笑顔、始まりました
この四月から頻繁に見かけるようになったお客さんだ。大学の新入生と言うには既に学生くさすぎるから、大学院のほうだろう。旧帝国大お膝元のこのカフェでバイトするうち、高卒フリーターのあたしにも、学生さんの種類が見分けられるようになった。
何の研究をしてるのかな。いつもカプチーノ一杯をおともに、二時間くらい、A4サイズのスケッチブックにペンを走らせる。あれがどういう研究なのか、大学生のスタッフにも尋ねてみるけど、わからないみたい。
普通に言って、イケメン。あたし的には、すっごい好みの顔立ちだ。目がぱっちり大きい。二重まぶたがくっきりしてて、たれ目がち。でも、もったいないことに、まなざしはいつも伏せられている。注文のときも、お会計のときも。
今日は雨。とても暇。全三十六席の店内に、お客は例のお客さんだけ。
あたしはセルフコーナーのシュガーや紙ナプキンの補充をする。例のお客さんの指定席は、セルフ台の三つ向こう。間のテーブルに誰も着いていないから、彼のスケッチブックがよく見えた。
図面なのかな。黒線の絵に、赤文字の説明らしきものが書き込まれている。殴り書きみたいなアルファベットと数字と数式。
ふと、彼が顔を上げた。目が合ってしまった。チャンス到来。話しかけちゃえ。
「いつも来られてますよね」
「……ぼくの顔、覚えられてますか、やっぱり」
「あたしもほとんど毎日、この時間にシフト入ってますから。何の研究をされてるんですか? 大学院生のかたですよね?」
「インダストリアルデザイン」
「はい?」
「インダストリアル、つまり工業の、デザイン。工業製品の機能性と美しさの、設計」
ゴメンナサイ、ピンときません。
あたしは笑顔で小首をかしげる。彼は、うろうろと視線をさまよわせた。
「あ、あ、えっと、たとえば、このコーヒーカップのソーサー。カップが
「なるほどー」
「す、すみません。ぼく、人に一般的な説明をするの、苦手なんで」
頭のいい人には、そういうタイプが多い。まあ、慣れてるけど。ここのスタッフもお客も高学歴さんばっかりだから。
「でも、今のソーサーの説明はわかりやすいですよ」
彼はうつむいて微笑んだ。
「ぼくの彼女が……いや、元カノが、そんなふうに分析してたのの、受け売りです」
「そうなんですね」
元カノさんも賢かったわけか。
「あの。変な話、するけど」
「はい」
「同じチェーンのカフェって、同じユニフォーム、ですね」
「へ? ええ、まあ」
「前の大学のそばにも、このチェーンのカフェがあって……ぼくの元カノ、そこでバイトしてたんです。元カノもそのユニフォーム着てたなって、急に思い出すことがあって」
「あぁ、なるほど。前も通ってらっしゃったんですか」
「いや、一度も行かなかった。というか、行けなかった」
「え。そうなんですか? どうして?」
「どうしてでしょうね? 研究で忙しいのを理由に、恋人らしい時間もつくれなくて。だからこそ、毎日ちょっとだけ研究室を抜け出してカフェに行って、会えばよかったのに。照れくさいのと面倒くさいのと……こんなんだから、ふられたんです。最低でしょう?」
なんで笑ってるの? 目尻にカラスの足跡、頬にえくぼ。あたしの胸が、ぎゅーっとなる。なんか、すごく切ない。
何か気の利いたことを言ってあげたいけど、浮かぶ言葉は、どれも生意気で口うるさい。じゃあ、もうストレートにいこう。
「今度は毎日、来てくださいね。あたし、彼女さんじゃないけど。でも、あなたが毎日ちゃんと来なかったら、心配しますから」
彼は、えくぼのあたりをポリポリと掻いた。そして、まっすぐ、あたしを見てうなずいた。
始まっちゃったな、と、あたしは直感した。
【了】
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