1-8. 届かない手紙/読まれない言葉

 

  8

 

「……先生は、あれから歌蓮と会いましたか」

 最初に会ったときに言ったあの言葉を繰り返した先生に、わたしは訊ねた。

「いや」月坂先生は首を横に振った。「軒下君は僕の担当じゃない。話を聞いたのは君と会う前の一度きりだ」

「元気にしているでしょうか」

「わからない」彼は簡潔に言う。「彼女は君より深刻な状態だった」


 わたしより深刻、か。

 軒下が何に苦しんでいたのか、本当のところはわたしにはわからない。

 そんなものはきっと誰にもわからないだろう。


 彼女は「大好き」とか「ごめんね」とか言いながら、実際にはわたしの首を絞めようとした。そこに本気の殺意があったのかどうかはともかく、頭のどこかに三條日奈子わたしの死っていうことがなければ取り得ない行動だったと思う。

 そういう行動に至った彼女の気持ちについてわたしが考えすぎるのはあまりよくないことだと、先生から言われたことがあった。その通りかもしれない。だけど全く考えないというのも無理のある話で、わたしはもう自分なりにこの問題を解釈してしまっている。


 軒下歌蓮は三條日奈子を恨んでいたのだ。

 彼女の言った「大好き」や「ごめんね」が嘘だというのではない。でも事実として軒下はわたしを殺そうとした。きっとどれも本心なんだと思う。そう考えるしかない。だけどそれが何を意味しているのか、以前のわたしにはよくわかっていなかった。


 今なら少しはわかる気がする。

 相補性だ。

 好きだから恨めしい。

 謝りたいから気に入らない。

 気持ちを伝えたいから、伝わってしまうのが怖い。

 確かにそこにあると思っていたのに、気が付けば本当にあるかどうかもわからなくなってしまう。


 いざ言葉にしてしまえば、こんなにもありふれたことだ。

 どこにでもあるボタンの掛け違い。遍在する相補性。


「また、会えるかな」思わずそう呟いていた。

「軒下君がこの学校へ来ることはもうないだろうね」先生は呆れるくらい率直に言った。「会いたいと思うかい」

「……わかりません」わたしは目を伏せる。「だけど、このまま二度と会えないのは悲しいです」

「このまま死ぬまで会えないとも限らない。未来のことは誰にもわからない」月坂先生は少し声のトーンを落とした。「気休めを言うつもりはないけれど」

「先生に気休めなんて期待してません」

「じゃ、何を期待している?」

「言ってもいいんですか」


 わたしが冗談めかして言うと、先生は顔をしかめた。

「僕はスクールカウンセラーだ」眼鏡のブリッジに手をやって、彼は小さく息を吐く。「学校生活に問題や悩みを抱える生徒の支援をするためにここにいる」

「先生のことが気になって、勉強が手につきません」

「気になるとはどういう意味かな」

「……そんなこと、JKに言わせるつもりなんですか」

「混ぜっ返すのはやめなさい」先生の声が低くなった。「曲がりなりにも大事な話をしたいと思うなら、言葉は正確に使おうとするべきだ。もしそうするつもりがないのなら、君のやっていることは性質の悪い遊びだということになる」


「遊びなんかじゃありません」

 反射的に大きな声が出て、自分がびっくりした。

 あ、やばい。これは泣く……と思ったときにはもう手遅れで涙がぼろぼろと零れ落ちてくる。

 先生の前で泣くのは、これが二回目。


「いいかい、三條君」と先生が言うのが聞こえる。「誰かに気持ちを伝えるのは、生きていくうえでとても大事なことだ。だけど、伝わった気持ちは人を動かす。時に思いもよらない方向に、思いもよらないほど強く。……それがどんなに意にそぐわない伝わり方をした結果だとしても、起こってしまったことは取り返しがつかないし、誰も責任を取ってはくれない」


 それは、軒下があのときわたしに言ったのと、同じことだと思う。

 言葉を粗末に扱うと罰が当たる。

 結局、何も変わってないんだ。


「でも先生は」わたしは涙声になっている。「先生は全部、わかってるじゃないですか」

「いいや」彼はゆっくり首を横に振った。「それは君の思い込みだ」

「どうして、意地悪を言うんですか」

「意地悪ではない」先生は言う。「言葉の意味は言葉の世界だけでは絶対に完結しない。覚えているかな、シンボルグラウンディングの問題を。言葉が通じるかもしれないと願うことは、我々が互いの存在を認識し合うために欠かすことのできない信念だ。だけど、言葉が通じるに違いないと考えることは、人間のあらゆる不合理な葛藤の根拠になる」

「そんなの……」瞬きをすると、涙が溢れた。「本気でそんな風に思ってるんですか、先生は」

「わからない」顔色一つ変えずに、月坂先生は答える。「ただ、そんな風に思う僕が、今はここにいるというだけだ」


 言葉が出てこない。

 頭ではわかっていた。先生の言っていることはきっと間違ってない。

 だけど、全面的に正しいわけでもない。彼がいくら「言葉なんて伝わらない」って主張したところで、こうして目の前にいるわたしには確かに伝わってしまうものがある。先生がもし仮に自閉スペクトラム症だとしても、それくらいはわかってるはず。

 わかってる、はずなのに。


 コミュニケーションの粒子性と、波動性。

 これもまた相補性だ。

 おそらくわたしたちは、どこまでいってもこうして、一見すると矛盾しているとしか思えないような事態に突き当たることになる。


「三條君は、どうして授業に出ないでここへ来る?」

 わたしは小さく洟をすする。

「……先生に会うため」ふてくされた子供みたいな言い方になってしまった。

「僕に会うだけなら、授業が終わったあとに来てもいいはずだ」先生は淡々と告げる。「君は、これからどうしたい?」


「わたしは……」

 わたしは、これからどうしたい?

 わかんないよ、そんなの。

 それがわかったら苦労しない。

 今のままじゃダメなのはわかってる。こうやって学校をサボって毎週先生のところへやってきて、「好きです」とか言ってみたりして。こんなことをやったって何にもならないことくらい、わたしにだってわかっている。


 だけど、だったらどうすればいいっていうんだろう。

 どうしてこんな風になっちゃったんだろう。

 皆どうやって、この何もなさと付き合っているんだろう。


「先生が好きです」

 わたしは結局ぐずぐずの声でそう言った。

 それしか、言えなかった。

「……いいだろう。じゃあこうしよう。話を単純にするため、ここでは好きという言葉の定義は問わないことにする」月坂先生はわたしの目を見て言う。「三條君は僕のことを好きだという。僕も三條君のことを好きだと仮定してみる。すると君の望みはひとまず叶ったことになる。それで、その先はどうなる? 僕が授業に出なさいと言ったら、勉強をして大学へ行きなさいと言ったら、君はその通りにするのか。だとしたら、本当の問題は何も解決していない」


 わたしはただ泣く。

 先生の言葉はあまりにも真っ直ぐで、だから、あまりにも痛い。


「実のところ、これは人間にとって極めて普遍的なテーマだ」彼はいつも通りの、物静かなトーンでそう告げる。「言葉が自らの意味を他の言葉に求めるしかないように、人は結局、自らの存在意義を他者のうちに求めるしかない」

「だったら、わたしが生きる理由を、先生に求めたっていいでしょう」

「君は自分で言っていることの意味がわかっていない」月坂先生はきっぱりと言った。「それじゃあ、僕が交通事故で死んだらどうする。それともある日突然、君に愛想を尽かしていなくなってしまったら。そういうときに、傷ついたり落ち込んだり誰かに泣きついたりしながらも、最後には自分の力で立ち直るのが生きていくための条件だ。今の三條君にとって必要なのは、たった一人の特別な誰かではない」


「だったら……」わたしは肩を震わせた。「だったら、どうすればいいの」

「難しいことを、無理にやろうとする必要はない」先生はゆっくりと喋る。「答えなくてもいいから、考えてみるといい。君はどうして、僕以外の人間と関わりたくないと思うのか」


 ……本当に、先生にはわたしのことなんて全部お見通しだ。

 いくら思い込みだと言われても、そうとしか思えないんだからしょうがない。

 わたしはしゃくり上げながら考える。

 軒下歌蓮との間にあったことを、わたしの対人恐怖の理由に仕立て上げるのはわかりやすいストーリーだ。でも、本当はそうじゃないんだと思う。だってわたしは、軒下に声を掛けられる前から、友達なんて一人もいなかったんだから。


 そこから先へ考えを進めるのは、すごく大きな苦痛を伴った。

 見たくなかったもの。知りたくなかったこと。

 思い出すたびに喉の奥が焼けるように痛むあの言葉。

 わたしとこの世界との間に、見えない大きな壁を作り出してしまった出来事。


「どうしてそんな嘘をつく?」


 母の不貞を告発したわたしに、父はそう言った。

 わたしはひどく混乱した。

 それはあり得るはずのないことだった。

 だって、嘘をついているのはわたしじゃなくて母親だったんだから。


 わたしは何がなんだかわからなくなって「ごめんなさい」と言ってしまった。父は深刻そうな顔をして、わたしの『嘘』を窘めた。

 幼いわたしにとって、それはあまりにも不気味な経験だった。

 何か、みんながグルになって隠している重大な間違いを知ってしまったようだった。


 わたしがこのことを、デラシネでどこの誰とも知れないピンクのクマに告白しようと思ったのは単なる気まぐれや偶然じゃない。

 誰かには、言えなかった。

 言えばまたあの日のような恐ろしい目に遭うような気がして、とてもじゃないけど、口に出すことができなかった。

 だから、いつまでも癒えなかった。

 わたしはこの気持ちが悪いものを、あの掃き溜めにこっそり捨ててこようと思ったのだ。吐き出してしまえば、もしかしたらわたしの中からは消えてなくなっちゃうかもしれないと思ったから。


 だけどもちろん、そんなことはなかった。

 モモちゃんが言ったように、おかしいのはわたしの親だったんだろう。父と母の関係はどこかが歪んでいて、父はわたしに対する向き合い方を間違えてしまったんだろう。ただ、それだけのことだ。


 安心していい。わたしは何も間違っていない。

 世界の全部が狂ってしまっているわけでもない。

 わたしは、愛されるに値しないから愛されなかったわけじゃない。

 そう思えたら、どんなに楽になるだろう。


「……父のことが、好きでした」

 やっとのことで、わたしはそう口にした。

「お父さんはどんな人だい」

「無口だけど優しくて、すごく頭がいい人です……でも、いつも何を考えているのか、全然わかりません」

「今は、もう好きじゃない?」


 わたしは先生を見た。相変わらずの無表情。こちらには興味なんかこれっぽっちも持っていなさそうな、少し眠そうな目。

 こんな顔をして、なんて残酷なことを訊くんだろう、この人は。


「……わかり、ません」

 嫌いです、と言ってしまえるならまだよかった。

 あんな馬鹿な男、不誠実な母親に騙されてわたしを深く傷つけて、そのことに気付きもしないどうしようもない朴念仁、嫌いになったって誰も文句は言わないはずだ。


 あれから父の仕事はどんどん忙しくなって、顔を見る機会も減っていった。最後に言葉を交わしたのがいつだったのかも、もう覚えていない。

 でも、父のことを考えれば思い出してしまう。

 「ヒナコ」とわたしの名前を呼ぶときの少し舌っ足らずな声。頭を撫でてくれた大きな手の温かさ。それに、先生とちょっとだけ似ている、垂れ気味の優しい目。

 頭の中の父は、幼い頃のままだ。

 わたしが大好きだったときのまま。


「君は甘えたかったんだね」先生は言いながら少し上を向いた気がした。「その相手は、本当は僕じゃない。お父さんだ」


 視界が滲んだ。

 どうしてだろう、悲しくて悲しくて悲しくてしょうがない。


 わたしは先生のことが大好きなのに。

 こんなにも、好きだと伝えているのに。

 先生はそれを聞いてわたしを好きになるどころか、この「好き」を「父親に甘えたい」気持ちだと言う。


 軒下歌蓮だってそうだった。

 わたしの言葉、わたしの気持ちは軽いと彼女は言った。


 なんだよ、それ。

 訳がわからないにも程がある。

 今、わたしは確かにここにいて、わたしの気持ちも一緒にあるはずなのに。

 わたしは嘘なんてついてないのに。

 それなのに、父も軒下も先生も、どうしてみんな、寄ってたかってわたしを否定する?


 これが先生の言っていた、「言葉なんて伝わらない」ってことの意味なんだろうか?

 ……だとしたら、だとしたらもう、誰とも話なんてしたくない。

 だって、人と関わったって傷つくばかりで、いいことなんて何もない。


「どうしてそんな酷いことを言うのか、って顔をしているね」先生はいつものように見透かしたようなことを口にした。「でも一般論として、君のような若い女性が年上の男に今みたいな態度をとっていれば、もっと酷いことになる危険の方が大きい」


 仮定とか、一般論とか。

 目の前にいるわたしが自分の気持ちを恥ずかしいくらい主張してるのに、先生はあくまでカウンセラーの立場からの正論しか喋ってくれないのだ。

 わたしが全部をさらけだしても、先生は本心なんか言わない。

 また、涙がこぼれそうになった。


「もっと酷いことって何ですか」自分が怒ったということにして、わたしは小さな声でそう言い返す。「わたしだって、それくらい知ってます。貴方から見たら小娘かもしれないけど、一人の女性です。先生は結局、いちばん大事なところがわかってない」

「……起こったことの責任も自分じゃ取れないくせに、生意気なことを言うんじゃない」先生は溜息を吐いた。「でも、その通りだ。僕にだってわからないことはある。いくらでも」


 彼は少し疲れたように顔を俯けて目を閉じる。眼鏡を外し、右手の指先で眉間にふれて、そのままの姿勢で何秒か黙り込んだ後に口を開いた。

「前に、僕の父親の話をしたことがあったね」

「はい」

「父のことは尊敬していたと思うけれど、彼が何を考えていたのかは、最後までわからないままだった。君と違うのは、僕の父はもう死んでしまっているということだ」


 先生はいつの間にか眼鏡をつけて、目を開けている。

 わたしはそれを見る。黒。見ただけで吸い込まれてしまいそうな闇の色。

 また、この目だ。


「だから先生は、お父様の研究を?」

 わたしは半ば無意識にそう口走っていた。

 月坂肇博士の研究について最初に先生に訊ねたとき、「自分とは専門が違いすぎるから」という理由で何も語ってはくれなかった。でも、あとで話してくれた内容は、明らかに彼が博士の研究を深く理解しようとした経験があることを示唆していた。

「ああ」先生は虚ろな声で答える。「そんなことをしても、父の思いがわかるはずなんてないのに」


 わたしは、彼の瞳が湛える暗黒をじっと覗き込む。

 その時、突然ある考えが頭に浮かんだ。

 それは明確な形を持っておらず、何を意味しているのかはよくわからない。ただ、「そうである」ことに対する確信だけが降って湧いたように生じた。


「先生」とわたしは言った。「なぜ、人を殺してはいけないんですか」

 月坂先生は黙りこくった。

 何かを深く考え込むように、あるいは必死で思い出すように、彼は小さく首を傾げ眉をひそめている。


「歌蓮が、どうしてわたしを殺そうとしたのか、わかった気がします」

「三條君」先生は痛みに耐えるような顔で言った。「それは考えても仕方のないことだ」

「でも、先生だってお父様のことを知りたくて、研究内容について調べたんでしょう」わたしは言い返して、続ける。「歌蓮はきっと、矛盾を解消しようとしたんです」


 先生は、くしゃっと表情を歪めた。そんな顔をするところは見たことがなかったから、少し驚いた。

「物質が粒子であると同時に波動でもあるという状態を人間がうまく理解できないのと同じように、歌蓮はわたし達の間にある関係性を、受け容れることができなかったんだと思います」


 わたしは軒下のことを好きだと言った。

 軒下もわたしのことを好きだと言った。

 それが普通の意味で相思相愛と呼べる状態でないことは、軒下には最初からわかっていたはずだ。痛いくらいに。


「なぜ、人を殺してはいけないのか……」先生は苦しげに呻いた。「矛盾が、人を殺すに足る理由だと思うのか」

「はい」

 わたしが応えると、彼は暗い色を宿した目でこちらをじっと見つめた。

「三條君は」先生は、深い深い井戸の底から汲み上げてきたばかりの水のような声で言う。「軒下君に、殺されてもいいと思ったのか」

「……はい」わたしは小さく頷いた。


 それが自分の本心かどうかはわからなかった。たぶん嘘だと思う。わたしは現に軒下歌蓮に殺されかけて、自己防衛のために反撃をしてしまったのだから。

 でも、今ここでこうして先生に問われれば、「殺されてもいいと思いました」というのがわたしの答えになった。


 あの瞬間、わたしはどうして生きようとしたんだろう。

 軒下の涙に濡れながら、彼女の殺意を否定してまで。

 父に愛されたいというちっぽけな願い一つ叶わなかったこんな世界でも、たった一人の友達に殺されかけて絶交してしまったとしても、それでも生きていれば何か良いことがあるかもしれないと、そんな風に思ったんだろうか。


 あのとき軒下は言っていた。わたしは望めばなんだって手に入れられるって。

 彼女がわたしを騙そうとしたとは思わないけど、それはやっぱり大きな勘違いだったのだ。

 わたしが本当に欲しいものを手に入れられたことなんて、ない。

 今も昔も変わらずに。

 そしてきっと、これから先も。


「君はどうしようもない甘ったれだな」と先生は言った。

 その言葉は、今にも泣きだしそうな響きを帯びて聞こえた。

「……なんで、先生が泣くんですか」

「それは、人を殺してはいけない理由と同じくらい、答えるのが難しい質問だ」彼は無表情のまま、冗談とも本気ともつかないことを口にする。「僕は君のお父さんにはなれない」

「そんなこと、わかってます」


「すまなかった」言って先生は目を伏せた。何もかもを飲み込んでしまいそうな色をしたあの目を。「そうだね。わかっていなかったのは、僕の方だった。今頃それに気付いた自分の間抜けさに呆れて、泣きたい気持ちになったんだ」

「……先生はずるいです」

 いつもクールで無表情で、わたしのことなんか何とも思ってなくて。

 そのくせ、わたしの話を親身になって聴いてくれて、誰より深い理解を示して、おまけに時折、感傷みたいなものまで覗かせてみたりして。

 でもそういうのも全部、カウンセラーっていう彼本来のあるべき立ち位置から逸脱した振舞いとは言えなくて。


 だから、わたしが本当に一番言ってほしいことは絶対に言ってくれない。

 絶対に絶対に、言ってくれない。


 それは正しいことなんだと思う。他の誰から見ても、先生自身にとっても。何より長いスパンで考えてみれば、きっとわたしにとっても。

 その正しさが、ずるい。

 あまりにも不公平だ。

 だって、わたしはこんなにも正しくない。わたしは小娘で、両親に愛してもらえなかった傷を抱えている未熟な存在で、学校でもまともに友達を作れない浮いた子で、どうやって生きていけばわからなくなって途方に暮れている。


 いっそあの時、殺されてしまえばよかったとさえ思ってる。


 そんな風に追い詰められた女の子が「貴方のことが好きだ」と言って伸ばしてきた手を、「自分もだ」と言って握り返す方がどうかしている。それは弱い相手を食い物にする行為だ。

 わかってる。わたしは全部わかってる。

 わかった上で、わたしは思う。

 こんなに悲しいことはない。

 結局こういった事柄は全部、ただただシンプルに、先生はわたしに向かい合う中で、一人のカウンセラーとして高い倫理観と誠実さをもって職務を遂行しているに過ぎないという、至極当たり前で健康的な現実を指し示しているだけなんだから。

 わたしがどれだけ自分をさらけ出して、どんなに傷つこうとも、目の前にいるのは「スクールカウンセラーの月坂先生」であって、間違っても「月坂瞬」という人間なんかじゃないんだから。


「ああ。僕は卑怯者だ」先生は項垂れたままぽつりと言った。「だけど、三條君が勘違いしていることもある」

「何ですか、それ」

僕は人間だよ・・・・・・……間違いなく」彼の声はか細く、消え入ってしまいそうなくらいだった。「カウンセラーである以前に、弱くてずるい一人の人間なんだ。三條君のために何かしてやりたいと思いながら、それでも自分にできることとできないこと、やっていいこといけないことの線引きはせざるを得ない。泣きたくなるくらい情けない、ごく普通の無力な大人だ」


 先生の言い分を聞いて、わたしは何がなんだかわからないけどとにかく感情が昂ってくるのを感じた。

 顔が熱い。

 止まりかけていた涙がまた溢れ出したのがわかる。

 全身がじんわりと汗ばんでいく。


 わたしはどこまでも煮え切らない態度の先生に怒っているのかもしれない。

 色々言いながら結局カウンセラーはカウンセラーでしかないって事実に悲しんでいるのかもしれない。

 あるいは、わたしの言葉や在り方が少なからず先生を動揺させたらしいことに喜んでいるかもしれない。

 もしかしたら、こうやって先生を振り回し、先生に振り回されること自体がだんだん楽しくなってきているのかもしれない。


「そんなの……全部、言い訳でしょ」泣き叫ぶようにわたしは言った。「先生が本当にわたしのためを思ってくれるっていうなら、わたしのものに……なってください」

 わからない。

 自分が何を感じ、考えているのかがわからない。

 わたしの思いは今、わたしの存在と一緒に確かにここに在るはずなのに、その正体がわからない。

 以前、先生の言っていた言葉が蘇る。


 ――『わかる』とは何のことなんだろうね。


「   」


 先生が何かを言って、立ち上がった。

 わたしはそれを見ていた。

 心臓の鼓動がいつの間にかドクンドクンとものすごく大きくなって、他の音は耳に入らなくなっていた。


「         」


 先生の口が動いて何かを言ったのがわかるけど何を言ったのかがわからない。

 わたしも口をぱくぱくさせるけどぱくぱくするだけで声は出ていないような気がする。

 先生が近づいてくる。わたしは座ったままぽかんとしている。


「        、             」


 わたしがゆっくり立ち上がる。

 先生はそれを見ている。

 気が付けば触れられるくらい近くに先生がいて、わたしもいる。

 心臓がうるさいけど、同じくらい自分の呼吸もうるさい。

 先生も呼吸をしているし心臓だって動いてるはずなのにそういった音が聞こえてこない。何しろわたしの音が大きい。


「     」


 わたしは先生の目を見る。

 中空にぽっかりと空いた洞穴のような二つの目。

 先生の黒目には先生を見つめるわたしの姿が映っている。

 先生の目の中に映っているわたしの目にはきっと先生が映っている。

 始まりも終わりも、全部そこにある。 

 わたしは手を伸ばす。


 先生は、見ている。

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