第662話困ったヴァイオリニスト 貴子(5)

貴子との練習を終えた史は、冷静そのもので、音大の廊下を歩く。

その史に、知りあいの女子音大生の真衣が声をかけた。

「史君、お疲れ様、聞いていたよ」

史は、真衣に頭を下げる。

「いえ、こちらこそ」

ここでも冷静そのもの。

真衣は、史に尋ねた。

「これから予定あるの?さっきあるって言っていたけれど」

史は、少し苦笑。

「本当はないです、あの部屋にいたくなかった」

真衣は頷く。

「そうだよね、貴子が嫌だったの?」

史は、素直に頷く。

「なんだろう、いきなり文句を言って来て」

「僕のことを下手とか何とか、弾く前から言われて」

「それはたいして上手ではないけれど」

真衣は首を横に振る。

「そんなことないって、史君のピアノを否定する人なんて誰もいない、それは貴子が史君を知らなかっただけ」

「一曲やったら、もう一曲って言ったんでしょ?」

史は、また苦笑。

「僕は根に持つタイプではないけれど、あの人はゴメンなさいになります」

「楽譜に忠実なだけで、それ以外の冒険は全くしない」

真衣は、史にすり寄った。

「ねえ、史君、予定なかったら、付き合ってくれる?」

史は、「え?」と言う顔。

真衣は、真面目な顔。

「私も伴奏して欲しいの、スカルラッティの曲」

史は、すぐに頷いた。

「わかりました、この大学でなくて、カフェ・ルミエールの地下ホールで」

真衣と史は、あっさりと一緒に練習を決めている。



一方、史に練習を断られてしまった貴子は落胆のまま、自分のアパートに戻った。


「伴奏が少しでも外してきたら、叱り倒そうと思ったけれど、完璧だった」

「むしろ、私のほうが間違えそうで、危なかった」

「それにしても、コンクール優勝歴があって、内田先生、榊原先生、岡村先生、学長まで加わってのスカウトで音大に推薦・・・すごく見込まれている子だったんだ」

「それだけでも、近所の高校生ってレベルではないのに」

「あの子の御家柄は・・・別格だった」

「私みたいな、地方都市の有名人のレベルを超えている」

「全国でも、というか歴史的にもトップクラスだった」


「そのうえ、あの子には、練習は断られるし」

「内田先生には、落第なんて言われるし」

「あの子にも、ひどいこと何度も言っちゃったし・・・」


貴子は、その日は誰にも相談できず、悶々と過ごす以外にはなかった。

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