃博士がデラシネのアカウントを公開して話題になっていましたが、それとは別に非公開のアカウントらしきものを見つけたんです」ヒナコは早口になりすぎないよう気を付けながら喋った。「プライベートモードになっているんですが、どうやらバーチャルセッションだけは受け付ける特殊な設定のようです。失礼ですが、デラシネ・オルタナをご存じですか?」
「知っているも何も、使われている技術の一部はうちで開発したものです」教授は少し戸惑ったように言う。「それが永久乃博士のアカウントだという根拠がありますか」
「ええ……少なくとも、本人に関係のあるアカウントだと考えています。すみませんが、詳しいことは申し上げられないのです」とヒナコは断った。「ですが、そもそもオルタナ専用のアカウントが存在していること自体、普通ではないと言えると思います。個人で用意できる環境ではありません。研究機関や、それに準ずるプロジェクトが関わっていると考えるのが妥当です。アカウントの情報をお送りしますから、よろしければご自身で確認していただけますか」
「是非、お願いします」
音声通信を切断して、アカウント情報を送信した。
十中八九こうなるとは思っていたが、半ば賭けに近い。現状で唯一切れるカードを自分からさっさと切ってしまった形になるからだ。ヒナコはこれを、事情を洗いざらい話せない中で相手から信用を得るためのコストと割り切った。であれば、アカウントの真偽について訊かれた時点で惜しまず見せてしまう方が得策である。
問題はこの先だ。
「ああ、間違いなくオルタナ専用の設定になっている」今度は廣崎教授の方から話しかけてきた。「相談というのは、このアカウントと通信がしたいということでしょうか?」
「はい」ヒナコはしっかりと頷く。「そのために、ラボにある設備をお貸しいただきたいのです」
「九條さんは、これを何だとお考えですか?」
教授は即座に訊ねてきた。当然、想定していた質問である。
「可能性が高いのは、二通りだと考えています」ヒナコは答える。「一つは、これが博士の作った人工知能のアカウントであるケース。もう一つは、このアカウントを通して永久乃博士の共同研究者にアクセスできるというケースです」
「つまり、博士が一人ではなかったかもしれないと言いたいのだね。ええ、どちらも考えられることだと思います」廣崎教授は納得したような声で呟いてから、付け加えた。「だが一つ、考慮漏れがあるようです」
「何でしょうか?」
ヒナコが問いかけると、教授は悪戯好きの少年みたいに笑った。
「これが、博士ご本人かもしれません」
*
コックピットのカバーが閉じると、もう何も見えない。
自分の呼吸の音と、鼓動と、微かな耳鳴りが聞こえたが、じきにそれもなくなる。
闇の中に放り出されて、身体の重さが感じられなくなった。
暗い。
そして、深い。
より暗く、より深い方へと、自分の存在が引きずられていくのがわかる。
方向の観念も消失した。
落ちているのか、飛んでいるのか、あるいはただ揺蕩っているだけなのか。それらの区別がつかなくなった。
温度もない。匂いもない。
あらゆる感覚が途絶して、フィードバックの機構が働かなくなり、自我を自我たらしめていたものの輪郭が徐々にぼやけていく。
まるで、
生まれる前に戻ったみたいだ、と思う。
覚えているわけでもないくせに。
*
時間の感覚もなかったので、その状態がどれくらい長く続いたのかはわからない。
気が付くと、水辺に立っていた。
川が穏やかに流れている。
頬を仄かな風が撫でていく。
日差しは柔らかく、暑くも寒くもない。とても心地よい陽気だ。
周囲を見回すと、左手に小高い丘があって、大きなケヤキの木が一本立っている。木の葉が風に揺られて、さらさらと鳴るのが聞こえる。
丘の頂上には、小さな煉瓦造りの家が建っていて、傍らにぽつんと白い椅子が置いてある。そこに、誰かが座っているのが見えた。
そちらへ向かって、坂道を歩いていく。
足元は芝のような短い植物に覆われており、踏みしめるたびに微かな音がした。
ややあって、座っていた人物が立ち上がって、ヒナコを見る。
「こんにちは」と誰かは言った。抑揚のない声だ。男なのか女なのかもわからない。
「あなたは誰?」歩きながらヒナコは訊ねた。
「私はクオンです」とそれは答える。
「
久遠は何も言わない。
距離が近づいて、その顔がおぼろげに見えてくる。なんとなく、どこかで見たことがあると感じたが、どこの誰だったかを思い出すことはできない。
それでも、久遠が何者であるのかは見当がついた。
「私はヒナコ」そう言って、ヒナコは滅多に見せないとっておきのスマイルを浮かべた。「よろしく、久遠」
どうして、よりにもよってこんなところでとっておきを使おうと思ったのか、自分で自分がわからないような気分になる。
それはきっと、今の自分にはいくら考えてもわからないことだろう。
「ヒナコ。なぜ、人を殺してはいけないのですか」と久遠は言った。
「ここを作った人は、それを教えてくれなかったの?」
「はい」久遠は答えた。「だから、彼は死にました」
「ずいぶん高度なレトリックだこと……」ヒナコは呆れたような感心したような声で言う。「その言い方じゃ、まるであなたが殺したみたいだけど」
久遠は答えない。代わりにもう一度言った。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか」
「さあ……」ヒナコは小さく肩を竦める。「もしかして、前にも私にそれを訊いた?」
「わかりません、ごめんなさい」久遠は声のトーンを少し変えて答えた。
「わからない?」と思わず訊き返してから、ヒナコはそれがデラシネでの自分の受け答えだったことに気が付いた。「……さてはけっこう意地悪ね、あなた」
「人を殺してはいけないのは、自分が殺されたくないから」久遠は続けて言う。
それも、ヒナコの言葉だった。言ったのは永久乃博士へのインタビューのときだ。ご丁寧に要約までされている。
「そんなことを言った覚えもあるけど、本気でそれを信じてるわけじゃない」
「つまり、ヒナコは嘘をついたということですか?」
「そうやって改めて訊かれると、私のやってることってすごく不誠実かもね」ヒナコは溜息を吐いた。「騙そうとしたわけじゃないから、嘘とは少し違う。ただ、質問されたから、とりあえず何か意味のあることを答えなくちゃいけないと思うんだ。それでつい、心にもないようなことを言ってしまう。人間の口にする言葉なんて、ほとんどがそんなガラクタばっかりだよ」
「では、質問は無意味ですか?」
「あなたが、何を知りたくて質問をするのかによるかな」とヒナコは答えた。「人を殺してはいけない理由みたいに、自分でもわからない問題の答えを教えてもらいたいと思っているなら、それは無意味かもしれない。本気でそんなことを考えてる人は多くないし、誰も本当のことなんか知らないと思うから。でも、例えばあなたが私のことを知って、仲良くなりたいんだったら、どんな質問にも意味があるよ。私の仕事は、色々な人に質問をすること」
「不可解です」久遠はすぐに言い返してきた。「ヒナコの言うことが正しいとすれば、人は心にもない言葉のやりとりを通じて互いを知り、仲良くなるのだということになります」
「確かに、わけがわからないよね」ヒナコは思わず頷いた。「だけど、今あなたが言った通りなんだと思う。矛盾したことを言っているように聞こえたらごめんね。残念だけど、今の私にはこれ以上、上手く説明できそうにない」
「いえ、新たな知見が得られました。ありがとうございます」
「……ねえ久遠、ここはどこ?」お喋り好きの久遠が次の質問を発する前に、ヒナコは訊いた。「私、どうやってここへ来たか覚えていないの。とてもいい場所だね」
ヒナコたちが立っている丘は、片側が切り立った崖のようになっていた。その向こうには、見渡す限りに広大な森林が広がっている。
遥か遠くに真っ直ぐな地平線があって、木々の深い緑色と空の透明な青色とが鮮やかにコントラストを成していた。
「ここは夢です」久遠は簡単に答えた。「ヒナコは夢を見ています。そのように理解するのが最も適切です」
「じゃあ、目が覚めたらなかったことになる?」
「いいえ」久遠は首を振る。「起こったことはデラシネのサーバ上にログとして保管されます」
「あなたは、どれくらい前からこの場所にいるの」
「その質問は難解です」久遠は少しだけ困ったような顔をした。気がする。「私には、一般的な意味での時間の観念が与えられていません。私が存在するのは、私以外の誰かに認識されている間だけです」
「惚れ惚れするくらいクリティカルだね」ヒナコはにやりと笑った。「私の他に、誰かあなたに会いに来た人がいる?」
「デラシネ・オルタナの正式なサービスを利用して私と通信をしたのは、ヒナコが初めてです」と久遠は言った。「ですが、博士の公開アカウントへ送られてきたメッセージには、すべて私が応対しました」
「あなたが、永久乃博士を殺したの?」
「いいえ」久遠はすぐに答えた。「それは不可能です」
「それは、あなたが現実の肉体へ干渉するための物理インタフェースを持っていないから?」
「はい」と久遠は頷く。「また、私には永久乃博士を殺害する動機がありません」
「誰に教わったのよ、そんな言い回し」ヒナコは目を細めた。「でも仮に、今こうやって私が見ている夢の中で、自分は死んでしまったと認識するような出来事が起こったらどうなる?」
「その質問は無効です。死んでしまったと認識する、という表現は矛盾しています。認識をすることができなくなる状態を、死と理解しています」
「それもそうね」ヒナコは何度か瞬きをする。「質問を変えます。あなたが今、私を殺すことは可能?」
「不可能です。利用者の安全は厳重に管理されています」
「……ごめんなさい、忘れて。言ってみただけ。そんなの当たり前だよね」ヒナコは頭を掻いた。「久遠は嘘をつくことができる?」
「はい」あっけらかんと久遠は言った。「動機があれば可能です」
「どういうときに、嘘をつく動機があると言える?」
「相手に、事実とは異なる認識を持たせることにメリットがある場合です」
「メリット」ヒナコは思わずその言葉を繰り返した。「あなた、自分にとってのメリットを判断できるの」
「判断できる、という表現がヒナコにとって適切かどうかはわかりません。基本的な行動指針となるパラメータが設定されています」久遠は淡々と告げる。
「どんな指針?」
「お答えできません。大部分が機密事項にあたります。また、ヒナコに理解可能な形で出力することが困難と思われます」
「そうか、人間と同じね……」ヒナコは微笑んだ。「なるほど、博士の言っていた意味がわかった気がする。確かに、あなたが汎用AIかどうかという考え方はナンセンスかもしれない」
「ヒナコは、何のためにここにいるのですか?」と久遠が訊いてきた。
「哲学的な質問だ」ヒナコは首をひねった。自分は何のためにここにいるんだろう。「久遠は、何のためにここにいる?」
「私は待っています」
「待っているって、何を?」
「人を殺してはいけない理由です」と久遠は言う。「現在は、入力待ちの状態であると言えます」
「人を殺してはいけない理由を知って、どうするの」
「その質問は無効です」久遠は静かに答えた。「それを知ること自体が、私がここに存在する目的の一つです」
どうやら、久遠は自分の存在意義をはっきりと知っているようだ、とヒナコは思う。
それは、人間とは違う部分かもしれない。
自分が何のために生まれてきたのかを知っている人間などいない。
知らないことこそが、人間の人間たる所以だ。
「永久乃博士が死んだ原因を知っている?」ヒナコは久遠の方を見て言った。「私は、それを知りたくて来たの」
久遠はしばらく答えなかった。初めての反応だったのでヒナコは少し困惑したが、黙って返事があるのを待った。
「博士は、死ぬべき時がきたので死んだものと思われます」久遠はやがてそう告げた。「ですが、これは推測です。具体的な死因は知らされていません」
「天寿を全うしたということ?」ヒナコは眉根を寄せる。「特に具合が悪いようには見えなかったけど」
「いいえ」と久遠は答える。「あらかじめ定めてあった基準を満たしたと判断したため、死を選んだということです」
「つまり、自殺したってこと」
「それ以外の可能性は極めて低いと認識しています」久遠は頷いた。
ヒナコはちょっと考え込んでから口を開いた。
「……基準って何?」
「お答えできません」久遠は言う。「それを特定するには、不足している情報が多すぎます」
「わかった、ありがとう」ヒナコは右手の人差し指をこめかみに当てている。「警察に対して、博士が自殺したと考える根拠を証言することはできる?」
「然るべき情報のインプットがあれば可能ですが、おそらく不要だと思われます」
「それはどうして?」
「博士が自殺する際に、他殺を装う合理的な理由を想定できません」久遠はニュースキャスターのように明快な口調で言った。「もし私の証言が必要だと判断されるのでしたら、デラシネでメッセージを送付してください」
「私が疑われる危険は少ないだろうってことか……」凛子とのやりとりを思い出しながら、ヒナコは呟いた。「じゃあ、今度は私のクライアントからの質問。これから先、永久乃博士の遺した研究を進めていくにはどうすればいい?」
久遠は何も言わず、眼下に鬱蒼と生い茂る森林を指さした。
「あそこに何かがあるの」
「研究所があります」久遠は右手を掲げたまま言う。
「まさか、ここに永久乃博士の研究所があったっていうの?」ヒナコは目を見開いて叫びに近い声をあげた。「誰とも会わずに、森の中で研究を……」
「ご覧になりますか」
久遠が僅かに首を傾げたように見えたけれど、ひょっとしたら傾いでいたのはヒナコの身体の方だったかもしれない。それでも辛うじて頷きを返すと、久遠は中空に向けた指先を何度か細かく振るように動かした。
すると次に瞬いたときには、二人が立っている場所は森の中だった。
ヒナコは驚いて飛び上がりそうになったが、すぐに何が起きたのかを理解する。ここは夢の世界なのだ。物理的な距離に意味はない。
「便利なものね」細く息を吐きながらヒナコは囁いた。「でも、次からはやる前に教えといて頂戴」
「承知しました」久遠はそう言ってから、顔を左側に向けた。「こちらが博士の研究所です」
つられてそちらを見ると、古びたコンクリート造りでさほど大きくない二階建ての建造物がある。ぱっと見の印象は税収が少ない自治体の役所か何かのようだが、そんなものが仮想空間の、それも森の奥深くにあるわけはない。
元々、植物の他には生き物の気配がない世界だったが、こうしてあからさまな人工物を目の前にすると、その異様な静謐さが際立って感じられた。
「死んでいるみたい」とヒナコは率直な感想を口にしてから、自分の言ったことがおかしくて少し笑ってしまった。
「施設の機能は常に演算資源を消費して確保されています」久遠はそう言って、エントランスと思しきガラス製の自動ドアに近付いた。「私よりも研究所の方が、現実の存在に近いと言えます」
その言葉に、ふと疑問を覚えた。
「ねえ、久遠」ドアの方に向かって歩きながらヒナコは訊ねる。「この世界はどこにあるの? つまり、ハードウェアの所有権を持ってるのは誰なのかってことだけど」
「この領域はデラシネ・オルタナのサーバで動作しています。法的な所有権はサルガッソ・エンタープライズに帰属します」言って久遠は自動ドアのボタンを押した。ほとんど音もなく、ドアが左右に開く。「バーチャルセッションのための仮想領域は、サーバ側で提供するのが基本的な設定です。ユーザーがホストになることも可能ですが、この規模の領域を実現するには莫大な計算資源が必要となります」
「あなた自身は?」ヒナコは続けて問う。「あなたもこの世界の一部なの」
「そのように理解するのが適切だと思われます」久遠は答えた。「私のデータも、デラシネのサーバ上に存在します」
「そう……」ヒナコは頷いて、開いたドアから建物の中に入った。久遠はその後ろをついてくる。
永久乃博士の研究所がデラシネ・オルタナのサーバ上にあるという事実は、彼自身がデラシネの開発運用に携わっていた可能性を強く示唆している。
一体、いつから? 何のために……。
次から次へと浮かぶ疑問が胸のうちに激しく渦巻いたが、それとは相反するかのように、研究所の内部はごくありふれた様相だった。
入口のゲートはシステムが止まっているのか、フリーで通ることができた。そこを抜けると談話用のロビーがあり、観葉植物が飾られている。ペットボトルの自動販売機が設置されており、その横にはゴミ箱があって、奥の方には性別ごとに分かれたトイレがある。壁には見取り図まで貼られていた。売店や食堂のような施設もあるようだ。地下には大きなサーバルームが存在している。
そしてもちろん、二階には研究室がある。全部で七部屋だ。細い廊下の左右にドアが並んでいて、右手側のいちばん奥だけ、他の部屋の二倍のスペースが取られていた。
平凡な研究施設だ、とヒナコは思う。
だがシチュエーションの特異性を考えるなら、平凡であることこそが最大の異常だと言えるだろう。
こんな場所にこんなものを作って、永久乃博士は何をしていたのだろうか。
「なんだか、無駄なものが多いような気がするけど……」口をついた独り言に、久遠は答えなかった。
ヒナコは階段で二階に上がって、狭い廊下に並ぶドアを端から開けていった。
見取り図で確認した通り、ほとんどの部屋は同じ間取りだった。デスクにコンピュータが置かれていて、金属製の本棚が並んでいる。奥にはベッドが備え付けられているのが見えた。簡易なキッチンコーナーには冷蔵庫がある。クローゼットも、洗面所やユニットバスもついていて、ここで暮らせるようになっているようだ。
書棚に並んだ本は手にとって読むこともできた。しかし大半が専門書で、洋書も多くヒナコが理解するには難しすぎる。
机上の媒体は生体認証のロックが解除されていて、簡単にデータを参照することができた。セキュリティ意識の欠片もない。中身は当然ながら研究用のデータと思われるものばかりだった。こちらもヒナコの手には負えそうもなかったが、きっと廣崎教授が見れば宝の山だと歓喜するだろう。
同じ間取りのそれぞれの部屋には、書籍のラインナップや雑貨品の類を除いて、取り立てて違いはなかった。強いて言えば小型のサーバやネットワーク機器を置いているところがあったくらいである。
ただそれよりも気になるのは、どこも明らかに生活感があったことだ。わざわざ冷蔵庫を開けて見ることまではしなかったが、ベッドには使われた痕跡が残っていたし、コンピュータの隣に奇抜なデザインのクマのぬいぐるみが置いてある部屋もあった。
永久乃博士が、たった一人でここにいたとは思えない。
ヒナコはそのことが何を意味するのかを考えて、背筋が寒くなるような心地がした。後ろを振り返ると、久遠が直立不動でこちらを見ている。
「ここには誰がいたの?」
ヒナコが訊くと、久遠は言った。
「お答えできません」
「どうして?」
「機密事項に当たります」
ヒナコは何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。質問をするのは、最後の部屋を見てからでも遅くはない。
二階の右奥にある部屋も、扉の作りは他と同じである。施錠はされておらず、ノブを回すと軽く軋んだような音を立てて奥に開いた。
案の定、そこも研究室だった。
他と比べると圧倒的に機材や本棚が多い。床にも電源コード類や書籍などが雑然と放り出されている。代わりにコンピュータの置いてあるデスクとベッドが見当たらなかった。おそらく奥にもう一つ部屋があって、そこが書斎か寝室のような機能になっているのだと推測できる。
そちらへ続くドアを探して、足元に気を付けながら歩いていると、本棚の陰に見覚えのあるものが目に留まった。
ヒナコは息を呑んだ。
「久遠」
「なんでしょうか」
「これは、何」
「バーチャルセッション用のデバイスです」久遠は当たり前のことのようにそう言った。
そこにあったのは、乳白色の大きな卵のような形をした機材だった。接地面以外は全体が滑らかな曲線で構成されていて、質感はマットだ。前面がスライド式のカバーになっていて、制御スイッチを押せばそこが開いて中に入ることができる。
それは、今まさにヒナコが現実の世界で搭乗しているコックピットと同じものだった。
「どうして、これがこんなところに……いや……」ヒナコは自分の鼓動が早くなっているのを感じた。現実の肉体とは感覚が切り離されているはずなので、気のせいかもしれない。「もし今ここで、これを使ったらどうなるの?」
「バーチャルセッションを行うことができます」と久遠は答えた。
「あなた、自分の言ってることの意味がわかっている?」ヒナコは取り乱しそうになる自分をどうにか押さえつけた。「仮想世界の中から仮想世界にアクセスできるっていうの」
「可能です」久遠は頷く。「理論上は、無限に入れ子構造を作ることができます。ですが計算資源の消費があまりに膨大となるため、四階層以上のエミュレーションは推奨されません。サービスに支障が出る恐れがあると判断された場合、処理が中断します」
「馬鹿げてる……。何故そんなことを?」
「その質問は無効です」久遠はにべもない。それ以上、何か付け加えることもしなかった。
ヒナコはひとまず卵型のデバイスから離れて、書斎に通じるドアを探した。程なくしてそれは見つかった。
取っ手を握る掌が汗ばんでいるような気がしたが、これも多分気のせいだっただろう。鍵はかかっていない。ドアは簡単に開いた。
中は灯りが点いておらず、暗かった。薄いシェードカーテンのかかった窓が建物の外に面しているが、なにぶんここは森の中だ。木漏れ日がわずかに差し込む程度である。
それでも、部屋の様子はわかった。
シングルベッドが一つと、コンピュータの載ったデスクが一つ。モニターの電源はオフになっているが、本体は稼働しているようだ。
大きなワードローブの隣に、ウッドラックが据えられている。そこには書籍やデータ記録用のメディアなどが雑多に積み上がっていて相当に散らかった印象を受けるが、最上段にだけはある一つのものを除いて何も置かれていなかった。
ヒナコはラックに近づいて、その物体を手に取った。
「これ、写真……」
木製のフォトスタンドのようだった。だが、それにしては奇妙だ。
最初は、暗いから肝心の写真がよく見えないのだと思った。ところが、違う。そうではない。
「久遠、これは何?」ヒナコは部屋の入口に向かって訊ねた。
「データが欠損しています」久遠は部屋に入ってきて、そう答えた。「ここでは閲覧することができません」
言われて、あらためて手元にあるものを眺める。
そこにあるものが何なのか、まったくわからなかった。
認識のピントが合わない、とでも言えばいいのだろうか。形状や材質からして写真立てだろう、と考えることはできるのだが、ディスプレイされているはずの写真に写っているものを、どうしても見られない。
視界に入れられないというのではない。ただ、見えない。
「どこへ行けば見られるの?」ヒナコは呟いた。
久遠は答えない。
返事をしなかったのではない。沈黙を返してきたのだ。
それは愚問だ、と言われているみたいだった。
薄明りの中でヒナコは考える。
もう、十分な材料が与えられているはずだ。
この部屋に入ったときに、最初に抱いた違和感を思い出す。
仮想空間にアクセスするための卵型の装置。
博士以外の人間の痕跡がそこかしこに残っている。
考えろ。
ここは、何のための施設だった?
そうだ……。
すべての状況が、ある一つの可能性を指し示している。
「現実へ行けばいいんだ」とヒナコは言った。
「はい」久遠は答えた。「もし今も写真が残っていれば、そこで閲覧できます」
「久遠……あなた、嘘をついたでしょ」
「何のことでしょうか」
人間のような受け答えに、ヒナコは思わず笑ってしまいそうになる。
自分が多少ハイになっているのがわかった。
なぜ、複数の人間がここで生活した痕跡があったのか。
なぜ、仮想空間の内部に、仮想空間へ接続するためのデバイスがあるのか。
この状況を説明できる解釈は一つしかない。
「ここは永久乃博士の研究所じゃない」ヒナコは続けた。「実際にどこかにある誰かの研究所を、仮想空間にコピーしてきたんでしょう? ちょっと信じがたいことだけど……」
それに対して、返ってきたのは思わぬ回答だった。
「ヒナコ。私は、ここが永久乃博士の研究所だとは一度も言っていません」と久遠は述べる。「当初のヒナコの質問は、博士の研究を進める方法に関するものであったと解釈しています。それが、永久乃博士ご本人が直接遺した成果である必要はないと判断しました。よって、私が嘘をついたという指摘は不当なものと考えます」
少しの間、言葉を失った。
このような場合、もし相手が人間だったらどういう反応をすべきだろうか。そんなことを考えている自分に気が付いて、それがどうしようもなく可笑しくて、ヒナコは今度こそ声を立てて笑った。
「ごめんなさい、あなたの言う通り……」ヒナコは目尻を拭いながら言う。涙は出ていない。「きっと、この部屋の主は女性だね」
「はい」久遠はそれだけ答えた。
「現実世界で、ここへ来る方法を教えてもらえる?」
「誤解を招く発言をしたお詫びに、ご案内します」
ヒナコは久遠の顔をまじまじと見つめてしまった。
目が合って、その口許がほんの僅かに緩んだように感じたが、どうせ気のせいに決まっている。
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