第661話困ったヴァイオリニスト  貴子(4)

貴子がもう一曲とお願いをするけれど、史はキッパリと断る。

「内田先生にも申し上げた通りで、一曲だけ、一時間だけです」

「それから、僕にも、これから予定があるんです」

史はピアノの前の椅子から立ち上がってしまった。

そして、鞄を持ち、内田先生に頭を下げて、レッスン室を出ていこうとする。


しかし、貴子は顔を真っ赤にして、史に迫る。

「ねえ!君!何様のつもりなの?」

「あなた、来年からここの音大に来るんでしょ?」

「私の後輩になるんでしょ?どうして先輩の言う事を聞けないの?」

「そこらへんの高校生のくせに!」

「どうせ、大した用事もないんでしょ?」

怒りだしたら止まらないタイプのようだ。



内田先生も、これには呆れた。

「史君は予定通りのことを、しっかりとやってくれたの」

「我がままを言っているのは、先輩の貴子さんのほうですよ」

「それに、下手は下手なりにとか」

「そこらへんの高校生のくせにとか」

「あなたは、どうして自分が一番偉いって思ってしまうの?」


結局、史は「じゃあ」と言って帰ってしまった。


本当にそれが気に入らないらしく、貴子は内田先生に文句を言い始めた。

「私だって、プライドというものがあるんです」

「いつも音大で室内楽とかやらされますが、どこの馬の骨ともわからないような人となんて、真っ平なんです」

「最低限、高い地位にある公務員のご子息とか、一部上場企業の経営者のご子息でないと」

「それ以下の下民なんて、見るのも嫌なんです・・・汚らしくて」


内田先生は、本当に呆れた。

「貴子さん、ここの音大に何をしにきたの?」

「音楽を勉強するために、音大に入ったんだよね」

「それが、そんな音楽にとって、どうでもいい理由で、誰とも演奏を続けられないのなら、2年生にはなれませんよ」

「もっとひどくなれば、講師の指示に従わないということで、退学もあるんですよ」


貴子の表情が、また、変わった。

「先生、それは困るんです、親に叱られますし」

「退学なんてことが、地元に知られると、困るんです」

「親も恥ずかしい思いをするんです」

まさに、「困った」という表情となった。


内田先生は、呆れ顔のまま。

「知りませんよ、そんな親御さんとか地元のことなんて」

「貴子さんが、しっかり他の人と演奏を続けられないのだから、及第点はつけられません、音大の講師としては、それ以外の判断はありません」

「それとね・・・」

内田先生は、貴子に小声で

「さっきの史君のお家はね・・・」


途端に、貴子の顔が、また真っ赤。

全身が硬直している。




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