何も持たない少年①

 小一時間ほど馬を西へと走らせれば、風が冷たくなってきた。

 夕暮れが近い。しかし、せっかく城から抜け出してきたのだ。まだ戻る気にはなれずに、シオンは馬をひた走らせる。側女のカンナにはきっと長々と説教をさせるだろう。そんなもの、あとで逃げればいい。シオンは口のなかでそうつぶやく。

 たしか、この辺りには集落があったはずだ。

 目的もないままただ馬に乗っていたわけではなく、シオンはそこを目指していた。あそこのおさは知っている。遅くなれば集落に泊めて貰えばいい。一晩くらい帰らなくとも、シオンはもう子どもではないのだ。カンナは大騒ぎするだろうが、他の誰も気にはしない。そう、獅子王だっておなじだ。

 そこまで思考が辿りついたところで、シオンはかぶりを振った。

 これではまるで、父親に相手にしてもらえない子どものようだ。そうじゃないと、シオンは歯噛みする。そうではない。いま、シオンが認めてもらいたいのは強さだけだ。

 やがて、シオンは馬を止めた。急に手綱を引っ張ったものだから黒馬はいななき、シオンはまず馬を宥めてやる。おかしい、そう思ったときにはシオンの目にもそれがわかった。求めていた集落など、どこにもなかった。

 火が消えたのは七日は前だろうか。それでも、まだ濃い墨のにおいがする。シオンは貫頭衣かんとういの袖で鼻を覆いながら馬からおりた。

「そうか、ここだったのか……」

 シオンの声に馬が反応する。鼻を近づけてきた黒馬を撫でてやりながら、シオンは辺りを見回した。

 あれは、半月ほど前だった。イスカの王城内が騒がしくなったかと思えば、武官や文官たちとともに獅子王は軍議室に引き籠もった。

 獅子王への離叛りはんあり。真偽はどうであれ、火種はちいさいうちに消しておくのが正しい。そうやって、どの王も玉座を守ってきたのを、シオンは知っている。王城からたくさんの戦士たちが出て行った。黒馬に跨がるイスカの男たちの顔はまさしく戦士だった。

 叛乱はほどなくして終結した。そう、シオンは側女からきいた。

 たぶん、ここにはもう何も残っていないのだろう。それでも、シオンは馬を連れて集落を歩く。夏の陽射しを耐えて、冬の寒さから守り、皆が苦労して耕した畑もぜんぶ焼かれていた。馬や家畜の一匹さえ見当たらないのは、報酬代わりに王城へと連れて行かれたのかもしれない。女、子どもも、老人さえもみんなここで殺された。

 粛正しゅくせい。それは、見せしめだ。

 イスカの王族はその時代ごとに変わっていく。イスカは世襲制にあらず。王として認められるためには相応の力が要る。それが、初代王イスカルから受け継がれてきた戦士たちの遺志である。

 イスカルは力で荒れ地の民を認めさせた。

 そもそも、イスカルは余所者であった。母は村で一番うつくしかった娘、そして村長の娘だったものの、しかし父は流れ者の旅人だった。愛娘を奪われて赫怒かくどした村長だったが、大きな腹を抱えた娘を追い出すわけにはいかず、やがて生まれた子どもも村のおばばに引き取らせた。

 どうやって、イスカルは王の座まで上り詰めたのだろう。

 シオンはいつもそれを考える。いや、それは間違いだ。イスカルはきっと王になりたかったわけではない。ただ、荒れ地の民を纏めるためには、力しかなかったのだ。

 国を統べるためには、力が要る。イスカはまさしくそういう国だ。

 シオンはここの村長の顔を思い出す。人好きのする笑みでいつもシオンを迎えてくれたやさしい老爺ろうやだった。疑いたくはない。けれども、そのやさしい仮面の下では獅子王への叛逆を考えていたのだろうか。重税に喘いだ上での叛逆、シオンに親しくしていたのは幼い子どもを手懐けようとしていたのか。シオンには知ることは叶わない。

 ここにはシオンよりもっと年下の子どももいたし、女たちもたくさんいた。みんないなくなった。みんな殺された。 

 生々しいが蘇るような気がして、シオンは吐き気を堪えた。目を逸らしてはならない。そう、思った。

 黒馬がシオンの袖を食べている。ああ、わかっている。夜の荒野は危険だ。シオンは大人にだって負けない自信はあったが、そうではない。おそろしいのは人よりもイスカの自然だ。月の灯りだけを頼りにしても、気まぐれな空は月を雲で覆い隠す。東に屹立きつりつするモンタネール山脈からは荒っぽい風が吹き付ける。迷わず王城にたどり着けるか、その自信はない。

 黒馬を連れて戻ろうとしたシオンの瞳が、ふと黒の色を映した。

 家も納屋も畑も、そして人もみんな燃やされた。残っているのは灰と炭だけだ。一面が黒で覆い尽くされた廃墟、しかしそのなかで何かが動かなかったか?

「誰か、いるのか?」

 期待した返事はきこえなかったが、シオンは一歩踏み出す。集落に残されていたのはほとんど枯れた井戸だけだった。傍まで行ってようやくシオンはに気が付いた。人だ。どうして、すぐに見つけられなかったのだろう。

 シオンは恐る恐る手を伸ばした。生きているとは思えなかったからだ。

 しかし、他に人の姿など見つからなかった。遺体はぜんぶここで燃やされたのだ。荒野の獣たちが嗅ぎつけるその前に。

 それはせめてもの情けだったのだろう。シオンはそう思う。だが、それにしてはおかしい。それは、少年だった。シオンとおなじくらいか、あるいはもうすこし年少の子どもだった。

 抱き起こしてやったのは、せめて戦士の祈りを届けようと思ったからだ。

 シオンの唇が祈りの歌を紡ぎかけて止まる。次に、少年の胸へと耳を押し当てた。弱い。けれども、たしかに鼓動がきこえる。彼は、生きている。

 そこからはほとんど無意識だった。

 シオンよりもずっと細くて痩せた少年をどうにかしてやっと黒馬に乗せた。子どもが子どもを抱えるのは大変だし、一人なら難なく乗れる馬だって人を抱えるとなれば難儀する。

 たぶん、シュロだったら苦労せずに簡単にできた。シオンは舌打ちして幼なじみの姿を消す。日はもうほとんど暮れかけていた。 

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