1-5. 桜
5
軒下歌蓮が浮かれている。
もちろん、彼女のテンションが高いというか、やたらマイペースにハイペースを押し付けてくるのは今に始まったことではない。そういう意味ではいつも通りだ。
問題は持ち物のほうだった。果たして女子二人でオフシーズンの海へ行くのにビニールシートやパラソルやデッキチェアが必要だろうか。
彼女は「備えあれば憂いなしだよ」とかなんとか言っていたけれど、いかなる英雄であっても持ち物の制限から自由になることはできないのだ。ドヴァーキンもゲラルトもアーロイもリンクもそうだった。勇者ロトだってその道行に薬草を捨てた。いわんや我々小市民をや。
っていうか、真面目にどうやって持ってきたんだそれ。身一つで。
「気合よ気合」と軒下は適当なことを言った。「男は度胸、女は気合って言うでしょ。気合があれば大抵のことはなんとかなるもんよ」
わたしはツッコミを入れるのもばからしくなって溜息をついた。
「軒下さんって見かけによらず熱血教師みたいなこと言うよね」
「三條さんは見かけによらず大時代的な喩えをよく使う」軒下は無人のビーチにパラソルを立てながら喋る。「いやはや、しかし空いてますな」
「当たり前でしょ。何月だと思ってんの」
「手厳しいですなぁ、三條殿は」ほっほっほ、と謎の好々爺と化した軒下が笑う。「ほれ、どうですか。海ですぞ、海」
「どうって言われてもね」わたしは肩を竦めた。「正直見飽きた光景だけど」
何についても言えることだと思うけれど、毎日のように見ているものは生活の背景になってしまう。海沿いの町に暮らすわたし達にとって、海は当たり前に、ただそこにある。こうして改めて目の前に持ってこられたところで、何か新鮮な感慨が得られたりするかというと、別になかった。
「駄目だわ、三條さん。キミには愛がない。愛が」軒下は大げさに嘆いた。「飽きたという言葉ほど、愛から遠いものはないよね。美人は三日で飽きるとかいうけど、何もかもがまったく酷い話だよ」
「あいにく、生まれてこの方ずっと同じ海を見て育ってるから」わたしはあくびをした。「今更これを見て何かを感じろって言われても無理な話よ。飽きたって言葉が悪かったら、そうだなー。軒下さんだって、いきなり自分の顔についてコメントしろって言われても困るでしょ」
「うーん、そうね」と彼女は顎に手をやって真面目な顔で答える。「自分ではそれなりに気に入っているけど、客観的にみて美人って言えるかというと微妙なところだと思う。特に三條さんと並んでいるときは」
この子はこういう冗談をよく言う。
軒下歌蓮はお洒落な女の子だった。田舎の女子高生というのは大体が都会の流行を周回遅れで追いかけているようなもので、しかも皆が一斉に同じようなことをやるからどうも滑稽に見えてしょうがないときがある。軒下はその点で洗練されていた。何かの物真似でない彼女なりのスタイルを持っているように見えた。
どうでもいいけど本人に「軒下さんってお洒落だよね、美術部なのに」と言ったら「そういうのを偏見っていうんだよ。だいたい美術ってのは美を扱う術なんだから、本人が美しさに興味を持たないようでは駄目だよね」なんてお説教をされたこともある。
ともあれそんなファッショナブル軒下が、わたしのような地味系女子、エアー三條に向かってそのような物言いをするのは奇妙なことだ。
「あのさ、認知の歪みを利用した叙述トリックなんて面白くも目新しくもないんだからやめときなって」と彼女は呆れた風に笑った。「こないだも下駄箱にお手紙入ってたでしょ。知ってるんだから」
「なんでそんなこと知ってんの」思わずぎょっとして言う。「でも、読まずに捨てちゃった」
「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」軒下はわたしの言葉を勝手に歪曲して受け取った挙句あさっての返事をした。「……あ。三條さんが端末二台持ちなのも知ってる」
「え、二台?」
「あれ、勘違いだったかな。まあいいや」と軒下はまたも何やら自己完結。「三條さんは自分の顔、あんまり好きじゃないんだ?」
「そうだね」わたしはふいと目を逸らした。「嫌いな女によく似てるからかな」
「ははん。ま、好きになれないものを無理に好きになる必要はないかもしれないけどね。それが例え自分自身であったとしても」彼女はなんでもないことみたいに言う。「でも、客観的な評価は受け入れておいたほうが何かと得だと思うよ」
「得、ですか」とてつもなく不快なことを思い出しそうになってわたしは顔をしかめる。
「あら、地雷だったか。ごめん」
「いや、めんどくさいわたしが悪い……」自分でもこんなことでいちいち気を悪くするのが嫌だった。軒下の言う通りだ。人からの評価は素直に受け入れられるに越したことはない。「わたしは軒下さんの顔、好きだけどね。クールっぽくて、格好よくてさ。取り換えてほしいくらい」
「ギャップは萌えの本質よ、三條君」やたら嬉しそうにニンマリしながら軒下は人差し指を立てた。「あたしみたいなのがこんなんだから面白いんだし、三條さんみたいなパーフェクト美少女が意外と理屈屋のめんどくさい子だからいいんだって」
「理屈屋で言ったらあんたも変わんないでしょ」
「ほっほっほ、こりゃあ一本取られましたな」
どうやらわたしは画才に恵まれていないらしかった。軒下からシャーロック・ホームズ様をダシに「海を描く」というお題を与えられ、自称門下生として名探偵の顔に泥を塗るまいと奮起したわたしであったが、自らの絵筆が満足な成果を挙げられそうにないことを認めるまでにそう時間はかからなかった。
原因は観察力の欠如、ではないと思いたい。今まで生きてきて手先の器用さに問題を感じたこともなかった。ただ、筆が動かない。たぶん根本的に、描くということが何なのかがわかっていないのだ。これが美術の授業だったら、要は教員に気に入られればいいという明確な目的があるから簡単なんだけど。
それを軒下に報告すると彼女は怒るでも呆れるでも悲しむでもなく笑った。満面の笑みとはああいう表情のことだと思う。嘲りとかではない、純粋な喜びが生み出す心からの笑顔。
そして言ったのだ。
「それじゃ約束通り、海行こう!」
かくしてわたしは軒下に連れられて十一月の海へ来る羽目になった。いや、はめられたというほうが正しいのかもしれない。目論見がずばり的中したときに人間はああいう笑顔を浮かべる。彼女は最初からこのつもりだったわけだ。そうに違いない。
冬場の海水浴場は寂しい場所だ。砂浜は湿って重たいし、空は青というより灰色だし、海の色はもはや黒に近い。人が寄り付かないのも頷ける。
そんなところでわたし達はビニールシートを敷き、パラソルを差して、デッキチェアに腰掛け談笑した。裸足になって波打ち際を歩いたりもした。準備のいい軒下は当然タオルを用意していた。
重量制限を無視した不思議なリュックサックからは、なんとお弁当まで出てきた。ウィンナー、唐揚げ、プチトマトとブロッコリーのサラダに、斜めに切ってハート型になった卵焼きという王道構成。全体的に可愛らしく盛りつけがされていた。わざわざ早起きして作ったらしい。
うむ、おいしかった。確かにおいしかったけれども、浮かれるにも程がある。わたしのことを人生初の彼氏か何かだと勘違いしているんじゃないのか。
あるいはそれくらい軒下には深刻に友達がいないのだろうか、とわたしは勘ぐった。彼女が特定の誰かとつるんでいるところを見たことはなかった。軒下のコミュニケーションには一種の特殊な間合いがある。誰にでもあの調子で絡むから疎んじられるのかもしれない。それに、ファッションセンスが田舎の女子高生としては未来を行き過ぎているあまりに周囲から浮いてしまっている部分も、もしかしたらあるのかもしれない。
仮にそうだったとして、勿論わたしも人のことは言えない。言えないけれども、わたしははっきり言って学校に友達がひとりもいなくたって構わない。友達がいるってこと自体に価値を見出した挙句、嫌われて仲間外れにされる心配をしながら日々を過ごすなんてナンセンスの極致だ。それでも誰かとお喋りがしたいならデラシネにアクセスすればいい。
ただ軒下はそういう風には考えられないのかもしれない、と思う。
それならそれで、軒下とのお友達ごっこに付き合うのも吝かではなかった。わたしみたいなはぐれ者に構ってくれる子は珍しいし、何よりわたし自身、軒下歌蓮という人間が嫌いじゃない。そう思えるようになっていた。
とかそんなことを考えていると、またぞろ軒下はわたしの心を読んだかのように「いやいや、お弁当なんていつも作ってますから。毎朝早起きしてお父さんの分まで作って学校へ持って行ってるから」などとのたまう。
「うええっ」わたしは思わずのけ反った。「ま、ま、マジで」
「お弁当作りは女子の嗜みよ」と彼女は冗談めかした。「三條さんはいつもコンビニだよね」
「作る人いないし……」
思わずさも正当な理由みたいに言ってしまったけれど、すぐそこに自分でお弁当を作ってる女子高生の、いや人間の鑑が座っているのだからみじめな気分になるばかりだった。
「あたしが作ってあげよっか」
「はい?」
「二人分作るのも三人分作るのもあんまり変わんないしさ」
人間の鑑が眩しい。曇り空から覗く陽光をキラキラと反射して。
「いやいや、悪いって」
「じゃ、週一回から」彼女はめげない。「代わりにその日は一緒にご飯食べてよ。これでどう?」
「どうって言われても」これまで生きてきてこうもあからさまに赤の他人から施しを受けた経験がないのでこちらとしても対処に困る。「何も返せないよ」
「いいよ別に」
「こっちが気にするんだってば」
「強情ですなぁ」軒下は腕組みをした。「だったら一つお願いを聞いて。それで貸し借りチャラってことで」
「何、お願いって」
「それはこれから考えるの」にんまり笑って軒下は言う。「はい、決まりね」
強引に押し切られてしまった。何故この子はこんなにもクラスメートにお弁当を恵みたがるのか。
「お願いの中身による」とわたしはむなしい抵抗を試みた。
「はいはいわかってるわかってる」と軽くあしらわれた。
*
「ねえ」とわたしは寒々しい海の方を見つめたまま呟いた。「結局、いくらこうして海を眺めてたって、絵を描けるようになる気がしないんだけど」
「ふむ」軒下はわざとらしく咳払いをした。「三條さんは描けないんじゃなくて描きたくないんだよ」
「それを言ったら終わりだろうが」
「あはは」と軒下は軽快に笑う。「描きたくないって言っても二通りあるよね。描きたくないという気持ちがあるか、描きたいという気持ちがないか。積極的か消極的か」
「わたしは消極的描きたくない」
「その通り」彼女は深々と頷いた。「じゃ、ここで問題です。人はなぜ絵を描くのでしょう」
「描けと言われるから」わたしはふてくされて答える。
「あっはははは」軒下は心底おかしそうに笑った。「三條さん面白い。涙出るわ。確かにね、描けと言われるから描く。それもまた真理と言えましょう」
「笑いごとじゃないって」つられて若干笑いながらわたしは言う。「絵を勧めてきたの、軒下さんじゃん」
「理由なんて人の数だけあって当たり前だけどさ、描くっていうのは伝達だとか表現だとかっていう以前に動作なんだよ。あたしが思うに」言って軒下は筆を持つジェスチャーをした。くいくいと手を動かして、空中に絵を描いていく。「筆を動かすと紙に色が乗ってくじゃん。絵を描くのが好きっていうのは要するにこの感覚を楽しめることだと思う。自分のアクションによって何かが起こるのが面白いわけ。楽器の演奏とかビデオゲームとおんなじ」
「ああ」わたしは声を高くした。「ゲームね、それならわかる」
「キミはなんでも初めから頭で考えすぎなの。何を描こうとかどうやって描こうとか。そんなのは後からでいい。言ったでしょ、海の色を塗るのは楽しいんだよ」
確かにそうかもしれない。
わたしは自分で目標を立てて行動するというのが苦手だ。自由にやれと言われると、却ってどうしていいかわからなくなってしまう。
その点、学校の勉強とかゲームは楽でいい。明確な目標設定がある。たぶん、引きこもりやニートと呼ばれる人々がゲームにハマったりするのもその辺に理由があるとわたしは睨んでいる。自分で目標を立てられないから、ゲームの世界で与えられる目標に夢中になるわけだ。そういう意味でわたしは立派な予備軍と言える。まあ、あんな家に引きこもるなんてまっぴら御免なんだけど。
「でもさ」なんとなく居心地が悪くなってわたしは反撃を試みた。「それならわざわざビーチに来る必要なくない?」
「だから、それだよ。わかってないぜ三條さんは」軒下は溜息を吐く。「必要とかじゃないんだって。なんとなく行きたいから行くんだよ。言葉にできる理由なんて大体こじつけみたいなもんでしょ」
「んぐぐ」目論見は失敗に終わった。むしろ藪蛇だった。「おのれ、やはり騙したな」
「あたしは描けないようだったら海へ行こうって言っただけ。最初から、海に来れば描けるようになるなんて言ってないもんね」
軒下はそう言って小さく舌を出した。なまじシャープな顔立ちをしているぶん憎たらしい。
「詐欺師。ほら吹き。減らず口」
「あっはっは、なんとでも言うがよい」
笑い声が、冷たくて湿っぽい海風に溶けていく。
それを追いかけるように、ささぁと控えめな波の音。
わたしは考えている。
何を? それが自分でもいまいちわからない。
何を。何を描こうか。海はわたしが描きたいものではないのだと思う。少し目先を変えてみるべきだ。
ほら、言われた傍からまた考えてる。
軒下がわたしに対して言うことは大体いつも的確だ。それは彼女が賢いのもあると思うけど、何より三條
軒下に言わせれば当然これだって考えすぎなんだろうけど。
わたしは結局のところ、踏みとどまって考えるばかりで実際にやってみないからわかっていないことだらけだ。絵とか友達作りに限らない。なんでも。
だけど、と頭の中で別のわたしが控えめに言う。だけどなんか変な気もする。何が変か。そもそも軒下はわたしのそういう頭でっかちなところを評して「絵に向いている」と言ったのだ。屋根に上るために使ったはずの梯子を外されてしまった。絵を描くという行為に軒下が本来見出している楽しさよりもはるか手前で、わたしが思いがけず躓いてしまったってだけの話だろうか。
「まーた何かごちゃごちゃ考えてんでしょ」
軒下が、目の前に顔をずずいと突き出してきて言った。
「まあね」わたしは否定するのもめんどくさくなって頷く。「軒下さんってエスパーみたいだよね」
「あたしは鋭いんだよ」言って彼女は声を弾ませる。「なぁに、褒めてくれんの」
「どうだろ。むしろちょっと不気味かも。手紙のこととか知ってるし」
「それ、たまに言われる」あははーと軽く笑いながら軒下。「ねえねえ」
「何」
「ヒナちゃんって呼んでもいーい?」
「今の流れで訊くこと、それ?」わたしは軽く噴き出した。
「お。断らなかったってことはOKと解釈するぞ」
「ナンパ男みたいなことを言うな」
「だってヒナちゃんはツンデレだからさ」
「は?」なんだか面白くないことを言われた気がしたので凄んでみせる。
「あたしのこともほら、レンちゃんとか呼んでくれていいから」軒下はおかまいなしといった様子。
「やだよそんなの」
「えー。何だったらいいの」
「知らない。軒下さんでいいじゃん」
「いつまでも苗字呼びじゃ、なんか余所余所しいでしょ」
「わたしは気にならないけど」
「むう」軒下は頬を膨らませて、それから急にぱっと顔を輝かせた。「あ、それじゃこれがお弁当代わりのお願いってことで」
「本気だったんだ……」タダより高いものはないとはこのことだ。押し問答を続けるのもかったるかったので、わたしは少し考えてから答えた。「じゃあ、カレンダー」
「は?」返事は初めて聞く感じのドスの利いた声だった。
「軒下、かれん、だー」
「キミには愛がない」心底失望した風に軒下は言った。
わたし達のそんな生ぬるい友情ごっこは、それから日めくりカレンダーにして百枚分くらい続いた。
その間に、わたしは一枚の絵を描いた。桜が咲く丘の絵。灯台があって海も見える美しい情景だった。我ながら結構よく描けたのではないかと思う。軒下も上手だねと感心していた。
何か、目の前にはないものを描きたかった。モチーフに桜を選んだ理由をあえて分析するならそんなところだ。あとは、適当に絵具を混ぜていたら綺麗な桜の色ができたから。
軒下歌蓮と過ごす時間は楽しかった。彼女はわたしをツンデレだと言ったけれど、半分は的外れであったと今は思う。わたしがつんけんしているのは上っ面だけで、内心では軒下歌蓮に対する好感を十二分に自覚していたのだから。
結果的にはわたしがその好意的な感情を表明したことが関係の決裂を招いた。わたしからすれば些細なことだったのだけど、それ自体、わたし達の友情もどきが最初から破綻していたことの証明みたいなものだ。
三月、高校生活の一年目も終わりに近づいたころ。
軒下歌蓮はわたしに殺されかけて、それから二度と学校へは来なくなった。
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