1-9. 幼年期の終り
9
その後、一回だけ先生を見た。
翌週の水曜日のことだった。
散々迷った挙句、正面からカウンセリングルームを訪れる勇気は湧かなくて、校庭にある大きなケヤキの傍から窓を覗き込んだ。
月坂先生は当たり前のようにそこにいた。
彼はこちらに気付いたのかもしれない。ちらっと視線を動かし、首を傾げて、穏やかに微笑んだ気がした。
それを見た瞬間に、自分の考えが間違っていなかったことと、やらかしたことがどれほど取り返しのつかない致命的な間違いであったのかを同時に嫌というほど思い知った。
結局のところ、やっぱり先生が正しかったのだ。わたしはどうしようもない甘ったれだった。先生はわたしが必要なものを与えてはくれなかった。どころか、最初から持ってなどいなかった。
そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。わかっていても、なお求めずにはいられなかったはずなのに。
どうしていいかわからなくなって、わたしは逃げ出した。大きなケヤキの傍から。月坂先生から。彼に救いを求めようとした愚かな自分自身から。
しばらくして、わたしは天橋学園を自主退学した。
*
退学した後に、もう一度だけ本腰を入れて絵筆をとった。
桜が咲く丘の、その後を描くためだ。
満開だった桜が散り始める頃、それと入れ替わるようにして少しずつ新緑が芽吹いてくる。すると花弁の薄いピンクと若葉の萌黄色とが入り混じって、とても複雑で美しいまだら模様が生まれる。風が吹くと枝葉が擦れ合ってさざめき、葉桜の色合いははらはらと揺れ動く。
意識していなければ見逃してしまう、ごく僅かな時期にしか存在しないその風景を、絵にしてみたいと思った。
今回は、なかなか納得いく色ができなくて時間がかかった。描き始めたのは桜が咲く前の三月だったのに、完成する頃にはまた夏が始まろうとしていた。
わたしは十八歳になっていた。
通信制の高校で勉強をして、ゆくゆくは大学への進学を目指すつもりだった。
不思議なことのように思われるかもしれないけれど、あれだけ先生のところに通い詰めて先生が構ってくれないから寂しいとか自分が何をしたいのか全然わかりませんとかギャンギャン喚き散らすしか能のなかったわたしが、先生のいない生活を送らざるを得なくなるとなんだかんだ言いながらもそれなりにやるべきことを見つけてやるようになった。なってしまった。
それが本当にやるべきことかどうかなんてわからないまま、あるいはそんなことは最初から考える必要がなかったんだとでも言わんばかりに。
両親との関係も変わった。まるでそれまでの葛藤が嘘だったみたいに普通になっていった。高校を辞めるときはもめたけど、辞めた後にどうするつもりなのかみたいな話をして最終的には納得してもらえた。
もちろんわだかまりが解消されたとか、親しくなったというのとは違う。ただ、必要に応じて情報や意見の交換ができるようになっただけだ。それを妨げていたものが何だったのかもわからないくらい正常に。
たぶん、客観的にはこうやって解釈することができるんだろうと思う。先生との関係はわたしにとってある種のイニシエーションだったのだと。
難しい年ごろの一人の女の子が、生育過程や日常生活のストレスに晒されながら、実存の問題を乗り越えて成長していくために必要な儀式のようなものだったと。
大人になるって、つまりはこういうことなんだと。
それはきっと正しいことだ。
でもその正しさは、物事の半分だけを都合よく切り取って作った、見せかけの正しさにすぎない。
だって、そうやって「大人になった」わたしは、あの日先生の前で涙を流したわたしを犠牲にして出来ているのだ。
いつか先生が言っていた。
「自分はすっかり以前とは別のものになってしまったかもしれない」と。
今だったら彼の言った意味はよくわかる。
わたしの中に、情緒不安定だったあの子の居場所はもうない。彼女が今のわたしを見たら、「こんなのは自分じゃない」と言って泣き出すんじゃないかとさえ思う。
あの子はどこへ消えてしまったのだろう?
泣き喚いて駄々をこねて、先生がありったけの誠意を見せながら譲歩の姿勢を示してくれて、それで気が済んだのかもしれない。
そうやって何らかの形で区切りがつけばさっぱりなかったことにしてしまえる程度の、他愛もない我が儘だったのかもしれない。
でもそんな風に考えること自体、あのときのわたしだったら我慢がならなかったに違いない。わたしは明らかに、生きることに行き詰まっていた。
矛盾は、人が人を殺すに足る理由だ。
あの子の在り方すべては、わたしがちゃんと自分の足で立って、生きていかなくちゃならない現実と矛盾してしまっていた。
だから、わたしがあの子を殺したのだ。生きていくために。
軒下歌蓮に殺され損なったあの子を。
人はこんな風にして、どうにもならないことに折り合いをつけながら生きていく。
そういう言い方をすれば一応の恰好はつくかもしれないけど、実際のところは嫌なことと一緒に大事にしていたはずの気持ちも忘れて、麻痺させて、なかったことにしてしまっているだけだ。
それを皆が知ったような顔で、大人になることだと言い張っている。自分自身にもそう言い聞かせて、いつか本当のことだと思い込むようになる。
テセウスのパラドックス。
わたしを構成するパーツが丸ごと入れ替わってしまった後でも、それでもわたしはわたしと呼べるのか。
答えは、少なくともわたしにとって「否」だ。
先生から逃げ出すことを決めた時点で、わたしの連続性は決定的に断絶した。
それは「わたし」とは違う何かになった。
だから、ここから先はもう「わたし」ではない。
九條ヒナコ。
それが新しい自分の名前。
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