4 山小屋で男女二人きりというベタな状況
二人はバスで隣町まで移動し、乗り換えて山に向かった。バスはそのまま山を巡る道に入り、ゆっくりと登っていく。
「……あのさあ」
車内に視線を走らせながらザナトが口を開くと、窓の外を見ていたリユラが振り向いた。
「何ですか?」
「登山客、少なくね?」
夏の登山なら、それなりに客がいそうなものだが、バスに乗っているのは地元の人間らしい客が二、三人だった。
すると、リユラは微笑んだ。
「登ってみればわかりますよー」
「何がだ、何が」
「ふふ」
一人で楽しそうなリユラだった。
登り始めてしばらくの間、二人は森林浴を楽しむことができた。木陰の道に小鳥の声が響く。
しばらく経つと徐々に木は減り、岩場が多くなってきた。
「歩きやすいですよね。やっぱり、登山者がそれなりにいる山だから」
軽く息を弾ませながら、リユラが言う。確かに山道はそこそこ整備されており、登りやすいルートの木々に紐などで印がつけてあるため、ザナトもリユラもそれほど苦労することなく登ることができている。
「いないけどな。登山者」
ザナトはつぶやく。そんないかにも登山者のいそうな山なのに、誰ともすれ違わないのだ。途中まではちらほらと人の姿を見た気がするのだが、峠でリユラが
「私たちはこっち!」
と言って分岐した道を進んでから、人っ子一人いなくなった。
やがて、開けた場所に出た。
下界を見下ろす。緑の森と、その向こうの草原、そしてさらに向こうの荒野までが茶色っぽくうっすらと見える。
空は夏らしく青く、景色はくっきりと浮かび上がって美しかった。日差しは強いが、涼しい風が吹き抜けていく。
「きれいな景色を見ると、疲れが軽くなりますねー」
岩に腰かけて休憩しながら、のほほんと風に当たるリユラ。ザナトも腰かけながら言う。
「あんまりキツかったら、精霊に助けてもらおうかと思った……でも、意外と大丈夫だな」
「順調ですよ。雪渓を見て、そこから少し降りて、夕方には山小屋に着けると思います」
「あんたが骨折したのって、どこ?」
「雪渓です……でもっ、本当に、今度は大丈夫だから!」
鼻息の荒いリユラをいまいち信用できないザナトは、「あ、そ」と短く答え、腰のベルトに着けた皮ケースに手をやった。そこにはピーラが入っている。
(いざとなったら助けるのは俺なんだろうな、やっぱり)
やや急な岩場を登り切ったザナトが一息ついていると、少し先の岩陰からリユラが彼を手招きした。
「ザナト、これこれ! 面白いもの!」
「ああ?」
彼は岩を回り込んでリユラの隣に出て、息をのんだ。
「……これは」
彼らがいる場所は少し高くなっていて、すぐ足下から斜面が始まっている。緩やかに落ち込みきった場所は、山頂から麓に向けて河床のような地形になっており、そこを越えると登りの斜面が始まっていた。
その、落ち込んだ低い場所が雪渓で、冬の雪が溶けずに残っている。
しかし、その雪は異様な色をしていた。
「赤……!?」
白一色のはずの雪は、一面に赤いまだら模様になっていたのだ。
それは、まるで何かの薬品をまき散らしたか、もしくは――
「血、みたいじゃないか」
ザナトはつい、そうつぶやく。
「降りてみましょう」
リユラは言うと、いったん荷物を下ろした。リュックから金属製の爪のついた枠のようなものを二つ、取り出す。靴底につけて、滑るのを防ぐものだ。
「前回はこれがなかったから、滑っちゃったんですよねー」
「あほか……そりゃ骨折するわ」
ザナトも金属の爪を取り出しながら、心底呆れる。そこそこ登りやすい山だとはいえ、夏に雪の残っているような高所に登ろうというのに、リユラは適当な装備で登ったらしい。
靴にベルトで爪を固定して立ち上がると、リユラが「はい、これ」と黒いものを差し出した。
「サングラス?」
「照り返しがきついんですよね。忘れる所でした。……どうです?」
リユラが自分のサングラスをチャッとかけてみせる。リユラが取りに帰った忘れ物とはこれか、と思いながら、ザナトは苦笑した。
「俺たちに、これ、要る? 視界に影を作るくらい、呪文使えば簡単だろ」
「サングラス、かっこいいじゃないですか」
「まあね。結局あれか、精霊とのつながりが希薄になるっていうのはこういうところから始まったのかもな」
「人間は人間に似合うと思う文化を、自分たちで作ったから?」
「そういうこと」
答えながら、ザナトもサングラスをかけた。
二人は斜面をゆっくり降りる。やがて、雪のある場所にたどりついた。
「怖えよ、この色。何なんだ」
ザナトは一歩、二歩と雪の上に踏み出したものの、いったんたちどまり、ゆっくりしゃがみ込んでみる。やはり、何度見ても、角度を変えて見ても、雪は赤い。
「ここで何か事件があったとか言われたら、信じるぞ、俺ぁ」
「この赤いのね、藻なんですよ」
リユラが数歩先で立ち止まって、種明かしをした。
「藻? 雪の中で?」
「真冬だとこうはならなくて、夏みたいに雪が少し溶けてる時に繁殖するんですって。雪の中の栄養で。ほら、海の赤潮ってあるでしょう、ちょっとアレみたいですよね」
「はあ……なるほどな」
ザナトは雪渓を、上から下まで見回した。
「知らずに見たから、ビビった。そういや、熱湯に近い温泉の中で繁殖する藻の話も聞いたことがあるぞ……強いな、藻っつーのは」
「そうですねー」
リユラは、手にしていたガラスの瓶の蓋を開けると、中に赤い雪を詰めた。そして元通り蓋をすると雪の上に置き、背中に手を回してリュックから薄い本を引き抜く。
『メルドゥアラの地で、我は水の精霊に呼びかけるものである……』
リユラが詠唱したのは、精霊の力で低い温度を保つ短い呪文だった。怪我をした場所を冷やす時などに使われる、呪文としてはポピュラーなもので、水の精霊もあまり苦にならないのか詠唱師でなくても言うことを聞いてくれる。
「こういう珍しいもの、素材屋さんが喜ぶんですよ」
リユラは瓶を箱に入れて布で巻き、リュックにしまった。
「しかしこれは、見たら誰でもビビるだろ」
「そうみたい。道理で、地元の人さえ来ないはずですよね」
「それで人がいないんかい!」
結局、雪渓を横切って反対側の斜面を登り、登山道をしばらく行った先の山小屋にたどり着いてはみたものの、客はザナトとリユラだけだった。
髭面の、いかにも山男といった風体の小屋番は、面白そうに笑う。
「予約が入った時はびっくりしたよ。赤い雪の時期は、みんな怖がって、もっと離れたところの小屋に泊まるからね。まあ、ゆっくりして行って」
(おいおい……小屋番はいるものの、結局二人きりかよ)
こんなことを《ザ・ワンド》の人間に知られたら、面倒なことになりそうだ……とうんざりするザナトを後目に、リユラは楽しげに今日の夕食のメニューを小屋番に聞いている。
山小屋の中に荷物を置き、必要なものを出したりしまったりしているうちに、今度は空が夕焼けの赤に染まった。
小屋の外のテーブルとベンチで、夕陽を眺めながらの夕食になる。小屋番は、山菜と薫製肉の煮込みや渓流で釣った魚の塩焼きなど、山ならではの食事を提供してくれた。
もうここまで来てしまえば、ザナトも腹をくくるほかない。少し冷え込む夏山の夜、温かく美味い食事を存分に楽しんだ。
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