エンジュ②

 エンジュが地下牢へと繋がれてから三日が過ぎた。

 処刑は明朝と決まっている。協力者も全員捕縛済みで、エンジュ同様に地下牢だ。獅子王と近臣たちは今日も軍議室に籠もっている。エンジュの妻子の扱いに困っているのかもしれない。死罪に異議を唱えているのは獅子王だけだ。

 処刑を見届けることなく、シュロは西へと帰っていた。らしくない、とシオンは思った。あるいは判断を鈍らせないよう、あえてここから離れて行ったのか。

 ありえない。エンジュは逆徒だ。若い戦士たちを扇動し、獅子王への叛逆を企てた罪は重い。

 若者たちからしたら、スオウのやり方はぬるいらしい。

 獅子王はイスカの中心部だけではなく僻邑へきゆうまで見ようとする。力だけに頼らずに他の打開策を待つ。それが焦れったいのかもしれない。

 気持ちはわかる。もっと昔のシオンだったらおなじ声を吐く。ただ、シオンもスオウもイスカの外を見てきた。初代王イスカルの時代から、この国が安定した試しがあっただろうか。

 力で奪う時代は終わりにしよう。そう、願うことの何が悪いとシオンは思う。

「私も丸くなったものだな」

 知らずのうちに声となって出ていた。シオンの子に焙子ベイズ――パンに似たもの――を食べさせていた側女が目を瞬かせた。

「それが、子を持つ親というものでしょう」

 シオンは苦笑する。ずっと年下のくせにシオンに説教するつもりらしい。この若い側女はカンナの遠戚という。最近二人目を身籠もったようで、子育てにもすっかり馴れている。

「遅いですね……。スオウ様」

 シオンはとっくに朝食を食べ終えていたが、赤い絨毯の上にはまだ焙子ベイズが残っている。中に餡がびっしり詰まった饅頭も側女のお手製だ。

 雑事に追われるスオウは軍議室と執務室の往復だった。

 エンジュの処刑が終われば、次はそれに関わった者たちとつづく。洗い出せば実に三十人以上が浮き出てきた。エンジュを敬愛している者、前宰相のケイトウを支持していた者、獅子王に反発する者、セルジュという他国の人間を良くは思っていなかった者、それぞれだ。

 せめて朝食くらいは顔を出すと、勝手に言い出したのはスオウだがこの日はまだ来ない。

 シオンの子がやや子の頃、スオウが三日顔を見せないうちに歩き出した。七日空けば子の顔つきが変わった。スオウが我が子と過ごす時間は限られていて、けれどもシオンは父親としてのスオウを望むわけではない。

 スオウは、獅子王だ。

 つまらない些事さじなど考える必要もないし、なんならあの長い髪もそのうち切ってやろうと思っている。スオウは即位してからずっと髪を伸ばしつづけていた。たぶん、戒めのつもりなのだろう。

「悪いな。せっかく朝からこしらえてもらったのに」

「いいえ、私は」

 遊びたい盛りの子どもが側女の膝の上で暴れ出した。シオンは嘆息する。食後は座学の時間だ。いつかのシオンのように抜け出したりはしないので、時間に遅れてもシオンは目をつむっている。

「ラギ様。父上が来るまで、待ちましょうね」

 側女にやさしく諭されて、ラギは動き回るのを止めた。父親に似て大人しい気性に育ったようだ。口の悪い幼なじみにお前に似なくて良かったと言われて、シオンは子が見ている前でシュロの臀を蹴った。

 とはいえ、待つ時間がシオンは惜しい。

 雑務が溜まってセルジュは苛々している。手伝いに行かなければ、あとでどんな嫌味を言われるかわかったものじゃない。

 たぶん、スオウは来ない。皿を片付けさせよう。目顔で側女に伝えたシオンは、そこであることに気がついた。

 回廊が騒がしい。

 戦士たちの朝の鍛錬はとっくに終わったはずだ。皆、それぞれの仕事に忙しく、西翼まで来る者は稀である。不安を目で訴える側女をよそにシオンは立ちあがる。侵入者が現れたのはそのときだった。

 招かれざる客とでも、言うべきだろうか。

 シオンは柳眉を逆立てる。なぜ、という考えは持たなかった。たぶん、シオンもスオウも見誤っていたのだ。弟を、エンジュという人間を。

「残念だったな、姉者」

 姉と、そう呼ばれるたびにシオンは虫唾が走る思いをする。

 エンジュはいつだって、時宜を待っていたのだ。ケイトウが教育係になったときも、父王が弑逆されたときも、己が二十の歳を迎えるときも、スオウが王の座に着いたときも、新たな獅子王が国を治めているあいだも。ただ、じっと堪えてきていたのだろう。

 個人の力ならばエンジュが上かもしれない。

 エンジュは若く、強い。スオウも強い男だが、肉体の最盛期は過ぎてしまった。単独で獅子王の首を取るのは可能だが、エンジュはけっして馬鹿ではない。その先をちゃんと考えている。だからこそ、若い戦士たちがエンジュに付いていったのだ。

 シオンは懐に仕舞ってある短刀を取り出す。

 剣を佩いていなかったのは失敗だが、狭い部屋では却って都合がいい。

「姉者が俺を殺すのか? いいぜ、俺は」

「黙れ!」

 あのとき、セルジュに止められるよりも早く、エンジュを斬っていればよかったのだ。迷いがあったことを、シオンは認める。エンジュはたった一人残ったシオンの姉弟だ。

 同時に考える。あのイレスダート人の男がいなければ、獅子王は倒れていた。

 エンジュは辛抱強く、狡猾で、卑劣であった。教え込んだのはケイトウだ。皮肉なのは宰相自身が教え子の手に掛かったことだが、それも因果というべきだろうか。

 終わらせなければならない。

 イスカはようやく、前に進み出したところだ。エンジュになど邪魔をさせてはならない。

 シオンが逡巡するあいだはそう長くはなかった。エンジュが動き、そしてシオンは短剣を構えた。そのまま首をかっ切ればいい。わかっていても、シオンはまた別の動きをしていた。我が子を庇ったのだ。

 エンジュは最初に側女を狙った。

 悲鳴、そして吹き出した血。側女の身体が崩れ落ちる前に、シオンは我が子の身体を抱きしめる。意味のない行動だと知っていた。どうせエンジュはシオンを殺したあとに、この子も殺すだろう。

 躊躇いもなく殺して、次は獅子王の首を取る。幼いエンジュがスオウを慕っていたのは過去、純粋な悪とはそういうものだからだ。

 死を覚悟したシオンは、せめて弟から目を離さないようめつけた。

 だが、いつまで経ってもエンジュの剣はシオンへと届かない。

「くそ……。兄者、か」

 胸を突かれたエンジュが口から血を吐く。弟の血を浴びながら、シオンは二人を見た。シオンの弟を殺したのはスオウだった。



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