逃亡①
シオンたちは夜は明けても馬を走らせつづけ、太陽が一番高く登った頃にようやく止まった。
これ以上は馬が先に潰れてしまう。スオウはそう判断したらしい。傷の手当てをするというカンナを残して、シオンとスオウは水を探す。イスカの国土は六割が荒野である。纏まった雨に恵まれなければ小川もすぐに干上がってしまう。
とはいえ、途中で集落に寄るのは危険だ。そう、スオウはシオンに言った。
まるで、罪人のようだ。シオンは口のなかでつぶやく。
イスカの王城が燃えていた。宵闇に広がる赤をシオンはたしかに見たのだ。短慮だった少女の時分とはちがう。だから、シオンはその意味をちゃんとわかっている。
数日前に降った雨の名残を見つけたとき、シオンはその場に座り込みそうになった。
疲労と不安と恐怖と。他にもさまざまな感情とシオンは戦っていた。一番に感じたのは安堵だったのかもしれない。スオウに肩をたたかれてはっとする。カンナがシオンを待っている。
二人はまず喉を潤して、それから側女のところに急いだ。
スオウはほとんど喋らない。元が口数の少ない男だが、声を発するのが禁忌みたいに黙りこくっている。シオンもあえて声にしない。頭のなかでぐるぐる考えつづけている言葉を外に出したなら、現実を認めてしまうようで怖かったのだ。
「ふたりとも、遅いですよ」
悪態をつく元気はあるらしい。だが、それも強がりだ。カンナの顔を見てシオンは泣きそうになった。不自然に逸らされた視線の意味を、側女はわかっているのだろう。
「傷をもっとしっかり洗った方がいい」
「要りませんよ。もう十分、水はいただきました」
そうじゃないと、スオウはため息を吐く。カンナは笑った。
「あら? 忘れたのですか? 瀕死の少年を元気にさせたのはこのわたくしです」
「でも、カンナ」
「それにスオウはもうひとつ忘れていますよ。わたくしには医師の心得があります。ですから、自分の傷は自分が一番わかっています」
スオウは水袋をカンナに押しつけていたが側女は頑なに受け取らなかった。だめだよ、スオウ。お前も知っているじゃないか、カンナの性分を。目顔でシオンはそう伝えて、ようやくスオウは水袋を引っ込めた。
そこからさらに三日、西へと馬を走らせた。
スオウが背負っていた背囊袋には保存食がすこし入っていたが、それもすぐに尽きてしまった。羊を追っていては西に行くのがそれだけ遅れるため、野草や木の実で腹を満たした。
日中は身体を動かしているのでどうにか耐えられた寒さも、夜になると胴震いが止まらなくなった。一枚しかない防寒具はカンナに押しつけながら、三人でくっつき合って眠った。
西は、遠い。あとどのくらい進めばたどり着くのか、シオンにはわからない。西に招かれたことのあるスオウならばと、そう思って彼の横顔をのぞいたものの、表情は硬かった。
その頃からだろうか。異臭に気付いたシオンは自らの肌を嗅いだ。血と汗で塗れた
七日目の朝、カンナをシオンに預けてスオウは一人で行った。詰問する間もなかったが、側女の身体に触れたシオンは息ができなくなった。
「なんでもっと早くに言わなかったんだ……」
シオンの声はカンナに届いていない。果物が腐ったような異臭、それはカンナからだということにようやく気が付いた。傷が膿んでいるのだ。日中も震えるほどの寒さに耐えているというのに、カンナの身体は熱い。
シオンは地面に拳をたたきつけた。いったい、私たちは何の罪を犯したのだろう。自問自答するうちに笑いが出た。かの東の大国イレスダートには敬虔なるヴァルハルワ教徒がいるという。神などまるで信じていないシオンだ。東国の人間のような言葉を口にするものではない。
「カンナ、しっかりしろ」
泣いてはならない。シオンは必死に涙を堪えた。スオウは危険を承知で集落へと行った。医者を呼ぶためだ。しかし、いまのシオンたちは罪人も同然の身、医者に縋るほどの金などどこにもない。
「スオウが、かならず医者を連れてくる」
それでも、シオンは繰り返す。後悔の波に呑まれそうで、とにかく声をつづけた。スオウはとっくに気が付いていたはずだ。馬を止めることもシオンに知らせることも、カンナは許さなかった。母親に子どもは逆らえない。血の繋がりはなくとも、カンナはスオウの母親だった。
それなら、私だっておなじだ。シオンはそうつぶやく。弟のエンジュが生まれてすぐにシオンの母親は死んだ。それからシオンを育ててくれたのはカンナだ。
「どうして、言ってくれなかったんだ……」
シオンの頬を涙が伝う。透明な雫をやさしく拭い取ってくれるのは、いつも側女だった。
「ここで、止まるわけには、いきませんもの」
視界が滲む。その向こうでカンナが微笑んでいる。
「言ったでしょう? 自分の身体は、自分が一番良くわかっている、と」
「それでも……っ!」
「スオウを責めないで、くださいましね?」
あのこは、やさしい子ですから。そう、カンナはつづける。
「大丈夫だ。あいつは、もうすぐ帰って来る」
「置いて行ってください」
シオンは激しく瞬いた。何を言っているのかわからなかった。
「できるわけがない」
「いいえ。行きなさい。これは、わたくしの……、最初で最後のわがままです。きいて、くださいますね」
ずるいやり方だと、シオンはカンナを睨みつけた。
イスカの民は死を恐れない。死は自然の摂理である。ただし、戦士たちが望むのは戦いのなかでの死だ。あるいは、老いて寿命を全うするか。
「置いてはいけない」
死を、見届けることすらできないというのか。シオンは歯噛みする。側女はずっと微笑んでいる。
「あなたのことは、娘のように思っていましたよ」
シオンは知っていた。カンナは獅子王の側室だった。けれど、子に恵まれなかったために王席を与えられず、シオンの母親付きになったことを。母が死んだあとに、シオンはカンナに育てられた。もうひとりの母。そんなことは、いま言われなくとも、ずっと知っていたというのに。
「わたくしのことなど、忘れてください。でも、これだけは忘れないで。あなたは、獅子王の娘。……わかりますね? あなたは、生きなければならない」
獅子王の娘。それがなんだと言うのか。
「生きて、そうして……戻るのです。イスカの、王城に」
「わかって、いる。でも、カンナ。そのときはお前も一緒に」
仇を取ってください。それが、側女の最後の言葉だった。シオンはカンナの名を呼び、それからスオウを呼んだ。ちくしょう。どうして、あいつはこんなときに母親の傍にいないんだ。ありったけの声でそう叫んだ。
泣いて、泣いて。声が嗄れるまで泣いて。シオンはようやく側女の死を認めた。スオウはすこし離れたところから、ずっと二人を見ていた。シオンとおなじように、スオウもまた泣いていた。
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