3
祖父と父の語った時柴家の秘密に、流星はひどくめまいがした。
時柴家には時々、柴犬に変身してしまう「柴犬体質」の男子が生まれるという。じいちゃんがまさにそれだ。
「俺もその、柴犬体質、なの?」
「それはまだ分からん。柴犬体質が現れるのは、ある程度大人になってからなのじゃ。じいちゃんが初めて柴犬に変身したのは、ちょうどお前くらいの年じゃった。一概には言えんが、胸毛が生えた男子は柴犬体質の可能性が高いようじゃ」
それで、柴犬――もといじいちゃんは、しつこく胸毛が生えているかどうか聞いてきたというわけか。
「慣れれば好きなときに柴犬に変身したり、人間に戻ったりできるようになるが、若いうちはコントロールが利かずに突然柴犬に変身してしまったり、元に戻ったりしてしまう。特に、夜は危険じゃ。胸毛が生えねば問題ないが、もし当日の夜までに一本でも生えたなら、花火はキャンセルしたほうが無難じゃぞ」
「それって、予防する方法とかないの?」
「ない」じいちゃんは断言した。「これが、時柴家の男子として生まれついた者の運命なのじゃ。デートするなら昼間にすればよいではないか。夜の逢引はオトナになってからでもよかろう? むふふ」
「そんなぁ……」
嘆きの言葉が流星の口をついて出た。もし胸毛が生えたら、玉井さんの目の前で柴犬に変身してしまうかもしれないのだ。
いや、柴犬になるだけならまだいい。そこから元の姿に戻った場合、さっきのじいちゃんみたいに、いきなり全裸で玉井さんの目の前に現れることになる。そんなことになったら、一発で嫌われてしまうに違いない。
「そう落ち込むな。長い目で見れば、柴犬に変身できたほうが人生楽しいんじゃぞ?」
この年になっても、若いおねーちゃんにかわいがってもらえるしな、とじいちゃんは陽気に笑っている。父さんも、頭を抱える流星の肩にぽんと手を載せてこう言った。
「俺だってお前が柴犬体質だったらいいなと思ってるんだぞ。その願いを込めて、お前の名前を、昔少年ジャンプでやってた犬の漫画にちなんでつけたんだ。『
流星にとってその話も初耳だ。タイトルと掲載誌から推測するに、その漫画は柴犬の漫画ではない気がした。望み通り息子が柴犬体質だったとしても、相当な名前負けではなかろうか。
「息子の名前を架空の犬にちなまないでくれる?」
「『時柴パトラッシュ』よりはいいだろ?」
それは流星も認めざるを得ない。
「ほら、俺たち兄弟を見ろ。柴犬体質じゃない俺は普通のサラリーマンになったが、弟の次郎は柴犬体質を生かして世界的に有名な画家になった」
「次郎叔父さんも柴犬体質なの!?」
「そうだぞ。あいつの絵、変わった色遣いだろ」父さんが誇らしげに言う。「犬の目は、人間とは見え方が違うらしい。あいつは犬の視界で見えた風景に、人間の目で見えた風景をミックスして描いているんだ。青の遣い方が独特だから、海外では『トキシバ・ブルー』なんて呼ばれているらしいぞ」
「俺もいまけっこうブルーですけどね」
「お、うまいこと言うな? ともかく、父さんが言いたいのは」
父さんは無責任に言い放つ。
「運命を嘆くより、
「全っ然心に響いてこないからね、それ……」
以上が、彼が知った喜ばしくない真実である。
夜になると柴犬に変身してしまうかもしれない――しかし、このときはまださほど深刻ではなかった。なぜなら、流星には胸毛なんて生えていなかったからだ。毛深い体質でもないし、きっとこれからも生えてこないに決まっている。
――そう信じることができていた。花火大会の前日、胸毛が一本生えるまでは。
***
花火大会当日。
昼間に美容室に行き、カットついでに軽くセットしてもらった。服も、持っているものの中で一番いいものを選んだつもりだ。
どうにも気分が落ち着かず、流星は玉井さんとの約束より二十分も早く七中の正門前にやって来てしまった。
辺りはまださほど暗くなっていない。花火大会のメイン会場である多根川の河川敷からは離れているためか、人通りはさほど多くない。遅くまで練習していた運動部の生徒たちが、笑いながら正門を出て行く。彼らもこれから花火を観に行くのかもしれなかった。
しばらくすると、流星のスマホに「いま駅に着いたよ。下駄って歩きにくい! 遅刻しないようにがんばって行くね」とメッセージが届いた。「了解。転ばないように気をつけて」と返事をした後で、すでに到着している自分が恥ずかしくなった。
下駄、ということは、玉井さんは
流星は校門の塀に背中を預け、時間つぶしにしばらくやっていなかったパズルゲームを起動させてみた。でも、新しいルールやキャラクターが増えすぎていて、ちっともついていけなかった。
このゲーム、一時期はものすごくやり込んでいて、そこそこ課金もしていたのに、流星は受験勉強のためにすっぱりやめてしまった。どうしても玉井さんと同じ高校に合格したかったからだ。俺、どれだけ玉井さんのこと好きなんだ。だいぶ気持ち悪いよなあ。自分で自分に引く。
昨晩生えた胸毛を見て、流星は今夜の花火をキャンセルすべきかどうか散々悩んだ。でも、どうしてもできなかった。
大人になってからでいい、なんてじいちゃんは言うけど、それじゃだめだった。流星にとって、今夜こそが人生のすべてだった。玉井さんから流星を誘ってくれることなんて、きっと今夜が最初で最後だ。だから今夜だけでいい。今夜さえ玉井さんと一緒に花火を観られるなら、明日からは柴犬だろうと毒虫だろうと、何に変身したってかまわなかった。
ところが、待ち合わせの七時二十分を過ぎても、玉井さんは現れなかった。連絡も入っていない。流星が「道に迷った?」とメッセージを送っても、気づいてさえいないようだ。少し前までやりとりをしていたのに、どうしたんだろう。
急に嫌な予感がした。玉井さんが危ない。勘でしかないはずなのに、流星はなぜだか確信していた。俺がバカだった。人通りの少ない夜道を女の子一人で歩かせるなんて。駅で待ち合わせすればよかったんだ!
探しに行かなきゃ、と流星は思った。どうにかして、玉井さんを見つけなきゃ――。
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