エピローグ 「親友」


 俺たちの住む街には、少し外れた山道を登ると小さな丘がある。住宅街を一望できる、この近辺では一番綺麗な場所だ。富士山に比べればどうしても見劣りするけれど、小さく聞こえるひぐらしの声と一緒に遠くを眺められるこの場所が、俺は嫌いじゃなかった。太陽が沈もうとしている今は、一日の終わりを示すような夕空が、この街を、そして俺たちを照らしている。

 秀樹はそこのフェンスに肘を乗せて、街と太陽を眺めていた。その指にはまたあのタバコが挟まっていて、煙がゆらゆらと踊って消えている。

 俺は逆に、フェンスに背を預けている。あのレストハウスの時と同じように、俺たちは隣にいながら真逆を向いていたけれど、今度景色を見ているのは秀樹の方だった。そして、何故か俺に視線を合わせようとしない。

「俺、高槻さんのこと、好きだったんだ」

 語りかけるような秀樹の告白に、俺は不思議と驚かなかった。

 いや……本当に知りもしない、普段だったら仰天するレベルの事実のはずなのに、今はどうしてか、心が落ち着いていた。

 まるであの五合目で話した時とは反対で、今度は秀樹の方がそわそわしているように見えた。

 秀樹はそれでも、遠くを見ながら感情抑えるように滔々とうとうと語る。

「覚えてないかもしんないけどさ……。俺な……実は小さい頃、海斗と高槻さんに会ったことあるんだよ」

「え?」

「小学生の四年だったと思う。俺が放課後、学校の連中にイジメられてるときに二人が駆けつけてきてくれて、そいつらと戦ってくれたんだ。そんでイジメっ子たちに向かって、『二度とこんなことすんな!』っつって、追い返してくれたんだ。突然現れて、ヒーローみたいにカッコよかったよ」

「あ……」

 そういえば、そんなことがあった。小学生の時の俺は柑菜に連れられて、色んな世界を見てた。年齢相応に活発で、柑菜と一緒に無茶なことも随分やってた。もう遠い昔のように感じられて、今の俺からすれば考えられないような大胆なこともやった。イジメられている誰かを助けるためにケンカをするなんて、柑菜とじゃなきゃ考えられないことだ。

「それで高校に入って、その面影のあるやつがクラスにいた。まさかと思ったけど、話してみてすぐに分かった。あの時のあいつだって」

「……なんで高校で会ったとき、ガキの頃のこと言わなかったんだ?」

「……」

 そこで秀樹は、気まずそうに沈黙した。タバコを一度くわえると、その白色が痛みを受け止めて少し縮まる。

「あの頃のお前、ひでぇ顔してた」

「え……」

「いつもどっか遠くにあるものを見てるような感じで、目の前にあるものなんか何にも映ってないみたいだった。……なんつーか、自分にとっての楽しいことだけが根こそぎ奪われちまったみてぇな、そんな雰囲気があった」

「……」

 そんなつもりは、なかった。

 だけど、高校入学当時。柑菜が入院してから一年近くが経っても、俺にとっては放課後病院へ行くことだけが、唯一の楽しみだったかもしれない。学校に行くことは、憂鬱とまでは言わないまでも、ひどく退屈だと思っていたかもしれない。

「たった一度きりだったけど、お前とあの子は常に一緒にいるもんだって直感してたんだ。……なのにあの子はお前の側にいない。あの女の子に何かあったのかって、不安になったんだ。それでその事情を知っているお前は、あんな顔してるのかって……。あの女の子と一緒にいた時のことを思い出させるのは、ひょっとしてタブーなんじゃないかって。……だから、言えなかった。

 随分あとにお前から、幼馴染が入院してるんだって聞いて、ピンときたよ。あの時の女の子に違いないって。……正直、病気なんて信じられなかったけどな」

 そうだ。なんだか妙に構ってくる秀樹に気圧けおされて、いつの日か言っちまったんだ。柑菜が入院していることを。そうしたら秀樹は、何故か猛烈に会いたがって、俺はこいつを病院に連れて行ったんだ。

「始めはお礼を言うつもりだったんだ。あの時助けてくれてありがとうって。本当はそこで、お前にも打ち明けるつもりだった。

 だけど……最初に会ったあの時。俺が思ってたよりも、高槻さんはずっと細い身体だった。盛大にケンカしてたのに、そんな姿になってるってのが信じられなくって……それを見たとき、俺の方が泣きそうになった。……だけど」

 そう、それでも柑菜は。

「高槻さんは、笑ってた」

 それが、柑菜の強さ。他人と接することで、得た強さ。

「入院してて気持ちが落ち込んでおかしくないはずなのに、すごく明るく振舞ってる。強いっていうふうにも思ったけど、同時に、すげぇ頑張ってるんだっていう風にも思えたんだ。だからそんなあの人を、今度は俺が守ってやりたいと思った……」

 そこで秀樹は台詞に一区切りを付けるように、もう一度ゆっくりと、ニコチンを吸う。まるで、これから自分にとっての一念発起をするように。ジリジリと音を立てながら勢いよく縮んだそれを自前の灰皿に乱暴に捨て、そうして口の中に溜まった白煙を、幸せを捨てるように吐き出す。濁った煙には、何か辛いものが含まれていたような気がした。

 そして――。

「はっきり言う」

 そこで秀樹はようやく、視界を景色から、俺に移した。

「お前に、嫉妬してたんだ」

 グサリと、まるで不意に刃を突き立てられたように、息が止まる。

 秀樹は、俺をじっと見続けた。目を逸らすことを自分で自分に許さないように。それが皮切りとなり、たどたどしくても、覚悟を決めて自身の内に秘めた感情を吐き出していく。

 俺も呼吸が止まったまま、目を逸らせなかった。

「昔から仲が良くて……最後の瞬間も一緒にいて。俺なんかじゃ……到底測れないような絆があった。

 毎日毎日、心が痛くて……たまに病室で高槻さんに会うとすげぇ嬉しいのに、決まってそこにお前がいることが……高槻さんの一番近くにお前がいることが、悔しかった。

 なんでそこにいるのがお前なんだ。どうして一番明るい笑顔を向けられるのがお前なんだ。お前が羨ましかった。お前が疎ましかったっ。お前が妬ましかった!」

「っ……」

 ズタズタに切りつけられ、身体中が痛かった。指先が痙攣して喉が飢えるように渇き、動悸が激しくなって全身が熱くなる。

「それなのに……心の中でお前のことをボロクソ言ってるのに、それでも親友なんだって言ってる自分の図々しさと浅ましさが、あんまりにも嫌いで、あんまりにも醜くて……それでそんな自分すら、なんだかんだって理由をつけて庇うもう一人の自分がいて、すげぇみじめだった……」

 秀樹もずっと俺を見ていたのに、でも最後に、俯いた。頭の半分を力強く覆う右手は、崩れ落ちそうな心を必死で支えているようにしか見えなかった。

「俺……」

 それが、最後の刃。

「お前のこと……憎んですらいたんだ」

 地獄へ突き落とすように低いその声を聞いた瞬間、最初は平静を保っていたはずの心がぼろぼろと崩れ去り、足元がふらつく。背後のフェンスに寄りかかっていないと、そのまま倒れ込みそうだった。

 これが、秀樹の真実。

 秀樹の抱えていた、隠していた想い。

 本当の、想い。

 俺は秀樹のことを、親友だと思っていた。秀樹のことを疎ましく思ったことなんかないし、憎んだこともない。たまに喋りすぎてうっとうしいと感じたこともあるけど、それに救われたこともあった。

 でも、秀樹は違った。

 色んな矛盾する気持ちと歪んだ想いを俺に向け、心の奥でドロドロとした強い負の感情すら抱いていたのだ。

 今まで知らなかった、親しいと思っていた人間の醜い感情。苦渋の混じった悪意。

 俺は、何も言えなかった。

 親友だと思っていた人間に心の中で憎まれていたという事実が、人生の奥底に沈んでいたトラウマを呼び起こす。

 ああ、まただ。またこれだ。

 だから嫌なんだ。他人と関わるのは。

 どうせ嫌われるから。

 どうせ……友達なんてのは所詮見せかけで、いつかきっと裏切られるから。

 幼い頃きちんと学んだはずなのに、俺はそれを、いつの日からか忘れてしまっていたのだ。

 きっと――柑菜と出会ってから。



「……そろそろ行くわ。悪い。俺から呼び出したのに……なんか、ただ吐き出すだけ吐き出して逃げるみたいになっちまって……。でも俺、ようやくになってこうして話しても……気持ちの整理とか、まだ全部ついてねぇんだ」

「……そっか」

 それしか言えなかった。

 秀樹は、泥の詰まったような足を重そうに運びながら、自分が乗ってきた車へのろのろと向かう。廃人みたいなその後ろ姿は、見ているだけで苦しくなった。

 ……なんで、俺が苦しくなるんだ。

 どうして、あいつまで辛そうなんだ。

 切りつけたのはあいつで、切りつけられたのは俺なのに。

 裏切ったのはあいつで、裏切られたのは俺なのに。

 ……でも。

「……なあ秀樹」

 秀樹は足を止めて、振り向く。その顔には、感情のままに自分の気持ちを吐き出してしまったことによる後悔が、べっとりと貼り付けられていた。

「俺のこと憎くても……俺のことを親友だって言う自分もいたんだよな」

 秀樹は答えなかった。首を縦にも横にも振らなかった。でも俺は、それを肯定だと信じて続ける。

「なら多分……俺もそうなんだと思う」

 細く締められた喉から絞り出すようにしてでも、俺は言う。

「とんでもないこと言われて、裏切られたみたいな気分になって、すげぇ傷ついたけど……でも、お前に感謝もしてる。お前がいなきゃ、柑菜をバイクにも乗せられなかったし、柑菜の願いもきっと叶えてやれなかった。それだけじゃない。これまでバカやれたのも、高校生活が病院以外で楽しかったのも、学校卒業してからなんとかやってこられたのも、お前のおかげだと思う。だから俺」

 これだけは、伝えなければいけない。

「それでも……お前のこと、親友だって言えると思う」

 そんな負の面を知っても……それでも、俺はこいつのいいところをたくさん知っている。それはきっと、今知ったばかりの悪いところよりもずっと多く、大きく、俺にとってはかけがえのないものだ。

 秀樹は、俺の後ろに神様でも見ているのだろうか。夕焼けを背にする俺のことがどう見えているのかは分からないけれど、とても神秘的なものを目の当たりにしているような顔をしていた。それから、何かに救われたように目をにじませて、小さく、一言だけ口にした。

「……ありがとな」

「いいさ」

 それからは、何も喋らなかった。

 俺たちには、それだけで充分だった。

 秀樹は、少しだけ重荷が取れたような足で今度こそ自分の乗ってきた車に戻り、エンジンをかけ、やがて走っていった。



 抱えている想い。そういったものは、確かに存在する。それは時に醜く、卑しく、汚いことがある。それでも、やっぱりその人のこと良く思う気持ちがあって。その人に支えられていることや、救われていることに気付く。そんな矛盾を抱えながら、人は生きていくのだ。

 すぐには、無理かもしれない。

 ずっと人を避けてきた俺にとって、急に人を好きになるなんていうのは。

 それでも俺は、あの山で、人の優しさを知ったことも事実なのだ。

 ある一人の、幼馴染のおかげで。

 あいつはいなくなってしまったけれど。それでも、教えてくれた。

 人を好きになれば、世界が違って見えるんだって。

 そうすればきっと……あいつがいなくなったこの世界でも俺は、希望を持って生きていけるかもしれない。

 強い心を持って、笑って、生きていけるかもしれない。

 忘れない。

 気が強くて、明るくて、いつだって元気で。

 でも実はロマンチストで、嘘をつくときに若干肩が浮いて、乙女チックで、寂しがり屋で、心が繊細で、……そして、もう一つ何かの秘密を抱えた、彼女のこと。

 俺も、自分の乗ってきたバイクへとまたがり、エンジンをかける。小さな爆音が響き渡り、小さかったひぐらしの声がさらに遠くなる。

 ヘルメットをつけ、しかしアクセルを捻る前にふと、空を見上げてみる。

「やっぱまだ……だよな……」

 今は夕方だから見えるはずもない。だけど、標高三七七六メートルには及ばなくても、ここではそれなりに綺麗な星が見えるのだ。

 寝袋越しに触れ合わせた身体。

 そして、背中に感じた細く小さな体温。

 たった一度きりだったけど、そこにあった温もりを、確かに覚えている。

 白馬の王子様に連れて行ってもらう女の子のような返事を思い出しながら、俺はバイクを走らせた。



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Last Night,Precious Night 甘夢 鴻 @higurashi080

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