第637話史とブラームス(6)

史の変化は、ブラームスの練習にも効果をもたらした。

まず、指揮者の榊原が、その変化に気付く。

「何かが変わった、今までの少し繊細なブラームスではない」

「大らかで真正直なブラームスになった」


聴きに来た由紀は、首を傾げる。

「あれ?史の背筋がシャンとなっている」

「今までは、時々苦しそうに弾いていたんだけどなあ」


そんな由紀に、里奈が小声で

「史君、生活指導の菅沼先生に呼ばれて、呼吸法を教わったそうなんです」

「それから、顔が変わって」


由紀は、驚いた。

「へえ・・・あの菅沼先生?厳しい先生でしょ?」

里奈と由紀が、小声でそんな話をしていると、ブラームスのピアノ協奏曲は、壮大な盛り上がりの中、終わった。


史の変化を、楽団員も感じていたようだ。

大きな拍手を、史に浴びせている。


その史が、指揮者と榊原に、素直に頭を下げ、客席にいた由紀と里奈のところに歩いて来た。


由紀は、不思議なので史に声をかける。

「ねえ、史、何かあったの?」

「菅沼先生でしょ?叱られたの?」


史は、首を横に振る。

そして、その顔も素直。

「叱られないよ、呼吸の仕方を教えてもらっただけ」


しかし、それでは由紀には、全く意味不明。

「呼吸なんて、今でもしているって」

「生まれた時からしているでしょ?何を変なことを言っているの?」

やはり由紀は、ついつい、史を追求することになる。


史は、そんな由紀に表情を変えない。

そして、菅沼先生に教わった通りのことを言う。

「鼻の息は 通じるに任せ 喘がず 声せず 長からず 短かからず」

「緩まず 急がしからざれ」


由紀は、ますます不思議顔。

「史、どうしちゃったの?頭がおかしくなったの?」

そして里奈の顔を見るけれど、里奈は笑っている。

「私は史君が、お腹を抑えなくなっただけでも安心なんです」

「顔も苦しそうではないし」

と、まず史の変化を言う。


由紀は、ますますわからない。

「もーーー!二人して、仲がいいなあ・・・」

「うーん・・・」

それでも、由紀は考えた。

「まあいいや、史の状態が悪くなったわけではなく、里奈ちゃんも安心したって言っているし」

「弱々しい史じゃないし、いいかなあ」

と、追求をやめてしまった。


史は、そんな由紀に、

「菅沼先生が、その呼吸法って、禅の基本って言っていた」

「少し通うかも、先生は禅も勉強しているらしくて」

里奈も、史に続いた。

「私も、史君と一緒に、菅沼先生に教わろうかと思っています」


由紀には、またしても予想外の言葉だった。

「へーーー!禅?」

「わけわかんないなあ・・・」

その目が「点」になっている。




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