1-7. 最小の社会における相補性
7
あの日は前日に夜更かししてゲームをやっていたのだったと思う。
昨今のコンシューマゲームはとにかくボリュームがある。特にこのオープンワールドRPGというジャンルは凄い。サブクエストに次ぐサブクエスト、寄り道をしている間にも新たな寄り道が見つかるという具合でやめどきがわからないのは根っからのゲーマーとしては嬉しい悲鳴ではあるものの、一回始めてしまうとなかなか他のことができなくなる欠点もある。人付き合いや美容に関心を持っている平均的な若者がもっとカジュアルな趣味に走るのも当たり前だ。
そんな感じで三時間くらいしか眠れなくて目の下に隈ができているのを、お昼休みに軒下に見咎められた。
「ちょっとヒナちゃん」彼女は勝手に開発した馴れ馴れしいあだ名でわたしを呼び続けていた。「どしたの。すごい顔してるけど」
「げ。わかっちゃう?」思わず潰れたカエルのような声が出る。「一応コンシーラー塗ったんだけど」
「いつもと違うんだからそりゃわかるともよ」軒下はさも当然のように言う。「お昼たーべよ」
この頃には軒下弁当の配給が週二回に増えていた。当初は学校で誰かと一緒にお昼を食べる気恥ずかしさとか、他人から受け取る善意への抗体を持っていないとかの理由からどことなくぎこちないランチタイムだったけれど、三週間もすれば免疫がついた。
彼女の作るお弁当はクオリティが高かった。味もさることながら、絵描きの美的センスがいかんなく発揮された可愛らしい盛り付けは日々の昼食に花を添えてくれた。こちらとしても施しを受けるばかりでは忍びないので、お弁当の配給日には簡単なおかずやらおにぎりなどを持参するようになった。
「でも、今日はお弁当の日じゃないよ」
わたしは言った。軒下が二人分のお弁当を持ってくるのは水曜日と金曜日、という暗黙の取り決めがされていた。その日は確か火曜日だった。
「細かいことは言いっこなしよ」軒下はいつものようにノリで生きていた。「今日はヒナちゃんの好きなうさぎさんの林檎があるよ」
「別に好きじゃないって」
「そういうこと言うと全部あたしが食べちゃいますから」
「それとこれとは話が別」
普段通りに他愛もない会話を交わしながらお昼を食べた。うさぎちゃんカットの林檎も食べた。
何の話をしていたんだったかはよく覚えていないけれど、お昼休みのチャイムが中途半端なタイミングで鳴ったので、続きは放課後ということになった。で、放課後にだらだら教室に残って駄弁るのはあんまり気が進まないので自然とわたし達は美術室へ向かう。
火曜日は美術部の活動日ではない。とはいえ別に美術室への立ち入りが禁じられているわけではないから、職員室で鍵を借りてくれば好きに入れる。休みの日にまで自主的に活動をするような熱心な部員はうちの美術部にはいないので、実質貸し切り状態だった。
最初のうちは物珍しかった画材やらの独特な匂いも、今では気にならなくなっていた。ちょっと建て付けの悪いドアを開けて部屋の中へ這入ると、滞留していた静けさがふんわりと浮き立って出迎えてくれる。
「ところでヒナちゃん」軒下は早速その辺のスツールに腰かけて言った。「もう絵は描かないの」
「どうだろ」わたしは首を傾げた。別にとぼけたわけではない。「たぶん、描こうと思ったらまた何かしら描ける気はするんだけど。今はゲームで忙しいから」
美術部にもこうしてお喋りのために足を運ぶことはあっても、入部届とかは出していなかった。
「ヒナちゃん才能あるよ」かたかた音を立ててスツールを揺らしながら軒下は言う。「わたしは何だって才能ありますけど?って顔に書いてあるけど、まぁそうかもしれませんけどぉ」
「書いてない書いてない」
「ヒナちゃんって、結局ひとりでなんでもできちゃうんだよね」彼女は口を尖らせた。「あたし知ってる。ヒナちゃんは完璧美少女だから、本当は友達なんて必要としてないことくらい。もはや歩く『ひとりでできるもん』だよね」
「何よいきなり」軒下の妙な持ち上げ方は平常運転だったけれど、自分の方を下げるような卑屈な態度をとることはこれまでになかったから少し戸惑った。「でもまあ、そうだね。完璧かどうかはともかく、別に友達なんていなくても困らないとは思ってるかも」
また美少女のくだりを否定しなかったことについて突っ込まれるかと思ったが、返ってきたのは溜息だった。
「はぁー……そういうこと、面と向かって言うかね普通」彼女は肩を落とした。「そんなんだから、いつまで経ってもあたし以外の友達できないんだって」
「歌蓮だって似たようなもんでしょ」
「あたしは、付き合う相手を選んでるだけ」軒下は腕組みをする。「ヒナちゃんってアレだよね。根本的に他人に興味ないよね」
「そうかな」
「そーだよ。絶対そう」彼女は何度も頷きながら言った。「ていうか、自分にも大して興味ないのかもね。じゃなきゃ、歌蓮だって似たようなもんなんて言わないよ」
なんだろう。妙に棘がある。ような気がする。
軒下歌蓮はずけずけとモノを言うタイプではあるけど、常にふざけ半分というかおちゃらけた態度で、感情的に詰ってきたりということは今までなかった。
「んー」話の中身も気にはなったけど、わたしはとりあえず彼女の気持ちを優先することにする。「えっと、なんか怒らせちゃった? ごめん」
そうしたら軒下はちょっと俯いて、なんだか複雑そうな顔をした。
「怒ってない」
軒下以外に友達のいないわたしでもわかる。これは、怒っている人のリアクションだ。
こんなときにどうすればいいのかはわからないけど、嘘つけ怒ってるじゃん、とか言ったらアウトだろうというのは想像がつく。
「……他人に興味があるって、どんな状態なの」とわたしは訊いてみる。
「面白いこと訊くよね」軒下は軽く呆れたみたいに笑った。「例えば、あたしはヒナちゃんにすごーく興味がある。知ってた?」
「それはまあ」わたしは思わず頷いた。「なんとなく」
「だから、ヒナちゃんの顔に何が書いてあるかもわかっちゃうわけ。別に、ヒナちゃんの考えてることが死ぬほど顔に出やすいとか、あたしがエスパーだからってわけじゃない。ただ眺めることと、観察することは違うの」
「な、なるほど」とわたしは呟く。ワトソン君よろしく。
「ほら。わかったでしょ、自分がいかに他人に興味を持ってないか」と軒下は若干得意げだ。
基本的なことだよ、とまでは言われなかったけど。
またしても、ホームズ様を引き合いにやり込められてしまった。それが悔しくて口答えしたかったというわけじゃない。
彼女の指摘に対して、わたしはただ、思ったままを口にした。
「他人に興味はないかもしれないけど、わたし。歌蓮のことは好きだよ」
すると、軒下が目だけでこっちを見た。睨んだ、と言ってもいい。
そして何も言わない。
そのまま何秒か経って、彼女のつり目が若干潤んでいることに気が付いた。
……泣いてる。
「え、ちょ、ごめん」わたしは慌てて言った。「泣かないでよ」
もしかしたら、わたしって今、何か最低なことをしたのかもしれない。
そんな風に思ったけど、言ってしまったことは取り返しがつかない。
「泣いてない」と言い切る前に軒下の左目からは涙がこぼれ落ちた。
駄目だ。何を喋っても逆効果な気がする。
だからわたしはスカートの右ポケットに手を入れて、うっかり他のものが出てきたりしないよう気を付けながらカエルのハンカチを取り出し、無言で差し出した。
軒下は十秒くらいそれに目もくれず黙ってぽろぽろ泣いていたけど、やがて小さな声で「ありがとう」と呟いて受け取ってくれた。
「言葉を粗末に扱う人間にはね、罰が当たるんだよ」
薄い緑色のちゃちな布切れで目元を拭いながら軒下は言った。
わたしのことを言っているのだと思う。いくら鈍感でもそれくらいはわかる。
「ごめんなさい」とわたしは呟いた。
「心がこもってない……」と軒下は言った。もう普段みたいにおどけた口調ではなかった。
「ご」めん、と再び言いかけて口ごもる。
言葉を粗末に扱う人間には罰が当たるってさ。
その場しのぎで適当なことを喋ってはいけないのだ。軒下歌蓮はめちゃくちゃ鋭いからそういうのはすぐバレてしまう。
でも、だったらどうすればいいんだろう。わからない。人間関係における圧倒的な経験値の不足がここへきて響いていた。
ここがデラシネだったら、お喋りの相手が怒りだしたらそこでお開きにすればいい。嫌われたって何も困りはしない。「心がこもってない」なんて言う人間はいるはずがない。あそこでは、誰も最初から心のこもった言葉なんて期待していないのだから。
「……わたしは、歌蓮が悲しんでいたら悲しいよ」
本心のつもりだった。軒下は少し洟をすすった。
「共感っていうんだよ、それ」彼女は鼻声で言う。「ヒナちゃん、あたしに共感してくれるんだね」
「共感?」わたしは首を傾げた。「共感って、うんうんわかるわかる~!みたいなやつのことなんじゃないの」
「辞書とか引くと、そういう意味って書いてあるね」軒下は大きな息をひとつ吐いた。「あたしが言ってるのは、エンパシーかな」
「よくわかんないけど……」わたしは言った。「歌蓮が泣いてたら、こっちまで泣きたくなるのは本当だよ」
「ヒナちゃんが嘘をついてると思ってるわけじゃない」
そうだと思う。わたしは嘘をついていない。
でも、嘘にならない範囲で話を穏便に済ませようとか、相手を厭な気分にさせないようにとりあえず聞こえのいいことを言おうとか、そんなことは考える。
そんなことばかり考えている。
「言ってる側からしたら嘘じゃなくても、言われてる側にとっては嘘をつかれたのと同じってこともある」と彼女は言った。
「わたしには難しい」正直にそう告げた。「わたしは全然、完璧なんかじゃないよ。わからないことばっかりだもん。歌蓮が言ってることも……こうして泣いてる理由も」
「ヒナちゃんは」軒下はしゃくりあげながら言った。「必要ないんだよ、他人なんて。ひとりっきりで完結してる。だから完璧なんだよ。だから、わからないんだよ」
わたしは困り果てた。おまけに気持ちがとんでもなく重たくなっていた。
胸が痛い、とはこんなときのことを言うのかもしれない。
軒下歌蓮。
いつも堂々として、お洒落で、とびきり頭がよくて、ひとりぼっちのわたしに構ってくれる。ちょっと、いやだいぶ変わっているけど素敵な女の子。
わたしは彼女の好意とか懐の大きさに甘えている自覚があった。
ツンデレというのは甘えなのだ。相手が受け入れてくれる打算があるからそんな真似をする。
彼女が泣いているのは、わたしが甘えてばかりいたからだ。
友達なんていらないと嘯いて、対等の関係であろうとしてこなかった。
軒下歌蓮という人間について、知ろうとしなかった。
「必要かどうかなんてわかんないけど」とわたしは言う。「歌蓮が友達になってくれて、良かったと思ってる」
「どうじで」どうして、って言いたいのだと思う。
「そんなこと、歌蓮がわかってないなんて意外」それも本心だった。「歌蓮がいなかったら、わたしは絵なんて描いてみようとも思わなかった。誰かと一緒にお弁当を食べたり、放課後に居残ってお喋りしたり、十一月に海を見に行ったりなんて考えたこともなかった。必要ないと思ってた。そんなの、やってみなくちゃわからないことばっかりだったのに」
あなたが教えてくれたんでしょ。とまでは言わなかったけど。
だけど、そういう意味で伝わった気がする。
すん、と軒下が洟をすする音。
「そっか」彼女はそれだけ呟いた。
「歌蓮はさ」とわたしは口にした。「どうして、わたしなんかと友達になってくれたの」
たぶん、その質問をするにはもう遅かったんだと思う。
まさに軒下歌蓮の言う通りだったのだ。わたしは他人に興味がなさすぎた。
自分以外の誰かが考えることなんて、わかるわけがないと思っていた。
わかりたくもなかった。
お父さんがあのとき、何を思ってあんなことを言ったのか、なんて。
理解できるものだと、思いたくなかった。
「わかるわけないよね」軒下は低い声でそう言った。「あたしはずっとヒナちゃんと友達になりたかった」
「ずっと?」
「入学式で見たときからずっと」
「え」わたしは素っ頓狂な声を上げた。「なんで」
「あたしだけじゃなかったけどね」彼女はちょっと目を逸らす。「ヒナちゃんはそれくらい特別なんだよ。今だって、ヒナちゃんのことだから自分は嫌われ者だとか思ってるかもしれないけど、みんな畏れ多くて声すらかけられないって感じだから。むしろこうして仲良くしてるあたしが虐められそうなくらいだから」
何を言われているのかよくわからなかった。こんな状況じゃなかったら軒下がよく言うたぐいの冗談だと考えたと思う。
だって、畏れ多いって何だよ。クラスメートに対して使う言葉じゃないでしょ。
「ヒナちゃんは、きっと望めばなんだって手に入れられるよ」と軒下は続けた。「あたしはそんなヒナちゃんが、羨ましかったんだと思う。羨ましくて、憧れで、大好きだった」
「そんな」
そんなことない、と言いたかった。
どうしても欲しいものが手に入ったことなんて一度もない。日増しにあの母親に似ていく顔を、どんなに美しいと褒められたって嬉しくもなんともない。
小さい頃からそうだった。誰かに羨ましがられることが多かった。だけどわたしにしてみれば、皆が欲しがるわたしの容姿とか能力なんかに、これっぽっちの価値もありはしない。
こんなの全部要らないから、「どうしてそんな嘘をつく?」っていうあの声を、あの悲しそうな顔を、綺麗に記憶から消し去ってほしい。
「……そんな風に思ってたんだ」
わたしは言った。言いたかったのとは違う言葉を。
「いつも言ってるでしょ。ヒナちゃんは完璧美少女だって」軒下は少しいつもの調子を取り戻したようだった。「言葉を粗末に扱う人には罰が当たるんだから」
「本当に完璧だったら、こうやって歌蓮を泣かせたりすることもなかった」
「またそういうことを言う」
「別に冗談で言ってるわけじゃない」とわたしは首を振った。「正直、最初はすっごい変な子だと思ってた。いや、今も変だとは思ってるけど。でも歌蓮は優しいし、可愛いし、頭もすごくいいし、何より話してて面白い。わたしのことについて、自分でも気付いてないようなことをたくさん教えてくれる」
そしてまっすぐに目を見て言う。
「だからわたしも歌蓮が大好きだよ」
たぶんそれが止めだった。
どんな反応ならわたしは納得しただろう。わからない。
わからないけれど、このときの軒下がとったリアクションが、わたしにとってまるで想定外のものであったことは確かだった。
まず止まりかけていた涙が一気にあふれ出した。顔がぐしゃっと歪んで、みるみるうちに赤くなっていった。何か言おうとするように口がぱくぱく開いたけど、「ひぐっ」という間抜けな音が出るだけだった。
「か、歌蓮」わたしの声は震えていた。「どうしたの。大丈夫?」
「ひっ、えぐっ」軒下は完全に泣きじゃくっていた。声を抑えようとしていたけど、嗚咽の漏れるのは止まっていなかった。「うえっ、うううう」
わたしは軒下に近づいた。背中をさすってやろうと思って右手を伸ばした。
そして次の瞬間、伸ばした右手が引っ張られ、左肩を突き飛ばされた衝撃とともにどん、と大きな音がした。
「え?」わたしはあっけにとられた。お尻から床に落ちて、背中をしたたかに打ち付け「ぐっ」と呻き声をあげた。
痛い。苦しい。
何度か咳が出る。
仰向けに寝転がる形となったわたしの上にはぼたぼたと涙を流す軒下歌蓮が馬乗りになっていた。
「ど、どうしたの……どういう、つもり」
軒下は両手でわたしの肩を、太ももで腕を押さえつけている。お腹に体重がかかっていて、足以外はほとんど身動きが取れない。
「ヒナちゃんが」彼女は泣きながら喚いた。「ヒナちゃんが悪い」
ヒナちゃんが悪い。
目の奥がつんとした。
わたしは、悲しかった。
軒下がなぜこんなに泣いているのかは結局よくわからないけど、はっきり言って今この場で泣き出す権利は本来ならわたしの方にあるように思えてならなかった。
「わたし、何かした?」半泣きになりながらかろうじてわたしは言った。
「何も」泣くのを我慢しているような顔で、でも目からは相変わらずぽろぽろ涙を零しながら軒下は言った。
「じゃあわたし、悪くない」
「そうだよ……悪いのはあたし」雫がぽたぽたと軒下の瞳からわたしの顔に落ちてくる。「ヒナちゃんのこと、好きになっちゃったあたしが悪い」
ぽたぽたぽた。
ぽたぽた。
ぽた。
「は?」
「言葉を粗末に扱うと、罰が当たるんだよ」
わたしの脳みそは軒下が言ったことをうまく処理できていないようだった。
何か言おうと思っても言葉が出てこない。世界に意味が通っていない。
「好きなんて、お願いだから軽い気持ちで言わないで」
何も言えない。
何も言えなかった。
わたしはぎゅっと目を瞑る。涙は出なかった。
「ねえ、ヒナちゃん」と軒下は囁いた。「それでも好きだっていうんなら、あたしのものになってくれる」
目を開けて、右手の感触を確かめた。
痛みがあるし少し痺れている。肘のあたりに軒下の足が押し付けられているから自由には動かせない。
軒下はじっとこっちを見ている。泣きはらして真っ赤な目で。
「なんとか言ってよ」彼女は声を引き絞った。
「……なんとか」
「ふざけないで」またぼたぼたと涙が落ちる。「もう嫌なんだよこんなの。ヒナちゃんの無神経な言葉にいちいち振り回されたくないんだよ。わかってるよ全部あたしの独り相撲だってことくらい。あたしが悪い。ヒナちゃんは悪くない。だけど、あたしの気持ちを軽く扱うのはやめて」
わたしはスカートの右ポケットに手を入れた。もし今この部屋に誰かが入ってきたらパンツ丸見えだな、なんてどうでもいいことを考えた。
「歌蓮はすごいね」とわたしは言った。
軒下は眉をひそめた。
「何が」
「わたしには見えないものがたくさん見えているみたい」言いながらポケットの中で指をぐりぐりと動かす。「歌蓮と話すと、いつもそうだよ。わたしが見えない、存在してると考えたことさえないような世界があるかもしれないってことに気が付ける。……そんなにすごいのに、どうしてわたしのことなんて好きになっちゃったのかな」
「もしかして、バカにされてる?」
「違う」わたしははっきりそう言った。「確かにわたしは歌蓮に比べたら何も考えてないよ。無神経って言われてもしょうがないと思う。でも歌蓮が自分の気持ちを軽く見ないでほしいなら、わたしの気持ちだってちゃんと扱ってくれないとフェアじゃない。わたしが言ったことが、わたしの気持ちだよ。歌蓮からしたら軽い言葉なのかもしれないし、多少の打算はあるかもしれないけど、嘘はつかない。前に言ったでしょ。根が正直なんだって」
ぽたぽたぽたぽた。
軒下が何度も瞬きをしてその度に涙が落ちてくる。
「ごめん」彼女はまた涙声になって言った。「ごめん、ヒナちゃん」
「わたしの方こそ……」
ごめんなさい、と続く言葉は声にはならなかった。
わたしの肩を押さえつけていた軒下の両手が、首元を掴んだから。
「ぐぅ」
痛い。
喉がぎゅっと窄まって、残っていた空気が口から押し出される。自分から出た音なのに他人事のように感じた。
一瞬、目の前が暗くなる。
苦しい。
軒下は顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、わたしの首を絞めている。
……ほんと、泣きたいのはこっちの方だよ。
わたしは右手に持った端末もどきをポケットから取り出して、軒下の腰の辺りに強く押し当てた。
*
それからすぐに職員室へ駆け込んだ。そこで事情をほとんど洗いざらい説明すると教師たちは面食らった顔をしていたが、軒下はすぐに病院へ運ばれた。
わたしは保健室で休むことになった。親御さんへはこっちが連絡しておくと言われた。はあ、と頷いておいた。
養護教諭のおばちゃんは優しかった。腕や肩や腰が痛いと訴えると丁寧に診て湿布を貼ったりしてくれた。大した怪我はないとのことだった。皴ひとつない白いベッドに寝かされて、その日は夜になってからタクシーで家へ帰った。制服は埃やら涙やら鼻水やらで汚れてしまったので後日まとめてクリーニングに出した。
予備の制服は箪笥にしまってあったはずだけど、どうにも下ろすのが億劫だった。
翌日、生活指導室という厳めしい部屋に呼び出されてあれこれと質問をされた。私服で学校へ行くのは変な感じだった。
担任と学年主任と校長の男三人が向かいに並んでいたけれど、思っていたほど敵対的な雰囲気ではなくて、彼らはむしろこちらを気遣っている様子でもあった。
わたしは質問に対して概ね正直に答えた。
Q:「どうしてスタンガンを使用したのか?」
A:「押し倒されて身の危険を感じた」
Q:「なぜそのようなことが起きたと思うか?」
A:「わたしの発言が彼女を怒らせてしまった」
Q:「日ごろから軒下歌蓮と交友関係があったのか?」
A:「学校でいちばんの友達だった」
等々。
見た目を通信用端末に偽装した特殊なスタンガンを持ち歩いていたことに対して厳重な注意があったけれど、「君は素行がいいから」という理由で、ひそかに恐れていた没収などのペナルティは課されなかった。高校生にはけっこう高い買い物だったのだ。
軒下の素行はどうだったんだろう、とぼんやり思った。
その場でわたしは謹慎処分に決まった。登校謹慎といって、学校へは来ていいらしい。通常の授業を受けるのではなくて、スクールカウンセラーとの面談があるそうだ。恐らく三日で済むだろう、と学年主任は親切に付け加えてくれた。
結果的に彼の見込みは大外れだったことになる。
*
初めて先生に会ったのが次の日だった。
カウンセリングルームという、いかにも訳ありの生徒が行く感じの場所へ案内されておっかなびっくりのわたしに、彼はごくごく普通に挨拶をした。
「月坂瞬です。よろしく」
「さ、三條日奈子です」とわたしはぎこちなくお辞儀をする。
そしてわたしが勧められたソファに腰掛けるなり、彼は訊いてきた。
「君は、ちゃんと泣けた?」
そのときの先生の目が今でも忘れられない。
今まで、誰からもあんな風に見られたことはなかった。
すぐそこにいて、確かにこっちを向いているのに、何も見てはいないかのような。
それでいて、恐ろしいほどまっすぐに、強く鋭く、わたしの心の中まで全部見られてしまっているかのような。
「……いいえ」とわたしは答えた。「どうしてですか」
「泣くことにはストレス解消の効用があると言われている」先生は淡々と、しかし優しく言った。「我慢は身体によくないことも多い」
途端に、涙が溢れ出してきた。
わたしは驚いて、何か言い訳めいたことを喋ろうとしたけれど、うまくいかずにみっともない泣き声が出た。
先生は卓上のウェットティッシュを差し出してくれた。
「だいたい、話は聞いている」先生は独り言のように言う。「相補性だね」
わたしは彼が言っていることの意味がわからず、ただティッシュで目や鼻を拭うので精いっぱいだった。
先生は続けた。
「人と人とが理解し合えるとでもいうかのような、あるいは我々人間が世界を理解し得るとでもいうかのような、そんな錯覚を引き起こす現象が確かに存在するということと、しかしそれはしょせん錯覚でしかないということとの間に、我々のすべての葛藤が根差している」
わたしはぐずぐずと泣きながら考える。
……錯覚、か。
軒下とお互いに理解し合えているなんて、思ったことはなかった。だけど、それで構わないんだと思っていた。わたし達の友情ごっこは、あの気軽でくだらない、だけど少し不思議ないつものお喋りで完結してて、それ以外のものは何も必要ないんだと思っていた。
彼女が、何を思ってわたしと接しているのか、なんて。
一度だって真面目に考えたことはなかった。
わたしはもっと考えるべきだったんだ。友達なんて必要ないとか、そんな子供みたいな言い草で誤魔化しちゃいけなかった。
そういう態度は軒下だけじゃなく、結局はわたし自身も傷つけた。
言葉を粗末に扱ったから、罰が当たったのだ。
「自分で自分を責める必要はない」と先生は言った。「後悔は次への反省材料とすべきだ。今は鼻でもかんでいればいい」
わたしはちょっと笑って頷いた。
「相補性って何ですか」
「物理学の用語だ」月坂先生は軽く眼鏡を触った。「ひとつの物事について、互いに相容れず矛盾するかのような二つの性質があるときに、その両方を同時に用いることでしか正しい在り方を把握できないような状態を相補性という。たとえば、物体の粒子性と波動性のように」
「あの。全然わかりません」
「三條君にとって、軒下君はよき友人だった。それ以外の意味合いが二人の関係に存在しているなんて考えもしなかった」先生は少しゆっくり喋った。「だけど、それは不十分な認識だった。軒下歌蓮にとって三條日奈子との関係は、単なる友情とは違った特別な意味合いを持っていたわけだ」
「……矛盾してたんでしょうか。わたしと彼女は」
「さあね」と先生は首を振った。「はっきり矛盾していると言い切らないところが、この話の味噌なんだ」
軒下は言っていた。入学式で見たときからずっと、友達になりたかったと。
わたしは彼女にとって、きっとそれだけ魅力的だったんだろう。
もちろん、軒下歌蓮もわたしにとって魅力的だった。声をかけてきたのが彼女でなかったら、あんな風に仲良くはなれなかったと思う。
だけど、わたしが軒下に感じる「魅力」と、軒下がわたしに感じるそれとは全然違っていた。
同じ言葉のはずなのに。
わたしだって、粗末に扱うつもりなんてなかったのに。
「少し、リハビリが必要かもしれない」先生は穏やかな調子でそう言った。「人と話ができるようになるには」
わたしは初対面の先生の言うことを、自分でも不思議なほど素直に受け入れる気持ちになっていた。
「はい……」とわたしは答えた。「よろしくお願いします」
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