炎②

 血飛沫があがったのはシオンの両腕からではなかった。

「カンナ!」

 崩れ落ちた側女そばめの名をシオンは繰り返す。しかし、カンナはシオンに身を預けて、ぐったりとしている。

 側女の行動に疑問を感じる前にシオンにはやるべきことがあった。カンナの腰から短刀を奪い取ると、シオンはそのまま男へと立ち向かった。むろん曲刀とあくまで護身用の短刀では、武器を手にしたところで結果はそれほど変わらず、男の曲刀を躱しつつも受けつづけてきたシオンにやがて限界は訪れる。

 ただでは終わらせない。己の身体が曲刀に裂かれたとしても、この男は必ず道連れにする。シオンは唇に笑みを乗せた。

 その刹那、男の動きが止まった。なんと、カンナは己の髪を結っていたかんざしで男の喉を貫いたのだ。どさり、と。鈍い音を立てて男の身体は地面に横たわり、そのまま動かなくなってしまった。そこではじめて震えがきた。シオンは自分の身体を抱きしめた。

「もうしわけございません。遅くなりました。お怪我は、ないですか?」

 シオンはやおら顔をあげる。カンナは無理して笑みを作っている。

「私より、お前が」

「大事ありませんよ。それよりも、早くここから離れましょう」

 カンナの行動は早い。己の衣服を引きちぎり、負傷した脇腹と左腕にそれを巻きつける。一瞬だけ苦痛に歪めた顔もすぐに消えた。

「しかし、何が起こっている? 私は」

「話は後です。シオン様」

 カンナが再び構えを取ったとき、シオンはその意味を理解した。取り囲まれている。それも今度は三人だ。

 シオンは唾を喉に押し込む。奴らの攻撃はすぐさまはじまった。シオンは背でカンナを庇うつもりでいたが、その反対だった。

 シオンが短刀を奪ったものだから側女の武器は簪だけ、ところがカンナは見事にそれを操る。男たちの身体がいかに屈強であろうとも、急所を突き刺されてはひとたまりもないようだ。

 糸が切れた操り人形のように、身体は崩れ落ちていく。しかし、シオンが対峙していた男はそうはいかなかった。あちらもそういう教育を受けてきたのかもしれない。動きはまさしく、暗殺者のそれだ。

 カンナの攻撃はことごとく外れるだけでなく、シオンと二人がかりでも致命傷を負わせることは不可能だった。こうなれば、先に体力が尽きるのはシオンたちの方である。

 シオンはカンナに視線を移す。徐々に側女の動きが鈍くなっているのは怪我のせいだ。いまはこうして動いてはいてもカンナのことだ、相当な無理をしているに違いない。そうしたシオンの雑念はより本来の動きとは遠ざかっていくばかり、そしていま一度カンナはシオンの前に立った。このままではカンナは男の曲刀の餌食となってしまう。シオンはもう、迷わなかった。

 シオンの短刀は男の喉を掻っ切る。これは、カンナの動きを真似したものだ。男の喉から噴き出した血はシオンの顔を、肩を、手を、赤に染めた。シオンはそのまま呆然とする。このときはじめて、シオンは人を殺したのだった。

 シオンが正気に戻ったのは、厩舎きゅうしゃに連れて行かれてからだった。

 最早、どこをどう歩いたのかもさえも定かではなく、シオンはカンナの声にやっと反応をする。

「待て、どこに行くつもりだ?」

「言ったはずです。ここから、逃げるのだと」

 気色ばむシオンに対してカンナはあくまで冷静に返す。うしろで馬のいななきがきこえた。シオンの興奮が伝わったためかと思ったが、そうではなく、そのうちの一頭の足には矢が刺さっていた。

「逃亡するつもりだ! まずは馬を潰せ!」

 怒号とともに矢の一斉攻撃が来た。逃げ場のない馬たちは暴れ回り、シオンはカンナに庇われながら地に伏せた。シオンは拳に爪を食い込ませる。シオンを狙った間者が複数なのは明らか、いや、これではまるで――。

 シオンの思考が止まったのは、矢の攻撃が途絶えたからだ。同時に男たちの悲鳴がきこえた。

 新手かそれとも味方か。判断するのはまだ早く、その黒い影はやがてシオンの前に現れ、徐々に近づいて来る。シオンはふたたび構えを取ったが、短刀を振りおろすよりも先に声がきた。

「何をしてる。早く乗れ!」

 シオンは息を呑んだ。絶望のあまりに幻覚でも見ている気分になる。だが、その声はたしかにスオウだった。

「お前、どうして……。どうして、ここにいる?」

 スオウは明朝、イスカの王城を発つと言った。だがあの性格だ。夜明けを待たずに行く。シオンはそう思っていた。

「おれはを見張っていた。こんなに早く事を起こすとは思わなかったが」

 スオウは残った馬をまず落ち着かせる。こんな状態で馬を走らせるのはまず無理だ。シオンはそう訴えようとしたが、しかしスオウは彼らの扱いに長けている。これならば、どうにか言うことをきくかもしれない。

「待て。私は行けない。父上や他の者が、」

「早くしないと手遅れになる」

 シオンは声を詰まらせた。カンナだ。暗くてどのくらい出血しているか見えなかったが、側女はシオンを庇って怪我を負ったのは事実だ。

「良い子だ。おれたちを、連れて行ってくれるな?」

 厩舎で黒馬たちが騒いでいる。そのうち、大人しくなった二頭にスオウは話しかける。シオンはスオウに目顔で訴えかける。逃げるのか? と。スオウは応えない。

「来い。カンナはおれが連れて行く」

 そうして、スオウは先に出たのだった。

 シオンはふた呼吸だけ時を置いた。今宵、シオンは二度死んだも同然だった。死んだ人間がいまさら自分の命を惜しむ必要はないし、他者の心配など鼻で笑われる。四つ下のエンジュ、歳の離れた兄たち、そして獅子王。みんなはどうなったのだろう。

 答えは城を包む炎が教えてくれる。イスカの獅子王――、シオンの父が統べる時代は終わったのだ。


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