1-2. 空の色、海の色

 

  2

 

 わたしが放課後、なんとなく思い立って美術室に立ち寄ったのは、以前クラスメートの軒下のきした歌蓮かれんから言われたことが頭に残っていたせいだったと思う。

 

  *

 

「三條さんってさ、きっと絵とか向いてると思うんだよね」

「……えっ、そう?」

「わたしは何でも出来ますけど?って顔に書いてあるけど。そーいうのとはちょっと違くて」

「書いてない書いてない」

「絵ってまじめにやってみると面白くてね。ものの見方なんかにもけっこう影響したりするんだよ。あたしが描くからそう思うだけかもしんないけどね」

「……そういうものなんだ」

「あ。どうでもいいって顔に書いてある」

「書いてない書いてない」

「ま、気が向いたら美術部見においでよ。多分、面白いって思うから」

 

  *

 

 美術室へ近づくにつれて、油絵具や木材なんかの色んな香りが混ざり合って鼻をついた。授業でやってくるときと違って、放課後の校内はたまに吹奏楽部のラッパなんかが聞こえる以外はおおむね静かだ。そのせいかいつもは珍しいばかりの独特な匂いにも不思議と落ち着きみたいなものを感じて、深く息を吸い込んでみたくなる。


 スライド式のドアを開けて中に入ると、傾きかけた日差しが目に飛び込んできた。

 西日の明るさに少し驚いてぼんやりしていると、画板越しにこちらに気づいた軒下が立ち上がって声をかけてくる。

「おお、三條さんだ」

「眩しいね」とわたしは目をぱちくりさせた。

「ちょっとね。慣れればなんてことないよ」

 窓から差し込む光で、部屋全体が夕焼けの色に染まっていた。何人かの生徒が、各々のキャンバスに向かって筆を動かしたり動かさなかったりしている。


「いらっしゃいませ。ホントに来てくれるとはね」

「邪魔じゃなかったらいいけど」

「大丈夫大丈夫」軒下は元いた椅子に腰掛けながら、あははと軽快な笑い声を上げた。「皆、普段からお喋りばっかりしてるし」

 彼女の言葉に他の部員たちは曖昧に頷いたり頷かなかったり。でも、実際キャンバスの前に座っているだけで顔はそっぽを向いている子なんかもいるので、まるっきり方便というわけでもないんだろう。


「軒下さんの絵、見てもいいの?」わたしは一応そう訊いてみる。

「どうぞどうぞ」軒下は手を振った。

「じゃ、お言葉に甘えて」

 キャンバスに回り込んでみると、最初に目についたのは女の子だった。

 麦わら帽子に白のサマードレスを着た、首のあたりで切り揃えた黒髪の女の子だ。こちらに背を向けて手を後ろで組み、僅かに振り返っている。やや抽象的なタッチで表情までははっきりしないが、シチュエーションや雰囲気は十分に掴むことができた。

 女の子が立っているのはアスファルト。その両脇に鮮やかな緑色の田んぼが広がって、そのまま視線を上へやると空と地面の境目には木々が生い茂っている。

 それから空だ。空が妙な色をしていた。


「どうして、空がこんなにカラフルなの」わたしは思ったままを口にした。

「ああ、最初は普通に青くしようと思ったんだけど」軒下は少し困ったように眉尻を下げた。「それだとなんかつまんないなって」

「点描っていうんだっけ、こういうの。面白い塗り方だね」

「厳密にはちょっと違うけどね。でも似たようなもの」と軒下。「なんとなく、虹を描きたくなってさ」


 彼女のキャンバスに描かれた空は、水彩絵具の斑模様で様々な色を内包していた。全体をぼんやりと眺めるぶんにはちゃんと夏の日の青空っぽいのだけど、よく見れば実際に使われている色は朝焼けみたいに多彩だ。

 確かに、言われてみれば虹の色をしていると言えないこともないけれど。


「でも、これって青空に虹が架かってるわけじゃないよね」

「……そんなに真面目に突っ込まれると困っちゃうんだけど」軒下は手にした筆を弄んでいる。「あたしの描くものに大した理由なんかないよ。なんとなく思いついて、そうしてみたいと思ったから、虹色の空を描いたの。したら三條さん、気になったっしょ? それならきっと、空の色を変えたのは正しい判断だったんだよ」

「そういうものかな」とわたしは呟いた。


 考えてみる。もし、この絵の空が青色だったなら。それはそれで綺麗だっただろう。そうしたらこの絵は、強い日差しが照り付ける、田舎の夏を描いた作品だ。見ているだけで喧しいセミの鳴き声が聞こえてくるような気分になったかもしれない。サマードレスを着た女の子の肌には汗が光っている。連想ゲームみたいに、次々に夏のイメージが想起される。風鈴。スイカ。自転車に乗った高校生……。

 でも現実に描かれた空は青くない。何色とも形容しがたい、あらゆる要素が融け合った、複雑な空模様。頭では夏の絵だとわかるけれど、音や匂いまで一緒になって立体感を持つみたいな、リアルな夏の情景はそこにはない。


「軒下さんって、何が描きたかったの」わたしは思わずそう訊いていた。

「どゆこと?」

「ちょっと考えてみたんだけど、風景が描きたかったんなら、やっぱり空は青くなるんじゃないかなって。そしたら多分、わたしは凄い絵だって感じたと思うよ。今みたいに妙な感じがして引っかかるってことはなかっただろうけど」

「あっはっは」軒下は楽しそうに声をあげて笑った。「面白いねぇ。『風景が描きたかったら空は青くなる』か。一理ありますな」

「なんとなくで描いてるから、何が描きたかったかって訊かれても困っちゃうのかな」

「そうだねえ。極力、嘘をつかないようにしようと思ったら、どうしてもそういう答え方になっちゃうけど」彼女は顎のあたりに手をやって言う。「でもそれ言ったら、空が青いっていうのもある種の嘘なわけだよね」

「空が青いのは嘘じゃないでしょ」

「ははーん」妙な鳴き声とともに軒下は口角をあげた。「パーフェクト美少女の三條さんも、サイエンスにはいまいち強くないと見た」

「や、別にパーフェクトなんかじゃないし」

「美少女は否定しないんだ」


 ギョロリ。


「……あは、冗談冗談。気ぃ悪くしたならごめーん」欠片も悪いなどとは思っていなさそうな軽い口調で彼女は謝った。「あたしもよくわかってるわけじゃないんだけどさ。空の色はホントは虹色なんだ。それこそ人間が認識できない赤外線から紫外線まで、全部の色を含んでる。そこへ大気がレンズの役目をはたして、光が屈折するから目に見えやすい色だけが残るとかなんとか。ほら、だって今こうして美術室に差し込んでる夕日は赤いでしょ。あたし達と太陽の位置関係が変わって、光が届くまでの距離が伸びると、見えやすい波長が変わって赤っぽい色になってくんだって」

「へぇ」わたしは感心して言った。「軒下さん、物知りだね」

「ま、そんで話を戻すとさ」こほんと咳払いをして、軒下は言う。「実際には空の色なんてひとつに決められるものじゃないのに、あたし達の目が勝手に青だって決めてそういう風に見ちゃってるんだよね。いや、別に目がそうしたくてやってるわけじゃないんだけど。そう考えたら、あたしに青く見えてるからってだけの理由で空一面を青色に塗りつぶしちゃうほうが、なんだか乱暴な話だって気がしてくる」


「うーん」とわたしは唸ってしまう。「難しい話だ」

「さっきも言ったけど、あたしも別に描くときにこんなこと考えてたわけじゃないよ。ただ、なんか青いだけの空ってつまんねーなって思った理由が何かっていうと、無意識にこういう知識が影響してたかもしれないね」

「なるほど。見えてるものを描くのか、本当のものを描こうとするのか」わたしは頷いた。「絵って面白いね」

「でしょー」と軒下は得意顔。


「だけど、わたしがこういうの好きそうだってよくわかったね」

 言っちゃなんだけど、ろくに話したこともなかったのに。

「ろくに話したこともなかったのに、って顔に書いてある」

「う」

 書いてない書いてない……とは言えなかった。


「ま、事実だしね」軒下は軽い調子のまま続けた。「でも、これも大して理由があるわけじゃないんだ。三條さん、頭いいし。よく本とか読んでるし。言っちゃえば勘だよ勘」

「軒下さんって変な子だね」

「あは、よく言われる」そんなことを言って照れたように笑うのだからよくわからない。「三條さんはクールっぽく装ってるけど、嘘をつくのは下手」

「根が正直なんだよ」

「ものは言いようだね」彼女は何やら嬉しそうに言ってすっと立ち上がり、手をたたいた。「そんじゃ、三條さんも描いてみよっか」

「え」不意打ちだった。「いきなり?」


 今度は何が顔に出たやら、なんてことが頭をよぎる。

「思い立ったが吉日って言うじゃん」

「そんな急に言われても、何も準備してないし、何を描けばいいのかもわかんないよ」

「大丈夫大丈夫」と軒下は根拠なく言い切った。「やってみればなんとかなるって」


 と、そんな感じであれよあれよという間に絵筆を渡され、どこからともなくキャンバスが現れ、パレットと絵具まで持たされて、はてここへは一体何をしに来たんだっけ、と首をひねるわたし。


「せめて何かお題とかないの」

「お題ねぇ」軒下は視線を彷徨わせる。「じゃあ、海で」

「海ぃ?」つい素っ頓狂な声を上げてしまった。「海ってあの海?」

「海は広いな大きいな、の海だよ」彼女はうんうんと頷いた。「さては、海なんて青いばっかりで描いたって面白くないとか思ってるんでしょ」

「そういうわけじゃないけど」わたしは口ごもる。「海を描こうって言われても、何を描けばいいかわからないかも」

「同じものを前にしてたとしても、同じものを見ているとは限らないからね」と軒下は独り言のように言った。「美術の授業なんかでは、どんな風に描くかっていう技術的な部分に注目しがちだけど、そもそも世界の見え方にだって個性があるんだ」

「テーマが漠然としてるほうが、そういう見え方の違いもはっきりしやすいってこと?」

「とも言い切れないかもしれないけど、まあそんなとこ」彼女は何かを思い出すように目を閉じた。「それに、絵具で海の色を塗るのって楽しいんだよ」

「空を青く塗りつぶすのはつまんないのに」

「では、ここでクイズでーす」わたしがつい混ぜっ返すと、軒下はいきなり声を高くした。「デジタル絵とアナログ絵の最大の違いは何でしょう」

「な、何。いきなり」

「どうも三條さんはずいぶん頭でっかちみたいだからね」彼女は早口でまくし立てるように言う。「きっと貴方は実際に筆を持って描き始めたらこういうことを考えるよ。だったらせっかくだし今のうちに徹底的に薀蓄を垂れておこうかなって」


 ううむ。その言い分は否定できない。

 であれば、いざ描こうとしたときに自分が思いつきそうなことを挙げればいいのだろうか。

 デジタル絵とアナログ絵。言い換えれば、パソコンなどの電子機器を使って描くか、軒下たちのようにキャンバスと筆と絵具を使って描くか。


「簡単にやり直しが利くかどうか、とか」わたしは少し考えてからそう答えた。「パソコンを使って絵を描くなら、ボタン一つで操作をやり直せるでしょ。現実の画材だとそうはいかない」

「いかにも」軒下は大仰に腕組みをしてみせる。「それは描き手にとっては極めて切実な問題だねー。だけど残念でした。今回のクイズは『デジタルで描くこととアナログで描くことの違い』じゃなくて、『デジタル絵とアナログ絵の違い』なんだな」

「貴方も大概頭でっかちだよね」わたしは呆れながら言う。「じゃあ、デジタル絵は劣化しないとか」

「お、いいセンいってる」と軒下。「デジタル絵はどうして劣化しないかを考えてみればわかるよ」

「劣化しないのは、実体がないから……」わたしは呟く。「デジタルの絵はデータだから。その情報は、突き詰めれば0と1の数字の並びで表現される。だから情報さえ無事なら決して劣化せず、再現できる」

「うんうん。ほぼ正解だよ」彼女はにんまりと笑った。「デジタルの画像データはすっごく細かい色を敷き詰めて作られてる。画像がいかに小さなデータの単位からできているかを表現するのが、解像度っていう言葉。つまりこの問題に回答を与えるなら、『デジタル絵はデータである』ってことになるかな」

「裏を返せば」わたしは言葉を引き継いだ。「アナログ絵はデータじゃない」


「鋭いね、三條さん」軒下はなぜか少し低い声で言う。「あたしはやっぱり水彩の色が好きなんだ」

「透明で、ぼやっとしてるイメージだけど」とわたしは言った。

「水彩絵具を使って描くと、色と色の境目が曖昧になるでしょ」言いながら、軒下はどこか遠くを見ているようだった。「それってデジタルには根本的にありえないことなんだよね。画像データには解像度がある。これは、一つ一つのピクセルに割り当てられた色が決まっていて、他とははっきり区別されるということ。物と物の間に存在する境界が明示されているってこと」


「軒下さんは」わたしは彼女の描いた絵を眺めながら言う。「つまり、その境目が曖昧な感じが好きなの」

「曖昧が好きっていうか、そうだね」軒下は頷いた。「海ってずっとゆらゆら動いてるでしょ。一瞬だって同じ状態を保つことはない。あたし達はその揺らぎを見て、海だと認識している。なのに、海を描いてるはずの絵は動かない。よくよく考えてみると、これって結構不思議なことだよね。多分あたし達の認識は、時間の流れを切り取ってるんじゃなくて、圧縮してる。そういう物事の複雑さを、複雑なまま表現できる気がするから、好きだし、面白いんだろうね」


 わたしは正直、面食らっていた。

 ただのクラスメートとのお喋りで、こんな風に驚きや発見があるってことに。

 身の回りに、日頃からこんなことを考えている人がいたってことに。


 軒下に嫌味っぽく指摘されてしまったけれど、周囲から自分がどう思われているかはわたしもわかっている。

 変わり者。本の虫。鉄面皮。お高く留まって、いつも上の空。慣れ合わないと言えば聞こえはいいけれど、実際は誰のことも相手にしていない。


 きっと、それは間違いではなかった。


 天橋学園1年C組の一員としてのわたしは、他人と距離を置いていた。はっきりそうと意識していたわけではなかったけれど、周囲の人間と付き合うに値しないと思っていたのだと言われれば否定はできない。

 毎日毎日、中身のない意味のない、変わり映えもしないお喋りに付き合わされるくらいなら、一人で本と睨めっこしているほうがよっぽどましというものだ、なんて。

 そんな風に思っていると見られても、文句を言う資格なんてわたしにはあるまい。


「とても人前では口にできないようなことが顔に書いてある」軒下が言った。

「わたしってそんなに顔に出やすいの……」

「あたしが鋭いんだよ」彼女は得意げに笑う。「海を描いてみたくなった?」

「……少しだけ」

「ふふふ。計画通りだ」軒下は胸を張った。「もし描くのに困ったら、一緒に見に行こうよ。海」

「見に行くも何も」わたしは困惑気味に言った。「毎日、登校中に見てるけど」

「ただ眺めることと、観察することとは違うのだよ。三條君」なぜか得意げに指を立てる軒下。


「あ、そう」お前はホームズ様かと突っ込む代わりに付け加える。「ちなみにうちの階段は十四段だから」

「さっすが。階段の段数を数えるのは恋する少女の嗜みだよね」軒下はニコニコと嬉しそうによくわからないことを言う。「さて、それなら三條さんは日ごろ目にしている海を上手に描くことができるかな」

「む。そういう言い方する?」


 この子、本当に変な子だな。

 あらかじめこっちの反応を予期しているみたいな、不思議な会話のテンポだ。今まで経験したことがない感触で面白い反面、ちょっと怖くもある。

 とはいえ敬愛するホームズ様を引き合いに出されては、こちらも黙っているわけにはいかないのだった。


「いいでしょう、海くらい描いてやろうじゃないの」

「よしきたっ」軒下は拳を握って、早口にまくしたてる。「そう言ってくれると思ってたよ。三條さんはいい子なんだからね。お前にわたしの何がわかるんだって顔に書いてあるけど、わかっちゃうんだよなこれが」

「何それ」彼女の様子がおかしくて、わたしは噴き出してしまった。「いい子っていうのは、軒下さんみたいな子のことを言うんだと思うけど」

「そりゃ、あたしはいい子だけどね」軒下は平然と言う。「三條さんも負けず劣らず、いい子なんだよ」


 そんなことないよ、と口に出して言うことはしなかった。

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