1-4. 放射に関するプランクの法則

 

  4

 

 月坂肇。

 故人。享年四八。国立帝都大学工学部教授。専門は神経工学。


 大学院在籍時代から、電気信号によって制御可能な義肢に関する研究で目覚ましい成果を上げ、当該学問領域の第一人者として名を馳せた。

 晩年は極めて革新的なロボット技術の研究に邁進していたが、十年前に変死。現場の状況等から自殺であると判断された。

 

 当時のニュース記事でわかるのはこれくらいだ。

 どちらかというとインターネット匿名掲示板の無責任な書き込みの方が色々と興味深いことが書いてある。もちろんその分、信憑性は疑問なんだけど。


 兼ねてより、月坂博士の研究はネット上に住まう好事家たちの注目の的だったようだ。多分モモちゃんもその一人なんだろう。だから彼の死について語るフォーラムに書き込みをしていたのも、研究内容に関する通り一遍の知識は持っている人間が多いように見受けられた。

 そんな中でわたしの目に留まったのは、やはりというべきか、当時高校生だった息子さんのお話だった。


 ある書き込みによれば、月坂肇博士の息子は彼の実験の被験者であった。その実験こそが「ポストマン」に関するものだという。博士は自身の息子を世界で初めてのポストマンにするつもりだったとか、実は既にしていたとか。そこから会話が展開して、自殺の原因はもしかするとその辺りにあるのではないか、とか。

 こいつらは憶測で適当なことを言っているだけだと思うけれど、火のないところに煙は立たぬという言葉もある。


 ニュース全般を取り扱うフォーラムには絶えず新しいトピックがやってくるためか、保存されているログはさほど多くなかった。わたしはもう少し専門的な内容の、モモちゃんが常駐していそうなフォーラムを探すことにする。

 果たしてそれは見つかった。


 ジャンルは科学研究や工学なんかではなくて、オカルトだった。「ポストマン研究」というそのまんまなタイトルのフォーラムに残されたログから、十年前のものを閲覧する。月坂博士が生きていたころ、そして自殺のニュースが飛び込んできた当時の書き込みはかなり賑わっていた。

 そこにはなるほど、モモちゃんの話していたようなことを大真面目に書き込んでいる人がたくさんいた。匿名の場であっても、明らかにヤバい奴っていうか、どんな形であれ強い情熱を持っている人間の書く文章というのは見ればなんとなくわかる。このフォーラムにはそういうものが割と多い。全体として、冷やかし半分というか、ポストマンなんて実現できるわけないだろと思いながら面白がっている連中と、マッドな目になっているサイエンスフリークがどちらも同じくらいの割合で存在している印象だった。


 博士の、息子を被験者とした実験についての書き込みはそんなにない。話題にする人間はいたけれど、「成果が挙がっているなら発表されていたはずだ」との指摘があってからはほとんど出てこなくなった。彼らの興味の中心はあくまで研究の行く末であってゴシップではないのだろうから、当然といえば当然だ。十年前のフォーラムに向かって、でもわたしが知りたいのはその息子さんのことなんだ、と叫んだところで詮無い話である。


 だけど一人だけ、たぶん同じ人が何度も同じことを言っているのだと思う、その後数年間に渡って断続的に、月坂博士の息子についての話題を振る人間がいた。「博士の自殺とともに消えてしまった研究成果を受け継いでいるとすれば一人息子の彼しかない」というのがその趣旨であった。博士の死を契機に、ポストマンの研究は暗礁に乗り上げてしまっている。なんとかして月坂肇の研究を引き継ぐべきではないのかと。


 それはそれで一理ある話だけれど、事件当時その息子さんは未成年だった。名前なども公表されていない。晩年の月坂博士は他の研究者との交流もほぼ断絶していたという。つまり息子が何らかの手がかりを握っていたとしても、本人が言い出さない限りそれを確かめる術はないというわけだ。

 もしかしてこの熱意あるリピーターはモモちゃんではないのか。わたしはちらりとそんなことを考えた。だとすれば、わたしは期せずして彼の本懐を遂げられるかもしれない立場にある。

 

  *

 

 次の水曜日、いつものように天橋学園のカウンセリングルームに足を運ぶわたしだったけれど、頭の中はいつものようなお花畑ではなかった。


 わたしが気にすることじゃない。きっとそう考えるのが正しい。

 ポストマンなどという怪しげな研究には大して興味もないし、そもそも十年前に自殺した工学博士とわたしのカウンセラーが関係しているとする根拠も特にない。月坂という苗字がたまたま一致しているだけかもしれない。


 でも気になるものは気になる。先生の家族のことなんて、今まで一度も聞いたことがなかった。考えようによっては、もしかするとお近づきになれるチャンスかもしれないじゃないか。不謹慎すぎるだろうか。

 もし月坂博士が先生とはまるで関係のない赤の他人だったとしても、このトピックについて先生の考えを聞くことはできる。先生のお話はいつも刺激的だ。うんうん、そんな感じ。それでいこう。


 扉をノックする頃にはわたしの脳内はほぼ平常運転に戻っていた。

 コンコンコン。

「どうぞ」と部屋の中から先生の声がする。

 

  *

 

 切り出し方には少し迷ったけど、結局ほとんど直球で「先生のお父さんって研究者だったんですか」と尋ねることにした。別にやましいことがあるわけではない。

 月坂先生は「どこでそれを?」と不思議そうな顔をしたものの、べつだん返事を濁したりすることはなく「そうだよ。帝大の工学教授だった」と頷いた。

「ネットでたまたま。昔のニュースを見て」わたしはあらかじめ用意しておいた言い訳を述べる。嘘ではない。「その……亡くなったときの」

「ああ」答える先生はほとんど無感動といった調子だった。「僕が高校生のときだった」


 これならもう少しイケるか、と踏んでわたしは言う。

「お父さんはどんな研究をされてたんですか」

「勉強熱心だね、三條君」

 先生は、あからさまに皮肉めいたことを口にした。

 わたしは、それでこの話題が先生にとって踏み込まれたくない領域なのだと直感した。


「授業に出てない分、興味のあることは自主的に勉強しておこうかと思って」反射的に、とりあえず軽口をたたく。「それに先生のルーツが知りたいんです。ダメですか」

「だったら、科学者の研究内容を赤の他人が紹介することの意味から知ってもらう必要がある」先生は落ち着き払ってそう答えた。「それは非常にデリケートな仕事だ。僕は父から正式な教育を受けたことはない。だから本当に父の研究について知りたいなら、僕なんかに訊くより彼が書いた論文を読むのが一番いい」


 わたしは逡巡した。

 先生がわざわざデリケートなんて言葉を使うからには、そこにはきっと独特の意味合いがある。彼はけっこう極端な神経質だ。自分にとって重大事と認めたものごとに対しては、ほとんど病的なまでに繊細なのである。


 科学者の研究内容を赤の他人が紹介する。

 「赤の他人」が。

 これはシビアだけど、たぶんこの文脈では正しい物言いだ。先生は月坂博士の息子ではあるけれど、お弟子さんだったわけではないのだから。

 だけど、あんまりにもシビアすぎる。だってその辺の高校生が「お父さんはどんな研究をしてたんですか」って訊いただけだ。もっと当たり障りのない説明の仕方なんかいくらでもあると思う。


 先生の真摯さ、あるいは偏執的な緻密さの表れだと見做すべきだろうか。

 それとも何か、これがまさしく自閉的コミュニケーションの特質というやつなんだろうか。

 わたしは先生の思っていること感じていること考えていることが気になる、ただそれだけなんだけれども、先生の側からするとそんな感情とかは知ったことではなくて、あくまで科学者にとっての倫理とか正しさみたいなものが大事だということなんだろうか。


 きっとどちらの解釈も間違いとは言えない気がする。モモちゃんの話を聞いてから、自閉スペクトラム症について少し調べた。素人の勝手な見立てで、良心的っぽいサイトにはこういう他人への当てはめみたいなのは一番やっちゃいけないことだと口酸っぱく書かれていたが、わたしは先生にも自閉の傾向があるのではないかと思う。

 思うだけだから許してほしい。今まで話してきた感触から、そんな気がするだけ。モモちゃんが言うように自閉傾向とポストマンの実験に関係があるのなら、被験者たりうる人物は必然的に自閉スペクトラム症でなくてはならないという事情もある。マユツバ情報のオンパレードだけど、そういう先生の性質から、今のやりとりを説明することはおそらく可能だ。


 でもそれだけではないような気もする。理由を問われれば「なんとなく」としか答えようがないんだけれど、先生の態度にはもっとごく個人的な感情が影響しているんじゃないだろうか。

 身を守るために棘が出た。ありていに言えば、わたしの勘はさっきの反応をそういうものだと告げている。


「……大学教授の論文なんて、読んだってわかりません」わたしは拗ねたように口を尖らせた。「先生、普段はもっと色々教えてくれるじゃないですか」

「父の研究とは専門が違いすぎる」と先生は首を振る。「初学者の君に、誤解なく説明できる自信がない」

 その言い分には一見、正当性がある。先生はスクールカウンセラーだ。肩書きとしては臨床心理士というやつだと言っていた。工学研究は畑違いといっていいだろう。

 けれど、モモちゃんの与太話が頭に残っている。アスペルガー症候群の特性を利用したポストマンの研究。自閉スペクトラム症をはじめとする発達障害は精神医学の領分だ。生粋の工学博士だった月坂肇が、当時はまだ共同研究者もなく、どうしてそんなテーマに行き着いた?


「むう、わかりました」わたしは胸中でうごめく疑問を押し込めて頷いた。「じゃあ、次に来るときには少し勉強しておきますから。そしたらお話してもらえますよね」

「期待しておこう」先生はそっけなく言うと窓の外に目を遣った。

 取りつく島もないとはこのことか。

 目論みは外れたと言わざるを得ない。一時撤退だ。


 考えてみれば、先生がこの話題に触れたくないとしても無理のない話だと思う。実の父親が自殺した。現代日本人が生育過程で出くわす可能性のある事件としてかなりヘヴィな部類に入るんじゃないだろうか。わたしの身に同じことが起こったらと思うと恐ろしい。いくら十年前の出来事とはいえ、愉快な気分で話すことはできないだろう。

 おまけにわたしはカウンセリングの対象だ。もしかするとプライベートな情報を話すことが何かしらのガイドラインとか職務規定に抵触するのかもしれない。知らないけど。

 と、そんな具合にあれこれ理屈をつけて自分を納得させようとするけどやっぱり腑に落ちない部分が残っている。ここには何かがある気がしてならない。わからない。思えばわたしは先生に対する興味の度合いに比してあまりに彼のことを知らなさすぎる。


「だったら先生、前回の続きを話してください」

 わたしが言うと、先生はすぐに応じた。

「コミュニケーションの話だね」

 そうだっけ、と思ったのが顔に書いてないかが心配だ。わたしは先生の「続きは次回にしようか」と「また来なさい」しか覚えていなかった。前回の続き、という言葉を聞いた瞬間に「コミュニケーションの話」が出てくる先生、恐るべし。


「コミュニケーションとは意思の伝達。だけど、そもそも伝達したい『意思』というものの実在がかなりあやふやであることがわかった。今日はその曖昧さについて話すところから始めようかと思う」こちらの内心を知ってか知らずか、先生はそんな風に話し出した。教壇に立って講義でもするみたいに、すらすらと。「何故、人の気持ちは曖昧なのか。その謎を解き明かすには、結局のところ自然界の根本的な仕組みを学ぶ必要がある。人と人がお喋りをするって話だったのにずいぶん突飛だと感じるかもしれないけれど、少し我慢して聞いてもらいたい。前回、テセウスという人の話をしたね。覚えているかな」

「船を修理してるうちに自分が誰だかわからなくなってしまうお話ですね」わたしは頷いてみせた。


「日本語を省きすぎて全く意味が変わってしまっている。が、まあ会話の大筋は記憶していると判断していいだろう。テセウスの出典はギリシャ神話なんだ。人間が世界に対して抱く根源的な疑問のほとんどが古代ギリシャで出尽くしたとさえ言われている。原子論もそうして生まれたもののひとつだ」

「原子って、水素とか炭素とかのことですか」

「実際に原子の正体が掴めたのは十八世紀になってからだね。ここでいう原子とは別物だと思ってもらったほうがいい。古代ギリシャ時代の原子論はあくまで観念的なもの。物事をどんどん分解していくと最後にはそれ以上細かくできない何かが残るという程度の考え方だ。ここで考えてみてほしいんだけど、三條君はこの原子論についてどう思う。正しいと言えるかな」


「どうって……」わたしは化学の教科書に書いてあった内容を思い出す。「原子は確かに存在するけど、それも原子核と電子からできているから『それ以上細かくできない』というのは間違い」

「高校生としては悪くない回答だ。だけどもう少し話を進めることができる。原子論が意味しているのは『物事には最小単位がある』ということ、シンプルにそれだけなんだよ。それが原子という名前で呼ばれるものであるかどうかは関係がない。もう一度訊こう。三條君はどう思う」


 言われて、今度は教科書に書かれた文字や図解じゃなくて、音を思い出した。

 声。

 軒下歌蓮の声だった。

 いわく、デジタル絵はデータである。翻って、アナログ絵はデータではない。絵がデータであるからには必ず解像度がある。

 逆説、データでない絵には、


「わかりません」

 溢れ出した記憶に蓋をするように、わたしは声をあげた。

「科学の徒として正しい回答だ」先生は何度か頷いた。「物事に最小単位はあるのか。古代ギリシャの時代から続く、たったこれだけの問いにも、未だ人間は確かな答えを返すことができない。さて、しかし科学の発展はこの問題に対して一つの興味深い視座をもたらしたと言える。その担い手は量子論という」

「あ、知ってますよ。シュレディンガーの猫」とわたしはパブロフの犬的に反応した。

「もし三條君が将来、大学に入ってSF研とかに顔を出すつもりがあるなら、その受け答えは完全にニワカだと思われるから気を付けておいたほうがいい」先生は無表情のままで言う。「一般に、何かを真面目に理解しようと思うなら、なるだけ本質をとらえる努力をすべきだ。それがたとえ、実在しない言葉の意味を求めて永遠に辞書を参照し続ける行為に等しいとしても」


 わたしは軽率な言動への反省の意を示すため、ついでに「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」の意も示すため、軽度のふくれっ面を作った。

 先生は特に気にした様子もなく続ける。わたしのほっぺたの風船がしぼむ。


「量子とは何か。英語にするとquantum、語源の意味するところはそのまま『量』だ。ならば、量とは何だろうか。量という字を訓読みにすると『はかる』になる。量る。計量だね。量子論というのは『この世界のすべては計量可能である』という前提に基づく観念の体系だと言い換えてみてもいい。少なくとも、当初はそう考えられていた」


 彼は時折こちらを窺う。聴衆の反応を確認するように。

 わたしはその度に目を合わせて小さく頷く。先生はそれを見てまた口を開く。


「計量可能であるとはどういうことか。それは特定の単位に分けて数えられるという意味だ。つまり量子論はさっきの問いに対して明確な答えを持つことになる。『最小単位は存在する』という答えをね。量子こそがその最小を意味する。……そう、それで済むなら話は簡単だった。ややこしいのは、その肝心の量子というやつがどうにも掴みどころがなくて、結局何者なのかはよくわからないってことだ」

「どうしてそんな、よくわからないものに名前がついているんですか」

「難しい質問だ。今のところ、科学がそういう風に発展してきたからとしか言いようがない。もう少し、量子本来の意味について話そう。『量れる』ということは『数えられる』ということ。そして『数えられる』ということは何を意味しているか。数を数えるには何があればいい? 答えは、あるモノが他のモノとは別個の存在として確立していること。言い換えれば、境目があるということだ」


 境目。

 こめかみの辺りに、電気ショックみたいなビリッとした痛みが走った。

 言葉をトリガーに、わたしは声を思い出す。軒下歌蓮のあの声を、思い出してしまいそうになる。

 ……駄目だ。

 それはまずい。頭を振って、意識を目の前の先生に集中しようとする。


 月坂先生はこちらを見て、怪訝そうな顔をした。

「三條君、大丈夫かい」

「すいません、ちょっとぼーっとしちゃって」眉間に手をやって少し俯く。「大丈夫です。具合が悪いとかではないから」

 先生はそのまましばらくわたしの顔を見つめていたが、やがて「そうか」と呟いた。「麦茶でも飲んで落ちつきなさい」

「ありがとうございます」言われるままに頂いた麦茶を飲むわたし。「続きをお願いします。もう平気ですから」

「気分が悪くなったらすぐ言うように」そう言って先生は眼鏡のブリッジを触った。「量子の話だ。数えられるとはどういう意味か、だったね。ここから少し具体的な話になるよ」


 目を閉じて、深く息を吸った。

 先生の声がわずかに遠のいて、すぐによく聞こえるようになった。それだけのことで、思いがけずかき乱された気持ちが落ち着いていく。


「黒体放射という現象がある。

 黒いものは光や熱を吸収するというのは小学校で習っただろう。例えば夏場に外へ出ると、我々の黒い髪の毛はすぐに熱くなるね。

 こういう、熱や光を吸収しやすい黒色の性質を極限まで持ち合わせたものが『黒体』と呼ばれる。そして、この黒体から熱や光が放射される現象が黒体放射だ。

 黒体放射によって発せられる光の色は黒体の温度によって変化する。炎なんかと同じで、低い温度のときは赤っぽく、熱くなればなるほど青白くなっていく。

 この黒体放射のスペクトル、色相変化のグラデーションに関する定式化を行ったのがマックス・プランク博士だ。量子力学の骨子となる考え方は、一見すると世界の最小単位なんてものとはあまり関係のなさそうなこの研究から、ほとんど偶然に生まれたと言って差し支えない」


 黒体放射のスペクトル。

 色相変化のグラデーション。

 モモちゃんの演説が思い浮かんだ。自閉スペクトラム症のスペクトラムは、連続体という意味だ。


「博士が発見したのは、黒体放射という現象を従来のものよりも的確に説明する方程式だった。その過程で副産物として現れたのが、エネルギー量子仮説だ。これによれば、波動のエネルギー量は常に振動数の整数倍の値をとる。そして、後にこの事実が証明されたことこそ、量子論の根底を支える基盤となった」

「ちんぷんかんぷんです」わたしはまっすぐに右手を挙げた。

「わからないときにわからないと言えるのは、生徒としても科学者としても素晴らしい資質だ」先生は少し楽しそうな声になった。「ここで元々の問題に戻ろうか。なぜ量子などというものが取り沙汰されて、こんな名前をつけられたのか。このことは、まずアインシュタインという人物の功績に、とても深い関係がある」

「あ、知ってますよ。相対性理論」わたしはまたしても条件反射。

「君はどうやら、少しばかり現代日本の一問一答式教育というやつに毒されすぎている」と先生は笑った。

 どう考えても好意的な意味の笑いではなかったけれど、嬉しくなってしまうのだから救いようがない。


「アルベルト・アインシュタインはもちろんノーベル物理学賞の受賞歴があるけれど、そのときの研究テーマはかの有名な相対性理論ではない。彼は光電効果の研究でノーベル賞をとった。

 具体的な研究内容については省略するが、ここでアインシュタインが明らかにしたのは、光は粒子であると同時に波動でもあるかのように振る舞うという事実だ。

 まずは粒子と波動について説明しよう。

 ざっくり言ってしまえば、粒子は物体を構成する単位だ。原子も電子も粒子の一種といえる。他と切り離して観測できるし、存在している位置を特定できる。

 対して波動とは流れであり、動きだ。波の存在は常に揺れている。それは時間の流れに伴う変化の過程だから、他との関係を抜きにしては捉えられない。ここまでは大丈夫?」

「な、なんとか」わたしは文字通りなんとか答える。正直なところ、わからないかどうかがわからない。「質問できそうなところがあったら質問します」


「いいだろう。それまで、異論はあれど光は波の一種だというのが大勢の見方だった。

 それを完全に覆すきっかけを齎したのがアインシュタインだ。彼は光の性質に対してプランクの法則を応用することを思いついたんだ。

 古典物理学の世界において、エネルギーは連続量だった。途切れがなくて、本質的に数えることができないもの。粒子か波動でいえば波動だ。だがプランクの立てたエネルギー量子仮説はその常識を覆すポテンシャルを持っていた。エネルギーも、結局は細かく分解して数えられるということがわかったんだ。ならば光にも同じことが言えるんじゃないか、アインシュタインはそう考えたわけだね。

 果たしてそれは正しかった。以前は連続量アナログとみなされていた光波が、離散的デジタルな、計量可能な光子として認識できるようになった。量子化だ。

 こうして量子力学が始まった。量子論とは『この世界のすべては計量可能』とする前提に立つ観念体系だと言ったが、実は同時にまったく逆のことをも意味している。

 計量可能であるということは、粒子であるということだ。だがエネルギーと光だけじゃなく、すべてのものが粒子としての性質を持つと同時に、波動のようでもあるということが次第に明らかになっていった。

 例えば同じ光が、観測の仕方によって、粒子として振舞ったり波動として振舞ったりする」


「……ごめんなさい全然わかりません。ギブです、ギブギブ」漫画だったらわたしの両目はぐるぐるマークになっていたと思う。「だいたい、先生らしくないですよ。言ってることが完全に矛盾してます」

「優秀な生徒を持てて光栄だ」

 先生はにこりともせずに言った。


「確かに、僕の説明は一見すると矛盾している。

 結局、世界は計量できるのか、できないのか。世界を形作っているものは『どこか決まった場所に存在する』のか『波のように広がっている』のか。

 この問いに対して量子論が与える答えは、つまるところ『どちらともいえる』というものだ。

 粒子と波動のように矛盾する性質を同時に持ち合わせ、その両方をもってしか正しい姿を捉えられないような状態のことを、ボーアという科学者は相補性と名付けた。両者が矛盾しているというのは人間の勝手な思い込みに過ぎない。だって現に世界はそのように在るのだから、というわけだ。

 三條君が理解できないのも無理はないよ、安心していい。何しろ、粒子であって波動でもあるという状態が何を意味しているのか、これを直感的に理解できる人間はこの地上のどこにも存在しないんだからね。

 これが人類科学の到達点だ。アインシュタインがへそを曲げるのも無理はない」


 そこでわたしは、はたと気が付く。

 先生の語調に含まれた否定的な、もしくはそう、ある種の挑戦的なニュアンスに。

 それを自覚することで、さきほどから喉元に引っかかっている違和感のようなものが何であるかもおぼろげにわかった。


 月坂先生は続ける。

「科学は観測を基盤にして発展を遂げてきた。

 これ自体は理にかなったことだ。目に見えないもの、実在するかどうかもわからないものの上に立って何を考えたところで、それが現実の世界と関係している保証はどこにもないからね。

 だけど、ひとつ多くの人が誤解しているように思える点がある。人間が観測結果を参照するのは、他に現実との接点がないからだ。それ以上でも以下でもない。

 『目に見えるものだけが真実だ』という考え方は、便宜的には有効であっても、必ずしも正しいとは言い切れない。現に僕たちは、世界をあるがままに見ようとし、物事を突き詰めて考えようとすればするほどに、何がなんだかわからなくなって途方に暮れてしまう」


 わたしは小さくゆっくりと頷いた。

 やっぱりそうだ、と思う。

 先生の言うことはモモちゃんに似ている。

 話し方や考え方が似ているというのではない。先生の話はいつも通り精密で、変に屁理屈じみてはいない。

 近いと感じるのは、もっと根っこの部分にあるものだ。いや、「もの」ではないのかもしれない。

 存在ではなく、動き。

 粒子ではなく、波動か。


「言語によるコミュニケーションが抱える問題は、人が量子論の世界観を理解することの困難と根を同じくする。どちらも認識が桎梏しっこくになっている。

 そもそも、気持ちを言葉にするというプロセス自体が量子化の概念と酷似しているんだ。自分の中にしかないはずのとてもぼんやりした何かを、他者と共有できる、計量可能な言葉ものに変換するというわけだね」

 先生は、続ける。

「言葉というのは、言ってみればコミュニケーションの粒子だ。発せられた言葉は意味を量子化する。話したことが、その人間の意思として扱われる。

 あまりにも不自由で、不正確なことだけれど、我々はそれ以外の方法で意味を扱うことができない。ハードウェアの制約があるからだ」


「聞いていると、先生の専門が何なのかわからなくなってくるお話ですね」わたしは麦茶を一口だけ飲んだ。「でも先生、言葉が粒子だというのなら、気持ちを言葉にするために考えることが量子化だというのなら、気持ちは波動ではないんですか」

「ふむ」先生は腕組みをした。

「人が話をするときに伝えるのは、言葉の意味だけじゃないと思います」声が少し震える気がした。「波が触れ合えば動きが伝わるみたいに、気持ちも伝わることがあってもおかしくないですね」

「三條君は面白いことを言う」

「わたしからすれば、先生の方が面白いです。いつも」


 言って笑おうとする。上手くいったかどうか、わからない。

 間違いないと思う。確かな根拠はない。だけど確信した。

 先生は、モモちゃんと同じ志を持っている。おそらく、彼にとっては亡き父である月坂肇博士の研究を受け継いでいる。

 だとしたら。だとしたら、何がどうなるんだろうか。先生は父の研究について訊かれることを嫌ったように見えた。もし先生が父の遺志を継いで研究を進めていたとしても、大っぴらに成果を発表したりはしていないだろう。そんなことがあれば好事家たちの話題に上っているはずだ。


 わたしはまたしてもモモちゃんの言葉を思い出す。博士は死を選んだ。何かあったんだろう。死にたくなるような何かが……。

 先生の顔を見る。彼もそんな呪いを抱えたまま生きているのだろうか。少し頬が緩んでいるようにも見える。


 可愛い。

 やがて訝るように眉をひそめて軽く首を傾げる。

 可愛すぎる。


「先生」とわたしは言った。

「ん」

「好きです」

「その言葉は量子化の最たるものだね」と先生は言った。

 心なしか、早口になったような気がした。

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