2-3. 永久の数は一
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インターフォンが鳴ったのでモニターを確認すると、黒い服を着た二人の男が立っているのが見えた。
幸か不幸か、ヒナコにはその風体だけで彼らがどういう種類の人間かは察しがついたため、一瞬のうちに眠気と良識ある市民としての立場とを天秤にかける羽目になり、結果ぎりぎりのところで後者が優先された。
永久乃博士との会談から、もう数日は経っているはずだ。この間、ヒナコは急ぎの仕事を幾つか片付ける必要があって、時間の感覚が失われるくらい不規則な生活を送っていた。録音したインタビューの文字起こしもまだ終わっていない。窓の外を見れば今が日中であることは明らかだが、それまで手掛けていた原稿にとりあえずの目処がついたところで、いい加減に身体が活動限界を訴え始めていたので仮眠をとろうと思っていた。その矢先の出来事だった。
「はい……」せめてもの抵抗にと、ヒナコはなるべく迷惑そうに聞こえるよう低い声を出す。「どちら様でしょう」
「突然、失礼いたします。九條さんですね」手前の男が喋った。声を聞けば意外と若そうだが、欠片ほども感情のこもっていない慇懃な口調だった。「警察です。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
お断りします、と言い出せる雰囲気でもない。彼らにとって、相手に有無を言わせない威圧感は職務上必要とされるスキルの一つなのだろう。
気付くと男は懐から手帳らしきものを取り出して、カメラに向かって突きつけていた。ヒナコはそれを見て、軽く溜息をつく。
「すみませんが徹夜続きなんで、手短にお願いします」ぶっきらぼうにそう言ってやった。「このままで構いませんか?」
「いえ、できればお宅にお邪魔したいのですが」男は声色一つ変えずに答えた。「ここでお話しすると、近隣の方のご迷惑にもなります」
連絡もなしにいきなり訪ねてきておいて、なんと非常識な申し出だろうか。なぁにが「近隣の方のご迷惑」だ、一番迷惑を被ってるのは私だろうがと怒鳴りたくなる気持ちをヒナコは堪える。どう考えても、睡眠不足で気が立っていた。
しかしながら、現実問題としてこの部屋に彼らを上げるのは不可能である。見られてはまずいものがあるわけではないが、単に狭いうえに物が多すぎてスペースが足りないし、相手は自称警察とはいえ男二人だ。セキュリティの問題もある。
「えっと、令状が出ているのですか? だったらしょうがないですが、そうでなければうちに入るのは勘弁してください。きっと、足を踏み入れたことを後悔します」ヒナコは意図せず早口になった。「五分待ってください、出ていきますから……。近所にファミレスがあるので、そこへ行きましょう」
多少なりとも法律の知識があると判断されたのか、男はそれ以上の要求はせず素直にこちらの言い分を承諾した。当然のことではあるが、一応まともな警官の対応だと評価できる。
ヒナコは大急ぎで顔を洗い、髪を梳かし、簡単な化粧をして何日かぶりに外へ出た。久しぶりの日差しが眩しくて、目が潰れそうだった。
ファミレスへ向かう道すがら、二人の男から簡単な自己紹介を受けたが、興味のない話だったので聞き流してしまった。名前を呼ぶつもりもなかったため、わざわざ覚える必要性を感じない。ヒナコが新たにインプットしたのは、彼らが刑事であるという情報だけだった。
インターフォン越しに会話をした男が矢面に立つ役と決まっているのか、もう一人はほとんど口を利かなかった。ただ顔を見れば、黙っている男の方が見かけの年齢はだいぶ上である。髪の毛は黒いが、老齢と言ってもいいくらいだ。その他に二人のパワーバランスを示唆するようなサインは、ヒナコには見て取ることができなかった。
平日の午後、時間帯は昼食時を少し過ぎたあたりだった。ファミレスにいるのは子供連れの女性と年配客が多く、満席とはいかないまでもそれなりに賑わっている。三人は隅の方にあるボックス席に陣取った。
「お忙しいところ、申し訳ありませんでした」前衛担当が、またしても申し訳なさなど微塵も感じさせない声で言う。「何か注文されますか」
「あまり食事って気分じゃないので、飲み物だけ」ヒナコは不機嫌を隠さない。「あぁいや、奢ってもらえるんならパフェでも食べようかな」
「そういったことはしない決まりです」彼は生真面目に答えた。
ウェイトレスがやってきて、三人ともドリンクを注文した。店員は手元の端末を何度かプッシュし、「お飲み物はセルフサービスになります。あちらのドリンクバーからお持ちください」と可愛らしい声を出し、愛想笑いを残して去っていく。これくらいのオペレーションであれば、ごく簡単な人工知能でも問題なくこなせるだろうとヒナコはぼんやり考える。
その後、実際にドリンクを取りに立ったのはヒナコだけだった。少しでも頭をすっきりさせようと、ホットコーヒーをカップに注いでテーブルへ戻ると、慇懃な男がすぐに切り出してきた。
「貴女は先日、取材のために永久乃数一博士とお会いになった。間違いありませんか」
なんとなく、その名前が出てくるような気はしていたので驚きはなかった。ここ最近のヒナコの生活で、明らかに非日常的な経験をもたらしたのは彼くらいだったからだ。
人間の勘とはそんなもので、必ずしも合理的とは呼べないが、多くはそう馬鹿にしたものでもない。
「間違いありません」とヒナコは答えた。それから熱いコーヒーに口をつけた。
「二日前に、その博士が亡くなりました」
こめかみの辺りに、電流が走ったような軽い痛みを感じる。
「……自殺ですか?」訊ねてから、余計なことを言ったかもしれない、と思った。
「目下、捜査中です」男は片方の目を細めた。「心当たりがおありでしょうか」
「そういったことは、もっと博士と身近な方にお訊きになる方がいいのでは?」ヒナコはとりあえずそう答えてみる。「私は一度、お会いしただけです」
「貴女より身近な方が、まだ見つかっていません」男は表情を変えなかった。
この刑事が、冗談や軽口を叩いているわけではないのは明白である。ならば何らかのブラフの可能性は? あるかもしれない。
「遺体の第一発見者がいるはずです」ヒナコは鎌をかけるつもりで言った。「博士がどんな暮らしをしていたのかわかりませんが、プライベートな場所で亡くなったなら、そのことに気が付いた人間は彼とそれなりに交流があったのではないですか」
「匿名の通報がありました。被害者本人によるものだった可能性もあります」男はすぐに答えた。「失礼ですが、一昨日の夜はどちらに?」
「博士へのインタビューが終わって帰ってきた後は、ずっと自宅で仕事をしていました。特に誰かと会ったりはしてませんが、端末の操作ログとか、メッセージの送信履歴を見てもらえればわかると思います」
「個人の媒体からアクセスできる電子的な記録は、偽装が容易なため証拠としての能力は高くないとみなされます」ヒナコの弁明に、彼はすげなく告げる。「ええ、ですが当然、九條さんの証言として記録はさせていただきましょう」
「デラシネで、何度かリアルタイムにメッセージのやり取りをしました」ヒナコは食い下がった。「アクセス元のデータが残っていますよね? 通信相手は特定できます。証言をしてもらえれば、会話をしていた裏付けは取れるかと」
「ウェブ上のメッセージは、現場不在証明にはなりえません」刑事は仮面でも被っているみたいに表情を変えない。「通信がどこから行われたかを調べることもできますが、これも偽るのは難しくない情報です。その痕跡次第で、貴女が実際には自宅にいなかったことの証明はできるかもしれませんが、逆は認められないのです。そういった偽装工作を行うことにメリットがあると考えられるからです」
「どうあがいても、私にアリバイはないってことですね」軽く息を吐いて、ヒナコは左手を挙げた。「でしたらその……一つ、確認してもよろしいでしょうか」
刑事たちは反応しない。お前に発言権はないと言ってこないのだから、喋っていいのだろうと前向きに捉えることにした。
「そもそも、亡くなった永久乃博士という方が、私が実際に会ったのと同じ人物である確証がありません」ヒナコは手を挙げたまま発言した。「つまり、私がお会いしたのは、なんというか……少年のような人でした。比喩とかではなくて」
「ええ。では、ご本人で間違いないかと存じます」男はそこで初めていささか人間的なリアクションを示した。二度頷いたのだ。発言の意図に納得がいった、という意味だろう。「科学者として知られる永久乃博士が本当に一人の個人であったかどうかは、まだわかっていません。今回の件が報道されれば、真偽はともかくとして、どこかから声明が出る可能性もあると考えています。何にせよ現時点ではっきりしているのは、亡くなった人物が永久乃数一を名乗り、死の直前に貴女と会っているということだけです。これらの事実はインターネットの通信ログや目撃情報から明らかになっています」
要するに、博士の正体についてこちらが知っている以上の情報は何も掴んでいないと思ってよさそうだ。彼らが視野に入れている展開も、ヒナコと凡そ一致しているようだった。
だが、こうなってくると、自分は容疑者の筆頭候補として扱われていると見るべきである。他に博士と会った人間がいないのであれば、今のところ唯一の容疑者なのかもしれない。もしそうであれば、逆説的に、ヒナコの立場からは本件が他殺である蓋然性は低くなると言える。
思いのほか面倒な局面だ。少しは疑われないよう、心証のよい振る舞いを心掛けておくべきだっただろうか……と、ヒナコは今更考えた。しかし、このように考えること自体が、相手からすれば疑わしいと感じる根拠になることもあり得る。
もちろん、まったく意味のない思考である。冷静さを欠いている証拠だ。
「個人的には、現場の痕跡などから他殺の線は薄いと見ています」内心の動揺を見透かしたように刑事が言った。「ですから、自殺の原因について心当たりがあれば教えていただきたいのですが」
プレッシャーをかけて不安を煽り、その後で少し安心させるようなことを言えば自ずと口は軽くなる。相手の狙いは大体そんなところであろう、とヒナコは当たりをつけた。だが、それがわかったからといって状況が好転するわけでもない。
むしろ、そう、不安を煽られたと感じるのは、実際に不安な気持ちを抱いたということでもある。疲れや眠気のせいだけではないだろう。少なからず、自分はこのシチュエーションに心を乱されている。そのように認識せざるを得なかった。原因は、おそらく一つには限定できない。
「……博士が、何らかの苦悩を抱えていたのは確かだと思います」ヒナコはコーヒーの黒い水面を見つめながらぽつりと呟いた。「それに……精神的に不安定なところがあって、普通に考えればカウンセリングが必要な状態ではないか、と感じたのも事実です。しかし、彼のように偉大な科学者の心の在り方について、私が自分の物差しで推測をしたり意見することに価値があるとは思えませんでした」
「博士の苦悩とは、どういったものだったとお考えですか」と男はすぐに訊いてくる。
「それは、憶測の域を出ない話になります」
「結構です。お話を聞いて判断するのは我々の役割なので」彼は低い声でそう言った。「取材にあたって記録を残していらっしゃるでしょうから、事実関係の裏付けをとるのも難しくないと考えます」
つまるところ、本気でヒナコの意見を参考にしたくて訊いているのではない、いいからさっさと喋れという意味だろう。こちらが事実と食い違う証言をしたり、妙な先入観を植え付けようとしたりしないかを確かめるのが主な目的なのだ。インタビューの記録は証拠品として押収することになるから、怪しまれたくなかったら決して改竄したりせず保持しておけという言外の圧力でもある。
舌先三寸のネゴシエーションならそうそう遅れを取らない自負があったが、今回ばかりはさすがに相手が悪いと思うしかなさそうだった。何しろ持っているカードが違いすぎる。ストレートフラッシュの相手にノーペアで勝負を挑むようなものだ。
「永久乃博士は、ご自身の研究が及ぼす影響について、どうも悲観的な見通しを持っているみたいでした」ヒナコはやや慎重に言葉を選んだ。「いえ、これも正確な表現じゃないですけど……少なくとも、未来に対する悲観的な見通しを持った博士がいた、ということです。医学的に全く根拠のない言い方が許されるなら、彼の精神は分裂傾向にあったのではないかと私は思います。そういう印象を持ちました」
「専門家の判断を仰がないことには、何とも言えないでしょうね」と刑事は口をへの字に曲げる。「そのことと博士の死に、何か関係があるとお考えですか?」
「わかりません」大人しく返事をするのに、ヒナコは努めて感情を押し殺す必要があった。侮られているとしか思えない。誘導尋問もいいところだ。「今しがた、判断をするのは私の方ではないと伺ったばかりですけど」
「これは失礼」大げさに肩を竦めて男は言った。「あくまで、九條さんがそのように感じたということですね」
「最初から、そう申し上げていたつもりです」
ヒナコの棘のある言葉に刑事は小さく鼻を鳴らしたが、仏頂面は崩さないまま襟元を正した。
「どうやら、本当にお忙しいところへお邪魔してしまったようです」と、例の悪びれない口調で言う。「今日のところはお暇いたします。後日、正式な捜査協力の依頼がありますので、証拠となりそうな物品の取り扱いにはご注意ください」
それを合図に、二人は立ち上がった。この場はこれでお開きということのようだ。
「ご丁寧にありがとうございます」ヒナコはコーヒーを啜る。「私はパフェをいただいてから帰りますから、刑事さんたちはどうぞお先に」
腹いせに、ちょっと意地悪をして困らせてやろうという魂胆だった。といっても、会計のタイミングがばらばらになって、手続きが多少煩雑になる程度のことである。最近は、公務員も利便性や透明性の観点からキャッシュレス化が進んでいるだろうし、別に困りもしないかもしれない。
ところがそこで、今まで岩のように沈黙を保っていた年長の男が口を開いたので、ヒナコは驚いた。
「ええ、それでしたらお嬢さん」と彼は嗄れ声で言った。「私はチョコバナナパフェがお勧めですね」
*
刑事たちが去ったあと、チョコバナナパフェをオーダーした。なぜか、ウェイトレスが嬉しそうな顔をしていた気がする。パフェは思いのほか生クリームの口当たりが軽く、疲れた脳が糖分を欲していたこともあってか、自分でもびっくりするくらいの勢いで平らげてしまった。
その後、家に戻って熱いシャワーを浴び、帰りがけに買ったアルコール飲料の缶に口をつけると、それまで意識の隅っこに追いやっていた眠気が洪水のごとく押し寄せてきて、ヒナコはあっという間に眠りに落ちた。
次に目が覚めたときには夜中だった。時計を見ると、九時間以上も眠っていたようだ。
トイレに行ってから軽くストレッチをして、缶に残っていたアルコールをキッチンのシンクに捨てた。少し頭痛がする。
寝る前に飲むのは良くないとわかっているのだが、ひどく疲れていたり、自暴自棄な気分のときにはついやってしまうことがあった。ヒナコは、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してキャップを開けた。
仕事用端末の電源をオンにすると、メッセージの着信を伝えるポップアップが表示された。差出人は「vine-apple」。不平コンビの片割れである不藤凛子のアカウントネームだ。
『無事? 永久乃博士の件で話が聞きたい。明日の午後二時に
彼女のメッセージはいつも簡素である。今回はこちらの安否を気遣う語が含まれているため、これでも普段と比べるとやや感情的なイメージだった。
凛子はどこから情報を得たのだろう。もしかしたら、寝ている間に事件が報道されたのかもしれない。いずれにせよ、素早い行動だと思った。フットワークの軽さはいかにも彼女らしい。
まだ少し急ぎのタスクが残っているが、なんとかなる範囲だろうと考えることにした。永久乃博士のインタビューを記事にするのは難しくなっただろうから、その分の作業は減らして見積もることができるという目算もあったし、何より気晴らしがしたかった。
ストレスを抱えたまま、一人で部屋に篭って無理やり仕事を進めようとしても、好ましい成果が得られることは少ない。それでもやるしかない場面というのは往々にしてあるものだが、今はそのときではない。
そうと決めたらヒナコのやることは早かった。凛子のメッセージに了承の返信をして、出かける前に書いていた原稿の仕上げに着手した。何件か追加で調べものが必要だったが、さして手こずらずに終えることができた。
まだ日が昇っていなかったので、少しネットサーフィンをしてから、ヒナコはもう一度仮眠をとることにした。まだ寝不足の負債を返し終わっていないと感じたためだ。そのときにざっと見た限り、永久乃博士の死はまだ世間には知らされていないようだった。
今度は五時間ほどで目が覚めた。
軽く食事をとって、またシャワーを浴びて、簡単な仕事を幾つか済ませてから、身支度を整えて待ち合わせ場所へ向かった。自宅の最寄から電車で十分少々の駅だ。お店は改札を出て、裏路地を五分ほど行ったところにある。
時間に正確な凛子は、ヒナコが二分遅れで到着したときにはもう店内で待っていた。
「はぁい」と彼女は右手を挙げる。「どうも、記者の不藤凛子です。取材料は、ここのお代でいいかしら」
「警察よりよっぽど良識的だね」ヒナコは思わず微笑んだ。「二日続けてパフェなんか食べたら、罰が当たらないかな」
ロッジのような木造で、小ざっぱりした雰囲気のカフェである。記者同士で、打ち合わせが必要なときなどにたまに使う店だ。とりわけ、客足が疎らで、あまり周囲に気を遣わずに済むところが優れている。「隠れ家的」という形容が冗談にもならないくらい立地が悪いせいだろう。
凛子は既に小型の端末を立ち上げていた。向かいの席に腰掛けると、早速インタビューが始まる。
「取り調べを受けたんだ」彼女は僅かに眉をひそめた。「災難だったね」
「あいつらホント最悪だわ。死ぬほど感じ悪い」ヒナコは思い切り顔をしかめて見せる。「凛子、いつもあんな連中とやりあってるわけ?」
「まあ……記者からしても印象はよくない人が多いけど、取り調べのときとはちょっと違うかもね」と凛子は言った。「私たちは大抵、邪険に扱われているだけだから。事件の関係者を相手にするのとは話が別だと思う」
「どうやって知ったの、事件について」
「残念ながら、それは教えるわけにはいかない」彼女は小さく首を振った。「でもたぶん、そろそろニュースになるよ」
「不謹慎だけど、取材記事を書く前で助かったわ」ヒナコはテーブルに備え付けのメニューを開いて、ぼやく。「危うく、同業者が群がってくるところだった」
「やっぱり、永久乃博士に会ったのか」凛子は射貫くような目で言った。「もしかしたらとは思ってたけど……」
「まあね」特に隠すつもりもなかったので、素直にそう答えた。「お陰様で、独占密着取材に成功したよ。いや、この場合は失敗って言ったほうがいいのかな」
ヒナコは給仕の男性に声をかけ、アイスティーとフルーツタルトのセットを注文した。いちごのパフェという言葉の響きにも抗いがたい魅力を感じたが、罰が当たったら怖いのでやめにしておいた。
「訊きたいことがたくさんある。まず、どうやって永久乃博士を引っ張り出したの」と凛子が声をかけてくる。
「それは私が知りたい」ヒナコは首を傾げた。「正直、何が向こうの基準に引っかかったのかは全然わからないね。こっちからは、ごく普通のメッセージしか送ってないし。応募者の中からランダムに選ばれただけかも」
「他に、博士に会えた記者はいないってことでいい?」
「状況から考えると、そうだと思う」言いながら、視線を斜め上にやった。「少なくとも永久乃博士本人はそう言っていたし、刑事たちも……私以外に、博士と直接会った人間を知らなさそうだった。だからきっと、相当疑われてる」
「何かの罠だったのかもしれない」凛子はそっけなく呟く。「どうも、話が出来すぎている気がする。デラシネで連絡を取ったんだよね。最初に会う約束をしたとき、博士はどんな感じだった?」
「おかしな質問をされたよ」ヒナコはそう言って、手元の端末を操作し、デラシネの会話履歴を表示して凛子に差し出した。「なぜ、人を殺してはいけないのですか」
「これ、チャットボット?」彼女はそれを見て眉根を寄せた。
「そこも博士に確かめてみたんだけど、はぐらかされたみたいで、よくわからない。窓口役は博士本人じゃないし、人間でもないとは言ってた。あまり真面目に取り合わない方がいいかも」
「ヒナコの返信は……わかりません、か」凛子は端末を一通り眺めてから返してきた。「謎かけへの答えが気に入られた、ってわけでもなさそうだ」
「悪戯の可能性も考えたんだけど、呼ばれたのがいざとなったらすぐ逃げられそうな場所だったし、危険は少ないと思ったの」ヒナコは弱った声を出す。「こういう種類のリスクは想定してなかったけど、そう。確かに……はめられたと考えるのが、自然な状況かもしれない」
「そうすると、一番怪しいのは永久乃博士のことをヒナコに教えたヤツになる」凛子は小さく舌を出した。「いいのかなぁ、こんなにぺらぺら喋っちゃって」
「率直に言って、凛子には疑わしい点が幾つかあると言わざるを得ないね」また始まったな、と思ってヒナコは口許を緩める。「私が永久乃博士に会ったという発想にも、若干の飛躍があると思う。警察の取り調べを受けたことがわかったとしても、それが死の直前に博士と実際に会っていた人物だからだとは限らない。取材だけならオンラインでも出来る」
「うーん、記者の勘だな」と凛子はとぼけたような口調で言った。「この言い方が気に食わなければ、女の勘と言い換えてもいい」
「女の勘ってのは、こういうケースで遣う言葉じゃないと思う」ヒナコは真面目に指摘した。
「いや、それは固定観念だよ」凛子はミステリアスな笑みを浮かべる。「例えば、私がヒナコと博士の仲を勘繰ったなら、文脈的には女の勘で間違いないと思うけど」
「わかったわかった……」ヒナコは両手を広げて降参のポーズをとった。言葉遣いの話で、本職の記者を言い負かそうと考えるのは愚かだ。「でも、私を狙って罠にかけるメリットが思いつかない」
「それも、私がやったと考えれば説明はできるね」彼女は楽しげに声を弾ませた。「つまり、ヒナコの弱味を握ろうとしたのかもしれない。こうやって、私に頼りたくなるような状態を作り出すことが目的ってわけ」
「やり方が回りくどすきるよ」とヒナコも笑う。「そんなことのために、わざわざ人を殺すとは考えにくい」
「博士を殺した人間と、ヒナコを陥れた人間が協力関係にあって、それぞれが別の動機を持っていたのかもしれない」凛子は右手で顎の辺りを触っている。「犯人は誰かに罪をなすりつけたい。私はピンチのヒナコが見たい。これなら、当面の利害は一致している」
「あんた、どれだけ心が歪んでるのよ」ヒナコは半ば感心して声を上げた。「いっそ本当に怪しく見えてきたわ」
そこで少しの間、会話が中断した。先ほど注文したドリンクとケーキのセットが運ばれてきたからだ。
フルーツタルトは思ったよりもサイズが大きかった。中心角が60度くらいの扇形である。白いクリームの上で、色とりどりの果物が零れてしまいそうなくらいぎゅうぎゅうにひしめき合っている。ただ眺めているだけで、幸せな気持ちになれるような光景だった。おかしな話だが、食べてしまうのが勿体ないとさえ思う。
「だけどマジな話、思いもよらない誰かの思いもよらない意思が介在してる可能性は、考慮しておいても損はないと思うよ」凛子は真顔に戻って言った。「どうも、一筋縄ではいかない感じがする。何か明確な狙いがあると考えるには、起きてることが中途半端っていうか……。警察にとっては頭が痛いかもね。自殺でいいなら、さっさと自殺で処理したいってのが本音じゃないかな。ヒナコを本気で疑っているにしては、やり方がぬるい。身柄を拘束されてないし、家宅捜索も受けてないでしょ。そうなったら、こんなところで呑気にお茶なんかしてる場合じゃない」
「そうだね」彼女の言うことはもっともだと思ったので頷いた。「証拠品の扱いについては釘を刺されたけど、本当に私が犯人ならみすみす隠滅のチャンスを与えたようなものだと思う」
「どちらかっていうと、警察はヒナコを泳がせているように見える」凛子はちょっと声のボリュームを落とした。「まあ、後ろ暗いところがなければ、問題のない話ではあるけど。しばらくは品行方正な生活を心掛けたほうがいいかも」
「とりあえず、甘いものは控えるようにするよ」
ヒナコがフルーツタルトを口に運びながらくだらないことを言うと、凛子は軽く笑ってくれた。こう見えて、意外と付き合いがいいのだ。
タルトはさくさくとした生地の歯ごたえと、ふんわりとしたクリームのちょうどよい甘さと、瑞々しい果物の食感が口の中で混ざり合って、とても美味しかった。
自分の機嫌がよくなるのを感じる。我ながらメンテナンスしやすいシステムを作り上げたものである。
「じゃ、次の質問。永久乃博士はどんな人だった?」と凛子は続けて訊いてくる。
「一言で説明するのは難しいなぁ」ヒナコは紙ナプキンで口を拭ってから答える。「見た目は信じられないくらい若かった。子供みたいだったよ。話し方から世慣れていないという雰囲気はないと感じたけど、他人との関わりが少ないのは本当かもしれないと思った」
「面白い感想だ。どうしてそう思ったの?」
「人と話していて、考えが整理されるってことがあるでしょ」博士との会話を思い出しながら、ヒナコはそこで感じたことの説明を試みた。「他人が理解できるように言葉にすることで、自分が何を考えようとしていたのかがわかってくる、みたいにさ。そういう経験が極端に少ないんじゃないかなと感じたんだよね。すごく色んなことを考えているんだけど、根本的に誰かに共有することを前提としてないっていうか。ただもっと単純に、博士本人じゃないから他人に伝えられるほど物事を理解していなかったという見方をしてもいいとは思う」
「なるほど。殺されたのが永久乃博士とは別人かもしれないと考えてるんだね」凛子は少し考え込むような表情になる。「それくらい、捉えどころのない相手だったわけだ」
「あんなに訳がわからない人間はそうそういないよ」ヒナコはゆっくりと頭を振った。「そのせいで、どうやって記事にしようかも迷っていたところ。喋ってる分には面白かったけど」
「さっき見せてくれた、変な質問についての話をした?」
「なぜ人を殺してはいけないのかって話ね」とヒナコは頷いた。「それについても簡単にはまとめられないけど、博士にとっては自分の研究テーマと深い関わりのある話だってことはわかった」
「博士の言っていた中で、気になることはあった?」
「気になることはたくさんあったけど。一番びっくりしたのは、博士が黒ひげ危機一髪を知っていたことかな」
「黒ひげ?」凛子は目を丸くした。「何か、メッセージのようなものは受け取っていない?」
「メッセージ……」ヒナコは右のこめかみを指で触る。考えてもみなかった観点だった。「博士が私に何かを伝えようとしたってこと?」
「特に根拠があるわけじゃないけど。もし自分が死ぬかもしれないと考えていたなら、そういうことをしてもおかしくないよね」凛子は何度か瞬きをする。「まあ、これはほとんど妄想かもしれない」
「いや、ちょっと待って」ヒナコは右手を前に突き出した。「そういえば、最後に変なことを言われた気がする」
「なんて?」凛子は僅かに身を乗り出した。
「永久の数は一……」博士の言葉を思い出して、ヒナコはそう呟いた。「覚えておいてください、そんなことを言っていたかな」
「永久の数は、一」と凛子は小声で言う。「永久乃数一か」
「博士の名前ってペンネームみたいなものだろうなと思ってたから、名前の由来を訊いてみたんだよね」
「由来も何も、そのまんまだな」彼女は口を尖らせた。「でも確かにその、わざわざ覚えておいてと付け加えたところは気になる」
「凛子に言われてみるまで、完全に忘れてたけど」ヒナコはアイスティーを一口飲んで、腕組みをした。「冷静に考えると意味がわからない。あの博士、なぞなぞみたいなことを言って、人を困らせるのが趣味なのかな」
「何かのタイトルかもしれないし、とりあえず検索してみれば?」と凛子は投げやりに言った。
一理あると感じたので、彼女の言う通りにしてみた。
ワールドワイドウェブの普及以来、わからないことがあったらとりあえず検索をする、というのは記者に限らず人類のDNAに刻み込まれた基本動作である。ネットがなかった時代に人々がどうやって必要な知識にアクセスしていたのかと考えると、ヒナコはいつも気が遠くなる思いだった。その行為が文字通りの命懸けであることも少なくなかっただろうし、知識の象徴たる書物に人命以上の価値があると考えられたとしても、それを単なる錯誤とは呼べなかったのではないかと思う。
手元の端末でサーチエンジンを呼び出して、「永久の数は一」と入力する。検索結果はすぐに表示された。案の定というべきか、そのほとんどは、エンジンがキーワードとの間に意味のある繋がりを見つけられず、比較的一致度が高いと判断したページを順番に掲載しているだけだ。
そうした中に一つだけ、目を引くものがあった。デラシネのアカウントだった。サーチエンジン向けには情報の大部分がブロックされており、閲覧のためには正規ルートでログインする必要がある。
ヒナコはデラシネの専用アプリを立ち上げて、そこからもう一度同じ語句で検索をかけた。
「……何だろう、これ」
てっきり、永久乃博士の公開アカウントが検索ワードの文字列に似た部分を含んでいたために引っ掛かったのかと思ったが、それは間違いだった。
表示されたアカウントは、他のユーザーとは全くリンクしていなかった。それだけではない。どうやら外部からのコンタクトを完全に拒否する設定がされているようだ。利用状況を判別するアイコンでそれがわかる。持ち主以外には一切の情報を公開しない状態で、サービス上ではプライベートモードと呼ばれている。
その性質から、普通にデラシネを利用していたら滅多にお目にかかることのないステータスだった。もう一つ、見たことのないアイコンが表示されていたが、それが何を意味するのかはヒナコにはわからない。
アカウントネームは「EQ1」。
その他には、プロフィール欄の日本語だけが唯一参照できるデータだ。そこに、「永久の数は一」と書かれている。
「凛子、これ……」ヒナコは困惑しながら、端末の画面を見せた。
凛子は訝しげな表情でそれを覗き込む。
「デラシネのアカウントか」液晶の上を、彼女の眼球が何度か素早く動く。「なんか特殊な設定だね。プライベートと……イミュータブルか? いや……」
凛子は何か思いついたように、キーボードを叩いた。
「これだけで、何かわかる?」
「……新機能に対応してる」と彼女は呟く。「このアカウント、バーチャルセッション専用だ」
「バーチャルセッションって」ヒナコは疑問符を浮かべる。「仮想空間でリアルタイムにやりとりをする、あれ?」
「うん。正式名称は、デラシネ・オルタナ」凛子は自分の端末を眺めながら答えた。「アクセスしたかったら専用のデバイスが要るね。これは、個人で気軽に買えるような値段じゃない。どこかの研究機関とかに貸してもらうしかないと思う」
そういう技術の存在は当然知っているが、本格的なものに触れた経験はないし、デラシネにそんな機能が実装されているというのも初耳だった。ソフト的にもハード的にもかかるコストが膨大すぎて、まだまだ実用的と呼べるような代物ではないというのがヒナコの認識である。
単体での収益を見込んでいるのではなく、実験とか話題性のような効果を期待しているのだろうと想像がついた。ただ、その割に利用者への周知が徹底していないのは運営の怠慢ではないのか、と思う。
「それだったら、コネは幾つか持ってる」ヒナコは頭の中で候補をリストアップしながら、素朴な疑問を投げ掛けた。「だけどこのアカウントで、誰と話せるんだろう」
「…………」凛子はこちらを見つめて、神妙な面持ちで黙りこくる。
「あのさ、そこで無言になるの、やめてほしいんだけど」
「……じゃあ、永久乃博士のお化けかもね」
「ギャーッ」
ヒナコは悲鳴を上げて、テーブルの向かいに紙ナプキンを投げつけた。凛子は声を出さずに笑いながらそれを受け止めた。
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