エンジュ①

 シオンがそこに踏み込んだとき、すでに弟の姿はなかった。

 いきなり臥所ふしどに押し入ってきたシオンに、エンジュの妻女が怯えた目を向けている。幼子も二人、母親の緊張を読み取って赤子が激しく泣き出し、もう一人はシオンと母親を交互に見つめている。

「エンジュはどこだ?」

「知りません」

 シオンは舌打ちする。女の声は震えていた。だから、エンジュは妻子を捨てたのだろう。あとから追いついてきたセルジュに目顔で合図する。エンジュの身柄を抑えるまで、妻子らは地下牢に繋がれる。

「わ、私たちは……」

 女がシオンの貫頭衣かんとういを掴む。赤子は泣き止まない。

「私たちは、なにも知りません」

「わかっている」

 だが、妻女らを捕らえなければならない。戦士たちが押し入ってきた。女はいよいよ諦めたのだろう。絶望した目でシオンを一瞥し、そうして出ていった。

 うしろからため息がきこえた。セルジュだ。

「彼の居場所は割れています。皆まできいてほしかったのですが」

「それを早く言え」

 話が終わるよりも先に飛び出して行ったのはシオンだ。セルジュはそういう目をする。

 スオウへの報告はシュロが行ったはずだ。だから、シオンは待たない。セルジュを急かして厩舎きゅうしゃに向かう。途中、何人かの戦士たちも合流した。皆、それぞれ得意な得物を持っている。

「悪かった」

 いきなりなんだという風にセルジュが見つめる。

「あそこの管理は複数に任せていた。どいつが星だったのか」

「それなら答えは簡単です。全員でしたから」

 シオンは苦笑する。前任者が高齢だったので若者ばかりを集めたのはシオンだ。彼らは良く働いたし不満も吐かなかった。その意味が、やっとわかった。

「こういう状況ですからね。獅子王も奥方殿も大変でしょう。大胆に動けばすぐ発覚する。彼らは実に巧妙だった」

「私だって、目に見えて減っているものくらいわかる」

 今度はセルジュが苦笑いだ。

「武器に食料に、他にも金になりそうなものはなくなっていますね」

「売り付けた先から暴いたのか?」

「ええ。あなたの名を出したら、店主はすぐ吐きましたが」

 シオンはときどき市井に紛れて散策する。通貨の勉強もした。真面目に商売をやっているところもあれば、闇に隠れて汚い商売をウリにしているところもある。見つけ次第潰す。その界隈ではシオンは有名だったのかもしれない。

 それだけの危険を承知で動いていた理由は簡単だ。

 彼らは金を必要とし、武具を集めていた。私欲のためじゃないことをシオンは知っている。イスカの王城は安全で豊かで、ここにいればまず餓えない。家族だって皆そこにいる。それなら、彼らを突き動かすものはひとつしかない。

 シオンはずっと考えつづけていた。

 弟エンジュは、シオンとスオウが戻って来なければ獅子王になれた。宰相だったケイトウは優秀で、傍らに置けばエンジュの時代は長くつづいたはずだ。それなのに、エンジュはケイトウを自ら排除した。

 人の手の上で操られるのはごめんだ。そう、弟は言った。幼子の頃からああいう気性だったエンジュらしい言葉にきこえた。それならば、黙ってスオウに獅子王の座を譲らなくてもよかったはずだ。

「着きましたよ」

 シオンは顔をあげる。セルジュが導いたのは酒場だ。イスカの王城からさほど遠くない街にて、エンジュはそのときが来るのを待っていたのだろうか。

 わからない。いくら考えてもシオンにはたどり着かない。血を分けた姉弟とはいえ、相手のことをどれほど理解しているものなのだろうか。

 ただひとつ判明しているのは、エンジュは獅子王の座を欲しているということ、それだけだ。

 酒場のなかはがらんどうとしている。斥候せっこうが押さえたあとなのだろう。シオンはセルジュを見て、舌打ちする。彼の独断で戦士たちは動かせず、だから獅子王はシオンを待たずに動いていたのだろう。

 知らなかったのは、私だけか。シオンは口のなかでつぶやく。 

 酒樽を押しのけて奥へと進む。貯蔵庫にはシオンの弟がいた。すでに床には血溜まりができていて、少年らの死体も転がっていた。

「なんだ。兄者よりも先に姉者が来たのか」

 エンジュもまた血に濡れている。満身創痍なのか肩で息を吐きながらも、その目は戦意を失っていない。

「で? 誰が次に俺の相手をする? 姉者が来るのか? いいぜ、俺は」

「黙れ」

 シオンは剣へと手を伸ばす。スオウを待つまでもない。身内の過ちは姉であるシオンが始末を付けるべきだ。

「取り押さえてください」

 ところが、背後にいたセルジュの声の方が早かった。彼は戦士たちにそう命令し、一斉にエンジュへと飛び掛かる。シオンの剣は弟へと届かなかった。俘虜ふりょに向ける剣など、シオンは持っていなかった。

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