炎①

 誰かが呼んでいる。応えたくても声が出なかったし、身体が動かなかった。

 ああ、これは夢か。それにしては暑くて敵わない。まもなく冬だというのに、夢のなかでは季節が逆転している。

 夏の暑さも冬の寒さも、イスカの戦士たちはただひたすらに耐える。あたたかな春も過ごしやすい秋などあっというまで、どうせだったらそのどちらかがよかった。シオンは夢を見ながら、ぼんやりと思った。

 そのうちに目が覚めた。

 なかなか寝付けずにようやく眠れたと思えば、今度は寝苦しさで目が覚めてしまった。観念してシオンは起きて回廊へと出る。こんな時間だから大台所には誰もいないだろうが、水くらいは飲めるはずだ。

 皆が寝静まっているせいか、物音ひとつしない回廊は不気味なほど静かだった。

 イスカの王城は何層にも分かれた複雑な造りをしているために、余所から来た者に言わせれば迷宮らしい。

 幼き頃からここにいるシオンでさえ、部屋の数がいくつあるのか知らない。

 獅子王は用心深い男である。そう、囁かれるのも無理はないと思う。歴代の獅子王のなかで、定められた生を全うできた者がどれだけいたことか。それだけ、王の首を狙う輩が多いというわけだ。イスカはいつの時代も国が乱れている。

 シオンは欄干らんかんを飛び越えて裸足のまま大地に立った。

 寒さで指先の感覚も失っていたが、それもまた心地良いと思った。冷えきった身体もまるで己の心のようだ。自嘲するシオンは天を見た。イスカの天と大地はいつだって戦士たちに試練を与える。今年は豊作だったが次の年はどうなるかわからない。王城にいれば餓えないことをシオンは知っている。だが、外に出てみればどうか。

 月の見えない空を見つめつづけていたシオンは、ふと違和感を覚えた。なにかが、妙だ。しかし、そう感じたときにはすでに遅かった。

 背後から伸びた腕がシオンの細い首を絡み取る。咄嗟に抜け出そうとしても、もう足は宙を浮いていた。

 もがけばもがくだけ苦しさが増すだけだった。この容赦のない腕はシオンを殺す気らしい。子どもの頃、臥所ふしどを抜け出しては側女に叱られた。シオンは心のなかで舌を出していた。イスカの王城は迷宮だ。侵入者など入りっこない。

 だとしたら、内に潜んでいた奴らだろう。シオンはもう、迷わなかった。

 まず、男の太腕に思いきり歯を立てる。腕の力が緩んだのを見逃さず、シオンはそのまま男の顔へと肘を食らわせた。

 やっと自由になった身体は最初に酸素を欲しがった。シオンは咳立てながら荒い呼吸を繰り返す。男の雄叫びがきこえたのはすぐだ。

 男の持っていた曲刀は地面へと突き刺さる。シオンは芋虫のように転がり、それを躱すしかなかった。なにしろシオンは丸腰だ。日中ならば腰には剣を、懐には短刀を忍ばせているものだが、このときばかりは素手だった。おごりであると、誰かの声がきこえた気がした。そのとおりだった。

 間者が現れようとも並の男ならば組手で交わせる自信はあった。

 スオウや弟のエンジュとならば話は別としても、他の男を相手にシオンは負けたりはしなかった。それこそが過信である。子どもではなくなったときから、いやその前からも男たちはシオンに対して本気で戦わなかったではないか。

 この王城でシオンの顔を知らない者はいないはずだ。だからこれは、シオンを知っていて殺しにきているのだ。

 暗闇に目は慣れてきた。しかし、男の攻撃を避けるのに精一杯なシオンには、相手の顔を熟視するような余裕がない。砂利を掴み、男の顔へと投げ付けた。

 男がもがいているあいだにその胸に拳底を放ち、腹には蹴りを一発入れてやった。シオンは一度間合いを取る。男の唇に笑みが見えたからだ。

 シオンは怒りで震える。はじめに感じたのが自身への怒りだ。シオンはいつだって強さを求めてきた。ところがどうだ。あまりに弱く、惨めな、ただの女ではないか。

 シオンの抵抗にもやがて無聊ぶりょうを覚えたのか、男は再びシオンへと曲刀を振りおろす。シオンにはもう後がなかった。両手を構えて、腕を犠牲にする。その覚悟でシオンは男の攻撃に立ち向かった。

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