第316話クリスマスコンサート(4)

クリスマスコンサートの第一曲目が始まった。

バッハのチェンバロ協奏曲第五番をピアノで演奏する。

曲は、この曲にしては意外ともいえる重々しいテンポで始まった。

聞いている音大生から、まず「え?」という反応があったけれど、その反応はすぐに変化があった。


「すっごくキチンとしている」

「でも、グイグイ心に入ってくる」

「襟を正さなきゃ」

「背筋を伸ばす」

言葉は小声で、そこまでだった。

全員が、姿勢をまっすぐにして、音楽に聴き入っている。


第二楽章になると、典雅そのもののメロディがホールを満たした。

「すごい・・・天使というよりは、神を感じる」

誰かが一言言っただけ。

全員が史のバッハに酔いしれている。

中には、涙を流している人もいる。

胸の前で手を合わせている人もいる。


第三楽章は、少し早め。

この時点で、もはや誰も何も言葉を出すことができない。

典雅、重さ、深さ、真摯さが満ち溢れたバッハになっている。

聴衆全員が、とにかく一音も聴き逃せない、そういう状態でバッハが進んでいく。


舞台裏では、大旦那が腕を組み、耳を閉じ、聴き入っている。

そして、ポツリ。

「すごいバッハだ、こんな高みを感じるバッハは聞いたことがない」

「一音一音が、宝石で、しかも深みがある」

「これは、音楽の道をみんなが言うのはしかたがない」


マスターも、珍しく真顔になった。

「短い曲だけれど、一音一音が深いから、ズッシリと心の奥に響く」

「何か、襟を正すというころ、ものごとに真摯に向き合うこと」

「そういう忘れがちなことを、思い出させてくれる演奏だ」


加奈子は、途中から泣き出してしまった。

「すごい・・・何か、私の音楽とレベルが違う」

「ごめん、史君、すごすぎ」


そんな加奈子を奥様が抱いている。

奥様は

「うん、史君は音楽は別格なの、ただ本人がそれを自覚していないけれど」

少しむずかしい顔になった。


父の晃や、母の美智子は、その状態では聴いていない。

「とにかく、とどこおりなく」

美智子

「とにかく心配」

やはり、親になると反応が異なる。


洋子、奈津美、結衣、彩、美幸は、全員胸を抑えて聞いていた。

とにかくドキドキしてしまって、声も出ないようだ。


里奈は、目を閉じて、その手をしっかり合わせている。

とにかく、何かに必死に祈っているようだ。


その姿を加奈子がじっと見ている。

加奈子は、また別の意味でむずかしい顔になっている。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る