1-3. 適者生存に対するアンチテーゼ

 

  3

 

 三條日奈子わたしは母が嫌いだった。


 いつからそうだったかは、自分でもよくわからない。母親のことを好きだった時期というものを思い出すことができないから、きっと物心ついたときにはもう嫌いだったんだろう。


 何故と訊かれれば、理由を説明するのは簡単。

 母はだらしのない人間で、おまけに頭が悪かった。

 わたし達が暮らしているマンションには、いつも誰かしら知らない男の人が遊びにきていた。母はそれを『お友達』と呼んだ。仕事で家を空けがちな父には、そのお友達のことは喋らないようにと教えられた。


 馬鹿馬鹿しい話だと思う。

 彼女はわたしをいつまで騙しておけると考えたのだろうか。やるならせめてもっと上手くやってほしかった。男と会う間はどこかに預けておくとか、他にいくらでもやりようはあっただろうに。


 だけどもっと馬鹿馬鹿しいのは、小学校にあがって少しばかり知恵をつけたわたしが、母の不貞を父に打ち明けたときのことだ。


 母がしているのは、いけないことだった。

 それは父への裏切りであり、許されるべきことではなかった。

 だからわたしの母は、父によって裁かれなくてはならないと考えた。幼きわたしは拙い正義感を胸に抱き、なけなしの勇気を振り絞った。


 滅多に会うことすら叶わない父は、わたしの訴えを聞き届け、それまで見たこともないくらい悲しそうな顔をした。

 そして、低い声でこう言った。

「どうしてそんな嘘をつく?」


 わたしは、たぶん戸惑ったのだ。

 それは、答えられない質問だったから。正解のない問題だったから。

 わたしは、嘘をついたつもりなどなかったのだから。

 何を言えばいいのかわからなくて、「ごめんなさい」と、父を悲しませてしまったことに対する謝罪の言葉を口にした。

 父は穏やかに、けれど真剣にわたしを諫めた。


 本当に、馬鹿馬鹿しい話だと思う。

 母もわたしも、それに父も、どうしようもなく愚かで救いようがない。

 結局、わたしの両親はその後も変わらなかった。母は父を裏切り続け、父はそんな母を信じ続けた。わたしは高校生になった。


 高校生になったわたしは思う。わたしは選ばれなかったのだ、と。

 わたしは父に選ばれなかった。

 父はわたしを選ばなかった。父は、わたしよりも母を選んだのだ。

 事実を訴えるわたしよりも。

 嘘をつく母親を選んだ。

 迷いなく。


 だから、わたしは母が嫌いだった。

 不実を働きながら、わたしを差し置いて父に選ばれ、愛される母が憎くて仕方がなかった。

 でも、それだけじゃない。わたしが心の底で抱くようになった思いは、母に対する侮蔑とかあるいは嫉妬とか、そういうはっきりした形があるものだけではない。もっと曖昧で、空気みたいにありふれていて、だけど堪えようもなく不愉快な何かだった。


 それを敢えて言葉にするなら、こういうことなんだと思う。

 この世界は、何かが、おかしいのではないか。

 

『いや、おかしいのはお前のパピーだろう』


 液晶画面に映し出されたレスポンスを読んでしばし絶句した。感傷に冷や水をぶっかける、簡潔にして的確なツッコミだった。

 だが、残念なことにわざわざ言われなくてもわかっている。わたしのパパはちょっとおかしい。何しろ人を疑うことを知らないし、たぶん誰かの気持ちを想像するという機能もろくに持ってない。あれで大きな会社の偉い人なのだというから驚きだ。


 それはさておき。

 わたしがカウンセリングから帰ったあとにこうして利用しているのは匿名オンラインセッションインタフェース、deracineデラシネ。正真正銘、一期一会のお喋りの場。

 インターネット上の交友関係が仮想バーチャルであった時代はとうの昔に終わりを告げ、人々がSNS疲れという言葉にも懐かしさを覚えるようになった頃にひっそりと登場した、現代の懺悔室。


 端末モバ越しにメッセージのやりとりをしているのは、そこでマッチングした誰とも知れない他人だった。

 今回の相手は一人だけ。年齢不詳。自称、男性。


『うるさい殺すぞ』

 ピコ。送信。愛くるしいうさぎのアイコンが、リアルのわたしは絶対に口にしないような汚い罵り言葉を吐く。


『いきなりキレるなよ、ファザコン』

 相手のアバターはどぎついピンク色をしたテディベアだ。他人のことはとやかく言えないが、喋らなければ可愛いのにと思う。


『私のこの尊い気持ちをファザコンなどという軽薄な言葉で表現しようとするんじゃない』

『それ言ってて恥ずかしくないの?』

『黙れ』


 まさに売り言葉に買い言葉だ。品のいい人たちが見たら眉を顰めそうなやりとりだった。なら当のわたしはというと、自室のベッドの上で端末片手にへらへら笑っている。

 これに本気で腹を立てるような人は、このわかばチャンネルに接続してはいけない。

 セッション開始時に選んだチャンネルのIDによって大まかな話題やら客層の住み分け、ゾーニングがされているのだ。そんな中、「わかば」は要するになんでもありで、言ってしまえば民度最悪の掃き溜めだった。

 とはいえ運営者によって明確に用途が指定されているわけではないので、たまに不文律を知らずに入ってきては暴言を吐かれてマジギレする人が出たりもするのだけど。


『どうせお前はファザコンだから、パピーはマミーのことを愛しているがゆえにあんなことを言ったんだとか思ってるんだろう。でも我が子の訴えを証拠もなく嘘だと決めつけるのは、配偶者を愛してるとか愛してないってのとは関係なく問題があるからね』

『お前にパパの何がわかるんだよ』

『人の話を聞けよ。誰もわかるなんて言ってないだろファザコン。内心ではなく挙動の話だ。お前のスイートパピーを貶したくて言ってるわけでもない』

『人んちの親を愛玩動物みたいな名前で呼ぶな』

『いちいち言葉尻に突っかかるんじゃねーよ。ガキかお前は。その話を聞いてほしくて来たんだろうが』

『ガキで悪いか。話をしにきたのは確かだけど、パパの悪口を言っていいとは一言も言ってないだろ』


 相手は少し押し黙る。テディベアの横っちょにある吹き出しが『……』と沈黙を表現している。このモーションが意味するのは、今まさに相手が返事を書いている最中だってことだ。


『悪かった』とやがてテディベアは言った。『繰り返すが別にパピーの悪口を言いたかったわけじゃない。だけどそういう場合にお前が大事にすべきなのは、パパが悪くないってことなんかより自分自身の気持ちの方だ』


 返ってきたのがなんだか殊勝な言葉だったので戸惑う。なにせここはわかばチャンネルなのだ。喧嘩みたいなやりとりがヒートアップしてそのまま物別れになることだって珍しくない。気に入らない相手とは一方的な意思で即座にセッションを切ってしまえるのがデラシネのいいところである。

 売り言葉に買い言葉で口論になると、わたしが意地を張っているうちに呆れた相手が去っていくことが多いのだけど。


『自分の気持ちって何だよ。パパはママに騙されてアホかもしれないけど悪くはない。それが私の気持ちだけど』

『違うね。大好きなパパに信じてもらえなかった。自分の価値はママより劣っている。つらい。それがお前の気持ちだろう。世の中がどうこうよりも、根本にあるのは自己の無価値感だよ。親に愛してもらえなかった子供ってのは、大体そうなんだ』


 今度はわたしが黙り込む番だった。

 売り言葉に買い言葉の続きで「ハア? 統計だか学問だか知らないけどそうやって他人のことを親に大事にされなかった子供とか決めつけるのって人として完全に終わってるからさっさと死ね」みたいなことを言っても別にいい。それはそれで本心だ。こいつの物言いはめちゃくちゃ腹が立つ。わたしの部屋に置いてあるテディベアがこんなことを喋り出したら思わず壁に向かって投げつけてしまうかもしれない。


 だけど、さっきの沈黙と謝罪に彼なりの誠意みたいなものを感じたのも事実だった。少なくとも、こいつはただ相手を傷つけるためだけに空っぽの罵詈雑言を投げてくる悪意あるクマではない。わたしはとりあえず、そう信じることにした。


『あんた何者?』相手の言葉に素直に応じるのも癪だったから、そう訊いてみる。

『見てわからないかな。桃色のクマさんだよ』

『答える気がないってこと』

『デラシネで他人のことを積極的に知りたがるのはご法度だ』

『好きこのんでわかばなんか来てるくせに妙なとこで常識人ぶってんじゃねぇよ。答えたくないなら答えたくないでいい』

『お前だって別に僕の名前とか住所とか学籍番号が知りたいわけじゃないだろう。何者、ってだけじゃあ何を答えたらいいのかわからないんだ。質問が曖昧なんだよボゲ』


 いちいち煽りを入れてくるからつい喧嘩腰で返事をしそうになるが、言ってることは屁理屈なりに正論と思えた。わたしは一呼吸おいてから文字を入力する。


『あんたは何を話しに来たの』

『やればできるじゃないか』桃色のクマさんが偉そうな口を利いた。『僕はポストの話をしにきたんだよ』

『ポストってあの赤いポスト?』

『違う。いや、ある意味違わないかもしれないが。まさかお前、モモちゃんを知らんのか』

『知ってるよ。ミヒャエル・エンデ』

『おい、天然かどうか判断しづらいボケ殺しはよせ。マジで知らないのかよ。これがジェネレーションギャップか』


『よくわかんないけど、結局そのポストって何』

『ポストマンだ』ピンクのクマ、あらためモモちゃんは言った。『僕は立派なポストマンになりたいと思ってる』

『郵便配達がやりたいってこと? いいじゃんやれば。あの赤いバイクいいよね。私も好き』

『ちっげーよ、勝手に話を進めるな。このポストは接頭辞だ。これが頭についた言葉は、後ろとか後のって意味になる。例えば午後のことをPMって言ったりするだろう。このPがポストの略。Post Meridiemで昼の後、つまり午後だ』

『だったらポストマンは……何。男の後? 意味わかんないけど』


『後期人類。とか言ったりするな』モモちゃんはもったいつけたようにゆっくり喋った。『お前が知らないのは無理もない。研究の題材としてはマイナーもいいところだ』

 と訳知り顔っぽく言われても、わたしには話が見えてこない。

 ぽちりとエモートスタンプを送信すると、うさぎのアバターが『???』とわざとらしいクエスチョンを浮かべた。


『進化って言葉くらいは知ってるだろ。我々人類はいつ、どこから生まれてきたのか。かつてはその問いに答えるために全知全能の神という考え方が用いられた。それに対して幾らか洗練された、現実世界の在り方に沿った説明の方法として編み出されたのが進化論というやつだ』

『ダーウィンくらいなら知ってるよ。ってことは何、もしかして人類が進化するとかそういう話?』

『察しがいいな』モモちゃんは満足げに言った。『ポストマン、すなわち進化した人類。僕はそれになりたい』


 なんだそりゃ。

 言っているのがピンク色のクマさんでなければ多少はシリアスに受け止められたのかもしれないけど。


『あんたこそゲームのやりすぎで、進化って言葉についてちゃんと知らないんじゃないの。現実の生き物は集めた素材を合成して進化するわけじゃないでしょ。学校で習わなかった? 進化の基本は突然変異と、自然淘汰。つまり、それは一世代で起こるものじゃない。あんたが人間として生まれたんなら、生きたまま進化した人類になるなんてのは土台、無理な話だよ』

『まずは進化の定義からだ』モモちゃんは喜びを表現すると思しき謎のエモートを差しはさんだ。『お前が今言った通り、元来、進化の基本は変異と淘汰だ。じゃあ、そもそもどうして進化は起きるのか。一般的には生物種の存続のため、環境に適応することが進化の目的だと説明される。でも、それだったらこう定義することもできるだろ。生物が適応のために自己を変容させていく過程が進化であると』

『あんたって屁理屈大好きだね』

『褒め言葉だと思っておく。さて、それじゃ人間にとって進化ってのは何か。さっきは環境への適応がその目的だといった。だがマクロな観点からすれば、人類はこれまでの歴史において、自らが適応するというよりもむしろ環境の側を変え、適応させてきたと言っていい。人類史なんてのは人類による自然破壊の歴史の略だという話もある』


 なんだか思わぬ方向へトークが転がっていく。わたしは半ばヤケになって相槌のスタンプを打った。「ほうほう、それでそれで」

『進化が適応の過程であるとするならば、その前提には不適応がある』と、モモちゃんはここで少しためを作った。気がした。『アスペルガー症候群を知ってるか?』

『アスペでしょ。言葉は知ってるよ。お前アスペかよとか言ってる奴がよくいる。でも意味は正直よく知らない。空気読めない奴ってくらい』

『そうか。僕は医者からアスペルガー症候群の診断を受けてるんだが』

『あんた別に普通じゃん』

『デラシネで話してる分にはな。ここだったら自分から言いふらさない限り、誰にも何も言われない自信はある。だけど僕だって好きでわざわざ診断を受けたわけじゃない。生きてくのに困ったから心の病院へ行くはめになって、そこでお前はうつだなんだという以前に発達障害だと言われた』


 あまり明るくない分野だけれど、これがそれなりにヘヴィな話題の入り口だということはわたしにもわかった。

 こういうときにエモートスタンプは便利だ。話を聞いていることをアピールしながらも、自分の言葉を発せずに済む。「ほうほう、それでそれで」


『アスペというのは古い呼称で、今は正式には使われていない。アスペルガー症候群と呼ばれていたものは、今では自閉スペクトラム症の一部であるとされている。自閉。これがどういうものなのかを説明するのは実をいうと難しいが、大まかには……

 一.社会性や対人関係の問題

 二.コミュニケーションおよび言語発達の問題

 三.行動や興味の偏り

 といった特徴から説明されるようだ。診断には一定の基準があって、検査の結果がこれをクリアしたとみなされれば晴れて自閉スペクトラム症者の仲間入りを果たすことになる』

『アスペとその自閉なんたらっていうのは何が違うの』

『包含関係だ。旧アスペルガー症候群は自閉スペクトラム症の部分集合。ざっくり言ってしまうと、自閉症の中で知能テストの結果に問題のない人がアスペであるとされていた』


「なるほど!」と飛び跳ねるうさぎのスタンプ。

『人間は自分たちが過ごしやすいように環境を作り変え、発展した社会を生み出した。……結果として適応できなくなった者は、変化しなければ淘汰されていく。自閉スペクトラム症はいってみれば社会という環境に適応できないがために「障害」とみなされる』

『話が回りくどい』わたしは率直に言った。『つまり自分はアスペで社会に適応できないからなんとかしたいってこと?』


『落ちつけ、結論に飛びつくな。回りくどいのはまだまだ序の口だ。人類は自然界に干渉するために何をしてきたと思う?』

『何それ。農業とか』

『当たらずとも遠からず。答えは科学だ。この言葉には様々な歴史的学問的背景があって本来ならばこんな簡単な使い方をすべきじゃないが、ここでは要するに世界で起こっている様々な出来事について、その因果を究明せんとする営為をひっくるめて科学と呼ぶ』

「ほうほう、それでそれで」。


『人間は持ち前の探求心でもって物事の成り立ちを知り、それを応用することで世界を改造してきた。ところで、いわゆる天才的な科学者の中には自閉スペクトラム症の兆候を見せる者が少なくないことを知っているか』

『うーん、なんとなくは』とわたしはぼんやり答えた。本当になんとなくしか知らない。きっとサヴァン症候群とか、そういうものをイメージしておけばいいのだろう。

『それもそのはずだ。

 そもそも自閉スペクトラム症の人間が抱える社会性の問題とは、僕の考えるところでは興味関心を抱く対象や強度がずれているということになる。

 自閉的でない多くの人にとっては気持ちが大事だといわれる。だから他人の気持ちもなるべく尊重しようとする。一方、科学というのはそんな人間の気持ちとはおよそ関係のない話だ。

 学者が自説を擁護するためにいくら聴衆の感情に訴えかける演説をぶったところで、実験結果に裏切られたら意味がない。相手に気を遣って論文の内容に対するまともな批判もできないなんてのも困るだろう。

 その点、他人の気持ちを勘定に入れずに動ける人間なら問題がない。おまけに自閉スペクトラム症には元来拘りの強い性質がある。つまり客観的世界における特定の事象をひたすらに突き詰めていく科学者という職業に対して、彼らの一部は明らかな適性を示す』

 で、結局何が言いたいんだ。

 思わずそう言いたくなるのを我慢して、わたしはまた促しのエモートをポチった。


『悪いがまだ話は迂回する。今度は科学の発展についてだ』

 わたしの退屈を見透かしたかのようにモモちゃんは言った。

『注目すべきは理論物理学だ。理由は簡単、世界を成立させ動かしている根本的な原理に最も近いところにある学問だから。

 だがはっきり言って、現在この分野は未だかつてないほどの停滞を見せている。相対性理論と量子力学を統合する万物の理論と目された超弦理論は、もう数十年にわたってこれといった成果を挙げられていない。

 何故か。原因ははっきりしてる。観測の限界だ。

 科学の方法は客観的事実に基づく。逆にいえば、客観的でないもの、観測できないものについていくら考え論じたところで話が建設的な方向に進むことなどない。理論物理学が扱うべき問題は、物事を突き詰めた結果とんでもなくミクロな世界の話になって、とっくに人間の認識できる範囲を超えてしまっているんだ。

 一握りの化け物じみた天才が異常な発想力によってその範疇をいくらか踏み越えてしまったことはあっても、それはあくまでイレギュラーで、科学の継続的な発展に寄与しない。例えば量子力学の黎明期における巨匠、ポール・ディラックですら晩年にはこう述べるに至っている。「私の人生は失敗だった」と』


『それって、研究に行き詰まっちゃったから?』

『つまりはそういうことだ。量子力学は、アインシュタインの相対性理論がうまく扱えないような極めて微小な世界の出来事を記述するのに役に立つ。シュレディンガーの猫だの二重スリット実験だの、一見すると人間の直感に反している少し不思議な話が多いから、SFのお話を作るときにも役に立つ。だが真に偉大なる科学者たちが本当に知りたいはずのこと、すなわちこの世界の真理。これを解き明かすためのツールとしては、結局のところあまりに不完全だった』


 アインシュタインの相対性理論。シュレディンガーの猫。

 なんだか聞いたことのあるような言葉が出てきたけれど、彼にとってそこはさほど重要ではないらしい。わたしはまたしても言葉を考えることをサボってスタンプを送信する。


『さて、ここまでの話で実は「適応」という用語が二つの意味で使われていたことに気付いたか?

 ひとつは人類の自然に対する適応、ないし自然環境を変化させ人類に適応させること。

 そしてもうひとつは、人類が作り上げた社会に対する、個人の適応だ。

 既に話したように、自閉スペクトラム症の傾向をもつ人間は科学に対する適性を示すことがある。だが一方で、いわゆる社会生活には困難をきたす場合も多い。

 高度に発達した文明を作り上げるためには彼らの力が役に立つが、実際に出来上がった人間社会で生きていくのに彼らは向いていないというわけだ。勝手な言い分に思えるが、残念ながら事実だと思う』


 わたしは何を言っていいかわからない。モモちゃんは勝手に喋り続ける。


『発達障害という言葉がある。まあ要するに、人間社会への適応が上手くいっていない人々の総称だ。

 そのせいで、日々を生きることにも苦しんでいる人が大勢いる。症状によっては薬を飲んで治療しようという向きもある。

 だがここまで述べたような観点からすれば、これは病気というよりもむしろ進化の枝分かれとでも言うべき事象だと僕は考える。重篤な自閉症も、一種の変異と考えれば理解しやすい。

 人類のうちの一部は、科学に、この世の在り方を解き明かす営みに奉仕する方向へ進化を遂げた。そして残った者たちはその恩恵をうけて発展する社会に適応する道を選ぶというわけだ。

 ずいぶん長くなったが、これで話の筋はわかっただろ。

 ポストマンは前者の系譜、科学に邁進する存在としての人類のさらなる進化を目指す。今のままでは世界の真理を解き明かすことはできないからだ。どうにかして、認識の範囲を拡張しなくてはならない』


『屁理屈の権化かおのれは』

『そう思うだろ。だがこういうことを考えているのは僕だけじゃない。その証拠に研究が既に始まっている。ポストマン。後期人類。一口に言っても様々な研究の方向性がありえるが、方法論は概ね一致している。人間と機械の融合だ』

「ほうほう、それでそれで」をまたポチ。


『人工知能技術の発展が叫ばれて久しい。AIが人間の能力を凌駕するシンギュラリティ到来の日も近いと予言する者もいる。

 だがポストマンの研究者は少しばかり違った発想をする。コンピュータの知能を人間に近づけるのではなく、人間をコンピュータの方に寄せるってわけだ。

 現在、脳で行われている処理をコピーし、あらかじめ作成された機械の身体にインストールする。これによって人類が得られるメリットは計り知れない。現在の人間には備わっていない感覚を拡張することだって不可能ではないだろう』

『正直、御伽噺か何かにしか思えないんだけど』とわたしは言った。『そんなこと、本当にできるの』


『できるんだ』とモモちゃんはすぐに言った。『アスペなら』

『人間を機械にするってこととアスペに何か関係が?』

『僕にもはっきりしたことはわからない。

 おそらく自閉スペクトラム症なるものの本質に関わりのある話だ。どうやら脳の機能に何らかの問題があることはわかっている。だが明確に「自閉とはこれこれこういうメカニズムで生ずる障害です」と断定することは今のところ誰にもできない。

 スペクトラム。日本語に訳すと連続体という意味だ。

 グラデーションのように、自閉傾向の強弱が分布している。さっき言った診断基準がそのまま自閉的なものの特徴とされる。社会性がない。コミュニケーションが苦手。興味関心が偏っている。

 では、これらの傾向は一体何に起因しているのか。さっきも言ったが、ひとつの進化の方向性のようなものだと僕は考えている。その点にこそポストマンのカギがある。そして、できることならその研究を引き継ぎたいとも』

『引き継ぐ?』

『そうだ』言って、モモちゃんは泣き顔のエモートを送ってきた。『ポストマン研究の第一人者、僕の尊敬する科学者だった月坂はじめは、既にこの世を去っている』


 わたしは思わず端末を落とした。

 端末は寝そべっていたベッドの縁にぶつかり、べたんと音を立ててフローリングの床に着地した。


 月坂。


 まさか、こんなところでその名前を聞くとは思わなかった。

 それなりに意を決して自分なりに重たい悩みを打ち明けにきたはずが、こんな話を聞かされる羽目になろうとは。

 いやいや、でも、落ち着け。先生の名前は月坂しゅんだ。肇じゃない。それにスクールカウンセラーであって博士とかじゃない。

 そもそも彼は生きているではないか。勝手に殺してはいけない。

 わたしは何故か少し震える手で端末を拾い上げた。


『その先生が亡くなったのはいつ頃』

『十年前だよ。自殺だったと言われている。彼が提唱していた、アスペルガー症候群の特性を利用したポストマン研究の成果はその際にあらかた消滅してしまった。今、研究が下火になっているのはそのせいだ。月坂博士は一説によれば臨床試験の段階にまで達していたといわれている。月坂肇の死から十年が経ってなお、現代の学者は当時の彼に追いつくことさえできていないことになる』


「自殺」

 わたしは端末の前でぼんやりと呟いた。

『どうして自殺なんか?』


『さあね。ポストマンの技術が完成すれば、あるいは不老不死だって夢ではなかったかもしれない。そういう研究の途上で彼は自死を選んだ。何かあったんだろう、死にたくなるような何かが。せめて遺書の一つも書いておいてくれればよかったのにな』

『そんな呪われた研究みたいなのに手を出したいわけ』

 モモちゃんのことが心配というわけではなかったが、単純に気味の悪い話だと思ったのでそう訊いた。

『フグを安心して食えるようになるまでに何人の人間が死んだと思う?』モモちゃんは嘯いた。『ポストマンが本当に実現すれば、世界のすべてが根本から変わるんだ。僕一人の命くらい惜しんだところで何になる』


 自己の無価値感。

 唐突に、モモちゃんのさっき発した言葉が頭の中でリフレインする。

 わたしはそれでつい余計なことを言いそうになったけど、やめた。


 デラシネという言葉の意味は日本語にすると「根無し草」だ。そこから転じて放浪者、あるいは故郷をなくした者を指す。

 思いがけず話し込んでしまったけれど、所詮は行きずりの他人だ。わたしが父を悪く言われたくないのと同じで、彼の方にも踏み込まれたくない事情というものがあるだろう。


『その博士って家族はいなかったの?』

 代わりにわたしはさっきから気になっていたことの方を訊ねることにした。

『いたよ』モモちゃんは肯定のエモートスタンプと共に言った。『奥さんも息子もいた。当時はちょっとニュースになったから、事件のことは今でも調べようと思えば調べられる』


「へー、そーなんだー」どうでもよさそうな相槌を打つうさぎちゃんスタンプ。


 実際は全くどうでもよくないんだけど、ここから先は自分で調べることに決めた。

 モモちゃんとはその後もしばらく雑談をした。話せるヤツだった。別れはそれなりに惜しかったけど、特に連絡先の交換なんかはしなかった。

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