5章 「秘密」


 微睡みの中で、誰かに身体を揺さぶられた。耳に微かな声も聞こえて来る。薄い視界がぐらぐらと横に動き、激しい地震が起きてるみたいだ。それでも頭は呑気なもので、これっぽっちも危機感がない。

「起きろって海斗っ」

「……柑菜?」

 電灯の光が見えたところでようやく、自分が今どこにいるのかを思い出した。

 富士山ではどんな時間に登山客が来るのか分からないので、常に一定の灯りは点いている。携帯のサブディスプレイを見ると、午前零時を過ぎたばかりだった。

 ……そんな時間に、なんで俺は柑菜に起こされてるんだ?

「どうしたんだよ……?」

「外出ようぜっ」

「外……?」

 疲れと寝ぼけで回らない頭を鈍く稼働させる。真夜中に外なんか出たら凍えるぞ。

「ほらほら、荷物持てっ」

「つったって……」

「いいもの見せてやるから」

 いいもの? 富士山の名物かなにかだろうか。でも、そしたら陽が出ているうちの方が良かっただろうし、そもそもこんな暗い中で外に出たりなんかしたら危ない。リュックに余計な物だって入れてないはずだし、何を見せるつもりなんだ?

 その言葉に釣られたわけではないが、促されるままにボケっとしたまま身体を動かし、重いリュックを背負ったところで少し眠気が吹き飛ぶ。

「早く早くっ。置いてくぞ」

 そう言う後ろ姿は、俺の知っている柑菜そのものだった。子供のようにはしゃぎながら、常に誰よりも前で明るく笑う柑菜。

 そんな柑菜に着いて行くのは、俺にとっては言葉にするまでもないくらい当たり前なことだった。

 だから今回も、俺はただ自然な成り行きに従うかのように、しょうがないと思いつつも柑菜の背中を追った。



「うわ……」

 思わず声を上げてしまった。“いいもの”の正体がすぐに分かったからだ。しかし言葉を続けようとしたら、不意に何かに口を塞がれた。柑菜の手だった。

「今は、まだ言うな」

 人差し指を口の前に立ててイタズラっぽく笑ったのが、真っ暗な中でも辛うじて分かった。それはガキのころ、秘密の場所に連れてってやると言ったときの表情と同じだった。

 突然起こされて、訳も分からないまま安定しない視界の中に連れ出されて、危ないとかそんなことを言う暇もなかった。というより、言っても無駄だということが分かってしまっているので、むしろ何も言えなかった。

 そのまま柑菜に連れられて、山の頂上の、さらに少し高いところまで歩いた。暗くてはっきりとは分からないが、丘の上みたいに周りが明けた場所だった。

 柑菜はそこで不意に足を止めて、「よしっ」と言ってから、俺の方を向きながら持ってきたリュックをバンバンと叩く。何だよ?

「海斗、寝袋出せ」

「は? 寝袋?」

「そ。ここで寝転がるんだよ」

 確かに、山小屋までたどり着けないまま休息を取らなければいけなかった時のための、いわば緊急用として寝袋を用意してはいた。だけど、ちゃんと寝られるところがあるのにわざわざ外に出てまで使うようなものじゃない。

 普段の俺だったら、そんな柑菜の妙な行動に何か文句を言うか、呆れたかしたかもしれない。でも、をまたチラと見ると、その考えもなくなった。

 リュックから取り出し、まだ慣れない寝袋に悪戦苦闘しながらも、なんとか二人並んでイモムシみたいにくるまり、空を見上げる形になる。

 するとまた、は見える。

「で? 海斗。さっき何を言おうとしたんだ?」

「いや……」

 別段、今更言うようなことじゃなかった。だけど、こうしてになってもう一度見てみると、やっぱり言わずにはいられなかった。例え、小学生並みの稚拙な内容であったとしても、それ以外に言葉がなかった。

「すげぇなって思って……」

 星空。

 ありとあらゆる夜を覆ってしまうような、全てを埋め尽くすほどの星が見える。思いつく限りのどんな星座だって描けそうな、宝石のような無数の光の粒。視界一杯に、一つ一つがその存在を主張するように燦然さんぜんと輝いている。霞一つの汚れすらなく、世界そのものを浄化できるとさえ思えてしまうほどの、奇跡のように綺麗な空だった。

 柑菜は、ありきたりな俺の感想に気分を良くしたみたいで、自慢げに鼻を鳴らすのが聞こえた。

「当たり前だろ? 日本で一番空に近い場所なんだから」

「ああ……」

 さっき山小屋を出た瞬間に言おうとした言葉は、柑菜に止められた。わざわざ口を塞いで、寒い中少し歩いて、寝袋にくるまるなんていう手間をかけてから、促すように聞いてきた。もったいぶらせて、自分の一番納得する形を相手に見せる。ウキウキとはしゃぎながら、その瞬間を待ち遠しく思っていたに違いない。つまらない感想を言わせるためだけに、いちいちこんなステージを用意しているなんて。こういったサプライズはあまりに久しぶりだったけれど、本当に柑菜らしかった。

 そう思ったところで、柑菜は透き通るような声で、不意に聞いてきた。

「なぁ、海斗」

「ん?」

「男女の友情って、信じる?」

「なんだいきなり」

「いいから」

 何を聞きたいのか判然としなかったが、そんなの考えるまでもなかった。

「当たり前だ」

 迷わず答える。

「お前とだって、しっかり親友だ」

「分かってんじゃん」

 快活な笑み。そこに他意があるようには見えない。一体なんだっていうんだ。

「なんか……ごめんね」

 突然しんみりした声で謝るから、酷く動揺してしまった。

「……なにがだよ?」

「あたしのわがままに付き合わせちゃって、だよ……」

「今更だろ。そんなもん」

「そういうこというな、バカ……」

 白い息が見える。なんとなく訪れてしまった沈黙が、空気を急に冷やした気がした。でも空は、そんな息が霞んで消えてしまうくらい、変わらずに煌めいている。

「あたしはさ……もうすぐ死ぬ」

 悲しみのどん底、みたいな声ではなかった。けどそれはきっと、前から知っていたというだけであって、死ぬことが悲しくない、という意味には聞こえなかった。

「でもね……こうして山に登ること……本当は、ガマンしようと思ってたんだ……。やろうとしてもできないことだと思ってたし……。海斗に頼んだとしたって……どんなに必死に頼み込んだとしたって、許してもらえないと思ってた……。どんなに疲れたって諦めてやるもんかって思っても、絶対に海斗にだけは止められるんじゃないかって思ってた。もし仮に登り始めたとしても、せいぜい数十、行っても数百メートル登って、それで終わらせられるかと思ってた。

 それが、バイクにまで乗せてもらって、こうして頂上にまで登って、星空を見上げることさえできてる。こんなの……実際は、思ってもみなかったのに。

 あんたはあたしの願いを……こんな無茶な願いを叶えてくれた。

 あたしの命より、あたしの心を尊重してくれた。

 だからあたし、今……すごく幸せなんだ」

「……なんだよ。急に」

 そう言ってくれることが、嫌なわけじゃない。これまでずっと我慢してきたことをようやく解放できて、それを幸せだと言ってくれるのは、柑菜に恩返しをしたいと思っていた俺にとって何よりの救いだとすら思う。

 だけど。

 そんな、まるで最後に言い残していることを吐き出すかのような告白に、心が黒く覆われる。これから本当に、霧のように消えるつもりなんじゃないかと、不安になる。

「なあ海斗、知ってるか?」

「何をだよ」

「あたしには実は、親友って呼べるのはあんたしかいないんだ」

「ん? ……んん、そうなのか?」

「だってそうだろ? あたしが入院してから五年。それまで友達だったやつで未だにお見舞いに来てくれるのは、もうあんだ一人だけだ」

 それはたしかに、本当だ。柑菜は男女関係なく、それこそ学年単位で多くの友人がいたけど……今はもう誰も覚えていないかのように、柑菜のところに来るやつはいなくなった。気が合うとは言っても、たまにしか来ない秀樹は、まだ親友の部類には入らないのだろう。

「どうしてだと思う?」

 柑菜に、親友がいなかった理由。いくら友達がいても、本当に親しいと呼べる者がいなかったわけ。

「それはな。……あたしが今まで、誰とも深く関わってこなかったからさ」

 海斗を除いてな。と付け足して。

「……なんで俺とだけ、深く関わったんだ?」

「海斗があたしと、似た者同士だったからさ」

 俺が? 柑菜と? 合点がいかない。

 俺はずっと、自分と真逆の柑菜に憧れ続けてきた。頭を巡らせてみても、自分と柑菜との共通点や接点、類似点は見つからなかった。

 顔が見えなくても、混乱してるのがたぶん伝わってしまったんだろう。

 柑菜は小鳥みたいにクスリと笑ってから、俺の思考を遮るように呼びかけてきた。

「海斗」

「なんだよ?」

「これからあたしの秘密を、あんたに話していく」

「どうしたんだまた?」

「あんたに、あたしの全部を知ってほしいんだ」

「まぁた変なことを……」

 なんとなくおかしな気持ちで言った。突飛なことを言い出すのは今に始まったことじゃないけれど。

 大体、全部を知ってほしいってなんだ。確かにここ最近に限っては柑菜のことで驚かされることは多かったが、あんなのは例外中の例外と言っていい。今何を考えてるかと聞かれたら、大抵当てられる自信がある。これまで、何年傍にいたと思ってるんだ。

「お前のことは、大体分かってる」

「あたしは実はロマンチストなんだ」

 いきなり虚を突かれた。今まで全く知らなかったような事実だ。

「なに驚いてるんだよ。あたしのことは大体分かってるんじゃなかったのか?」

「い、いや……」

 口の動きが鈍くなる。いきなり劣勢だ。

「そもそも、こうして星を見ようなんて時点でそのくらいは分かってもいいだろ?」

「んぐ……」

 って、柑菜のやつ、まさか。この星空が見たくてわざわざ富士山登りたいなんて言いだしたのか。深夜に起こしてまで、日本で一番空に近い場所から見る、星のきらめきを。

 いやいや、さすがにそんなまさか。

 柑菜はニヤニヤと笑いながら、おちょくるように続ける。

「あたしは嘘をつくとき、肩が若干浮くらしい」

「らしいってなんだよ……それも知らなかったけど」

「お母さんに昔言われたんだ。入院したばっかの時、あんたの前では明るくしてたけど、さすがのあたしも落ち込んでてさ。お母さんに心配かけたくなくて、ちょっと無理して気丈に振舞ってたんだ。だけどそれをあっさり見抜かれちゃって……。やっぱ親は違うわ」

 言葉自体は悔しがっているものの、柑菜は清々しく笑っていた。

 俺はなんだか負けてるような気持ちになって、やりきれない気持ちだった。次こそはと思っていた。

「あたしは実は、すげぇ乙女チックなことも考える」

「……なんだって?」

「あたしは実は、すげぇ乙女チックなことも考える」

 二回も言われた。全く同じ台詞を。聞き間違いじゃない。

「……た、例えばどんな?」

「そうだな~。身体を動かせなくなった自分の元に白馬の王子様でも来てくれたら、そりゃあキュンとくるな。そのままあたしを後ろに乗せて連れて行ってくれたら、すごいドキドキする」

「マ、マジか……。いや、でも、なんでそんなのに憧れたんだよ。お前の部屋に少女漫画とかなかっただろ……」

「あったんだなーこれが。本棚に置いてある漫画を何冊か抜き出して奥を見てみれば、一発で見つかるから。なんだったら勝手に入って見てってもいいぜー? きっと男子にとっては未知の領域だから驚くぞ」

「ん、んん……」

 さらにレベルの高くなってくる事実に、動揺が隠せなくなる。普段の柑菜からは想像もできなかった。

 柑菜はさらに、畳み掛けてくる。

「あたしは実は寂しがり屋だ」

「はぁ? お前が?」

「あぁそうさ。誰かと話したり遊んだりとかしてないと、すげぇしょげるんだから。知らなかったろ?」

「……あぁ」

 次々と明かされていく真実に、本当に、何も言えなくなってくる。何でも知ってると思っていたのにそれがことごとく覆されて、ひどく恥ずかしくなってきた。

 確かに柑菜は一人よりも、他の人間を巻き込むのが好きなやつではあったけど、普段の明るい様子ばかり見ている限りは、とてもそんな風には見えない。ひょっとしてこいつ、誰もいないたった一人きりの病室ではウサギみたいにしょんぼりしているのだろうか。

「そして」

 そこで柑菜は、一拍置いたようにして言った。

「そして、あたしの心は繊細だ」

「……嘘つけよ」

「嘘じゃないさ。誰かと話したり遊んだりははしたいくせに、そのくせ自分が他人にどう思われてるのか気になってしょうがなくて、嫌われてるんじゃないかって思うと、胸が張り裂けそうになるんだ」

「……ほんとかよ、それ」

 他人にどう思われてるか気になってしょうがない。

 信じられなかった。だって、いっつも楽しそうに多くの友人たちとはしゃいで遊ぶ姿を、ガキの頃に何度も見てきた。それが心の奥底では、不安に押しつぶされそうだったなんて。いっつも快活で、前向きで。他人に左右されない、自分を貫きとおすやつだと、そう思ってた。

「言ったろ? 海斗とあたしは似た者同士なんだ。それが分かったからこそ、あたしはあんたとは親友になったんだよ」

「俺は別に……」

 他人にどう思われるのかが怖い、なんて……今でもそんなことを考えてるわけじゃない……と、思いたい。

 そんなのは過去のことだと、思い込みたい。

 今はただ、……そう。積極的に、関わらないだけ。

 俺が口を濁していると、柑菜はまた続きを言い始める。

「それからさらに……」

「まだあるのかよ……」

 それからも、柑菜の様々な告白を聞いた。今まで知らなかったことを、たくさん知った。

 それは、これまでを思い返せば納得できてしまうことから、全く想像のしていなかったものまで、たくさん。本当にたくさん。

 そうやって柑菜が打ち明けて、俺がその度にバカみたいに動揺する。その会話は、俺がただただ滑稽に驚くことばかりだったっていうのに、まるでいつも病院で話しているかのような、それまでずっとしていたのと同じような、楽しい会話だった。

 反撃だとばかりに俺が曝け出したちっぽけな秘密も、実は柑菜にはあっさりバレていて、でも柑菜のことはやっぱり俺は何も知らなくて。

 でもそれは、全然嫌じゃなかった。

 裏切られたなんて気持ちもなかったし、新たに知ったことで嫌いになるなんてことも全然なかった。

 星を一つ一つ数えていくように秘密を明かすこのやりとりは、どうしてかとても心を穏やかにしてくれた。

 安心とか、安堵とか。そんな優しい感情がいっぱいに溢れて、満たしてくれた。

 なんでこんなに心地いいんだろう。

 何が入っているのか分からずに怯えていた正体不明の中身が、蓋を開けてみればとても暖かいものであったと気づかせてくれたように感じる。

 寝袋越しに身体を触れ合わせて、これまで辿ってきた人生の全てを思い出し、共有していった。

 綺麗な星空はいつまでも俺たちを見守ってくれていて、そこに無粋なものを挟んでくるようなことはしなかった。

 この夜のことを、俺はきっと、一生忘れることはないんだろう。

 とても当たり前に、とても自然に、そう思った。

 言葉がたとえ星の数ほどあっても、今このときのことを正確に言い表すことなんてできない。

 そんな、特別な夜だった。


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 全てを語り終えると。

 星空はそっと身を潜めるようにゆっくりと消えていき、代わりに天上は光が生まれるように明るみ始めた。

 気がつけば周りにも人が集まり始めて、寝袋にくるまっている俺たちを妙な目で見ていた。

「か、柑菜」

「そ、そうだな。そろそろ出るか」

 気恥ずかしくなりながら柑菜と一緒に寝袋を出る。

 すると、今までずっと上を見ているだけでは気づかなかったものが視界に現れ、目が奪われた。

 それは、頂上に登った直後とはまた違うまっさらな天空があって、そして眼下には波のように不定形な雲海が、何かを待ち遠しく思うかのようにうごめいている。目に見える一番遠くは、まるで雲の地平線だ。

 その下から、何かが生まれようとしていた。俺たちはそれの誕生の瞬間をただ見守り、そして、見惚れるのだ。辺りにいる人達が徐々にざわめく。

 そう。これも富士山の名物の一つ。

 御来光。

 日本最長から見る、陽の昇り。

 それは今、長い長い眠りから覚めるように、夜から輝きを取り戻していく。

 見えるのは、世界の全てを象徴するような光。頭上に塵ひとつない空を、淡くうっすらと虹色に染めていた。それは人間の目で見るにはあまりにも神秘的で、そして人間には絶対に作り出せない眩耀げんようを放っていた。その中心にいるのが、長きに渡り人類に崇拝され、四十六億年ものあいだ地球を照らし続けてきた星。

 太陽。

 それを目撃した瞬間、周りの人々からは奇跡を目撃したような歓声が上がる。

 知らなかった。毎日のようにその光を浴びて、時には鬱陶しいとすら感じるものが、こんなに綺麗に見えるなんてことを。

 目が離せない。ただ圧倒的に、飲み込まれる。あまりにも美しい力に。こんなものが世界を照らしているのだとしたら、崇められるのもおかしくない。これはまぎれもなく、神様を思わせる光だ。

「そうそう、あたしの秘密なんだけどな」

 すると、突然柑菜が前に出て俺の方を向く。

 神様の光を背中に受けて。晴れやかに笑う。

「最後に、一つだけ教えてないことがあった」

「……なんだよ?」

 あれだけたくさん語り合って、まだ話すことがあったのか。

 だけど柑菜は薄く笑い、首を振る。

「でも……これは教えない」

「え、なんでだよ……?」

「海斗に、直接気付いてほしいからさ」

「気付くって……」

 今更になってこんなおあずけをくらうなんて、納得いかない。目の前にご飯を出されて、待てと言われている犬みたいな気分だ。

「何に気付けばいいってんだよ」

「あたしのことを何にも分かってなかったあんたには、ヒントくらいやるよ」

 ……つーよりは、これはあたしの願いだな。ポツリとそう呟いて、柑菜は続けた。

「海斗」

 俺を強く呼んだ。

「人を好きになれ」

 優しくて、でも凛とした響きをもっていた。

「人を……好きになれ。そうすれば、世界が全然違って見えるから……」

 だけどその意味が、今ひとつ分からない。

「……なんだよそれ。恋でもしろってことか?」

「それでもいいけど、あたしが言いたいのは、厳密にはそうじゃない」

 緩く首を振って、また、俺を見つめる。

「人を信じろって意味だ」

「信じる……?」

 柑菜は、淡く笑う。それは早朝の病院で、バイクを見つめる時の表情とよく似ていた。柑菜が初めて大人っぽく見えた、赤子を抱く母親のような慈愛の笑み。

 今度はそれを、俺に対して向けていた。なんだか動揺して喋りにくくなってしまう。

「あんたはあたしがいないといっつもくよくよして、いじけてばっかだからな」

「……今は、そうでもねぇよ」

「でも、他人は怖いだろ?」

「怖いってわけじゃ……」

「他人に、踏み込めないだろ?」

 そこでようやく、俺は返す言葉をなくした。いや本当は、怖いだろという問いにも、否定はできなかったのだ。

 ……自分から人と接しようと思ったことは、確かにない。俺はいつも、誰かに話しかけられて親しくなってきた。

 秀樹も。水野さんも。……柑菜も。

 それは、他人が何を考えているか分からないから。腹の中で、本当は嫌っているかもしれないから。

 過去に刻まれた些細な恐怖が、今も胸をくすぶる。

「確かに人にはさ、秘めているものってのがある。打ち明けないこと……隠している心ってのがある。嫌な気持ちを抱えて、裏では憎んでいたりするかもしれない。

 でも、人は醜いばっかりじゃない。ちゃんと善意ってものを持ち合わせてる。それはここを登るとき、海斗だって感じたろ?」

「……」

 山登りをしているとき、たくさんの人が声をかけてくれた。見も知らぬ他の登山客や、山小屋の人たち。柑菜や俺の辛い表情を心配してくれて――中には降りるのを勧められたりもしたけれど――みんな応援してくれた。

 あの時には、裏の感情なんていうものは存在しなかった。露骨に嫌な顔を向ける人もいたけれど……だからこそ、そうやって気遣い笑ってくれる人たちが、本心では恐ろしいことを考えているなんて、思うことはなかった。

「ほんの少し勇気を出して自分が心を開けば、相手だって、心を開いてくれることがある。

 だから海斗」

 もう一度、強く、優しく言った。


「人を、好きになれ」


 それが、この場での最後の言葉だった。

 神様みたいな光を背にしてそう言う柑菜は、目も眩むくらいに神々しくて、今までで、一番見蕩れた。

 ようやく分かった。

 柑菜が山を登りたかった理由。

 けれど、バカにするなと怒鳴りつけたくなるような気持ちは、そこにはなかった。


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 病院の待合室は空調が程良く効いていて、残暑が未練たらしく残っている十月の街よりは居心地が良かった。だけどそれはどうしようもなく人工的で、地上三千メートルの高さにある自然とは全く違う空気で満たされている。これはこれで過ごしやすいが、心の奥をホッとさせるような安心感はなかった。

 隣に座っている血の繋がらないの姉のような人は、大人の微笑みで俺の言葉を待っている。そこには血の繋がらない弟を優しく包むありがたい包容力すら感じたけれど、俺は特に緊張することもなく真正面から切り出した。

「柑菜が病院を抜け出せるよう手引きしたのって、水野さんでしょう?」

「……分かった?」

 途端に表情を崩し、可愛らしい舌をペロッと出しながらいたずらっぽい笑顔で聞かれる。大人なのに、こういうことを自然にやるから接しやすい。

 それくらい分かる。患者の命に関わるようなことなのに、担当医の人が直接外泊許可を出すとは思えない。だったら、柑菜の受け持ちの看護師だったこの人が、何かしてくれたんだろう。

 三ヶ月前この病院で、言っていた。


 ――安心しろ。赤の他人に迷惑をかけるようなことは、絶対にしないから。


 柑菜にとってこの人は、迷惑をかけてもいいと思えるくらいの人だった。赤の他人なんかじゃなかった。それだけの話だろう。俺に散々迷惑をかけてきたのと同じように。

 水野さんはまた大人の余裕を含んだ落ち着いた雰囲気を出しながら言った。

「柑菜ちゃんは、海斗くんに人の善意を知って欲しいと願ってた。そして、他人と接することの楽しさも。自分がいなくなったあとも、海斗くんが希望を持って生きていけるようにって」

 その言葉が、柑菜のこの人に対する信頼の深さを裏付けていた。そんな話は、上っ面な関係の人間相手にはできない。本当に、姉のような人だったのだろう。

「そのためにはどうすればいいんだろうって、ずっと悩んでた。だから私、勧めてみたの。登山はどう? って。ホントは患者に勧めることじゃないんだけど」

 そう言って苦笑いをしてから、今度はどこか遠くを見つめるように天井を見上げた。

「私もね、昔したことがあるの」

「登山を、ですか?」

「うん」

 大学生の時だったなぁ……。と、懐かしそうに呟いた。

 ちょっと意外だった。普段の仕事をしている姿だけを見ていると(休憩中にこうして雑談はするものの)、他のことをしているというのは、想像ができない。

 でも人間、他の人が知らないところで色々なことをやっているなんて、当たり前のことなのだ。例え友人であったとしても、誰かに全てを打ち明けるなんて、そっちの方が珍しいのだから。

 昔を思い出すように、水野さんはゆっくりと喋る。

「初めてで慣れなくて、足も痛くて友達とひーひー情けないこと言ってた。でもね? 時折追い越したり追い越されたり、あるいはすれ違う人たちに、私も応援してもらったことがあるの。ああいう時に自然にエールをされると、不思議とその言葉が嘘とは思えないのよね。それでいて、ほんの一言二言だけなのに、すごく元気がもらえるの。

 登山はね、――中にはそういうことをする人もいるけど――競争じゃないのよ。みんな同じ、頂上へ登ることだけを目標として歩いてる。競っているわけじゃないから、他人を貶める理由がない。

 だから、――優しくなれる。

 他の人が無事でいられるようにと、心から願うことができる」

 過去から現在へと意識を戻し、俺に視線を向ける。

「柑菜ちゃんが入院してからずっと、どうしてあんなに明るく振る舞えたか、海斗くんは考えたことある?」

「それは、あいつが強かったから……」

「もちろんそれもある。柑菜ちゃんはすごく強い心を持ってた。だからこそ、少なくとも海斗くんの前でだけは、いつも変わらずに振舞うことができた。それは、五年間ずっと側にいた私はよく知ってる。

 でもね。それだけじゃない。柑菜ちゃんがあそこまで明るくなれたのは、他の患者さんがいたからよ」

「他の患者さん……? っていうか、柑菜って俺がどうとかなんて関係なく、誰に対してもいつだって明るかったんじゃないんですか?」

 水野さんは緩く首を振る。

「いいえ。柑菜ちゃんはむしろ大人しい子……ううん、もっと言えば暗い子だとすら言えた。だから海斗くんに会って、あんなに明るくなんでも喋っているのを初めて見たときは、私驚いたもの。

 柑菜ちゃんはきっと、海斗くんの前でだけは強い自分でいたかったのよ。自分は平気だっていう風に見せて、海斗くんの不安を少しでも減らそうとした。

 でもそれを実践するというのは、現実では想像を絶するくらいに難しいことで、実際にできただけでも柑菜ちゃんは、本当に強い心を持っていたとはっきり言えるわ」

 暗い、柑菜。そんなものは、いくら頭を捻ろうとも全く想像ができなかった。だって柑菜は、子供の頃からみんなに好かれていて、誰よりも前に立っていた。

 でもあの夜、柑菜は言っていた。

 入院したばかりの頃、俺の前では明るくしてたけど実際には落ち込んでいて、それは親にはバレバレだったって。

 そうだ。俺だって分かってたじゃないか。柑菜が本当は大丈夫なはずないんだって。実際は入院したばかりの頃、柑菜は既にボロボロになるくらいに傷ついていたんだ。……ただそれを、俺の前でだけは見せていなかっただけ。

 だけど、徐々に他の人に対しても同じようにできるようになっていったのには、別の理由があった。

「柑菜ちゃんは長いこと入院してたから、他の人にも結構知られてたの。特別若かったのも大きいわね。十五歳の少女が不治の病で入院なんて、人の心を痛めるには充分過ぎたもの」

「……」

 それは、そうだろう。俺だってそんなの考えたくなかった。柑菜自身なんて、もっとだろう。

 でも、他の患者さんとの関わり。

 俺が病院にいないときの、柑菜。

 俺の知らない、柑菜。

「柑菜ちゃんはたくさんの人に話しかけられて、誰とでも、性別も年齢も隔てなく接してはいた。

 けれど、最初は誰に対しても一線を超えることはなかったの。自分の決めた境界線には誰も入れることなく、また相手の境界線にも自分から踏み込もうとはしなかった。まるで常に電話越しで話しているみたいに。

 ちょっとした世間話も、お互いの回復を願う会話も、とても無難なもので、一般的なものだった。

 それは確かに親しいと呼べるものかもしれない。けれど言ってしまえば、誰にでもありえる関係だったのよ」

 自分と相手との距離。線引き。

 柑菜は言っていた。俺が、自分と似ていると。

 心の繊細だった柑菜は、自分が他人にどう思われるかをいつも気にして、ビクビクして、他人に深く踏み込めなかったのだと。

 俺もそうだ。俺の場合はさらに、表面すら取り繕おうともしなかった。いつも他人を怖がって、他人を遠ざけてた。だけど、それは柑菜より露骨だったというだけで、やっていること自体は同じだったのかもしれない。

 水野さんは、声に微かな明かりを灯して続ける。

「だけどね? 何度も何度も会話をして、色んな人の状況や、入院した経緯や、環境を知っていくことで、柑菜ちゃんも、心を許すようになっていった。

 あの人たちの言う言葉が本当に心からのもので、柑菜ちゃんの病気が治って、柑菜ちゃんの退院を望んでいる人がどれだけいるかを、少しずつ知っていったの。

 そうやって人の温かさに触れて、頑張ろうって思えて、明るくなれた。

 柑菜ちゃんが入院してからもずっとああして過ごせたのは、紛れもない、他の人がいたからなのよ」

 まるで過去にいた妹を愛おしく思い出すように、顔を綻ばせた。水野さんにとっても、嬉しいことだったのだろう。

「それで次第に、私にも心を開いてくれるようになった。色んな相談も受けたし、私も色んなことを話した。

 柑菜ちゃんが心の底から人の善意を知ることができたのは、入院してから一年以上も経って、ようやく気づけたこと。柑菜ちゃんは自分の心の支えになっていたことを、海斗くんにも知って欲しかった。

 でも柑菜ちゃんは……その問題をいつも先送りにしてた。

 海斗くんと楽しく話をしていたくて、真面目な話をすることを躊躇ってた。自分はまだ大丈夫。明日がある。明後日がある。もう少しだけ後でも。そんな状態が何年も続いてた。

 だけど……そうも言っていられなくなった」

 声の灯りが、少し暗くなる。

 そう。あの全てを突き刺すような激しい雨の日、俺にしがみつき、壊れそうになりながら言ったこと。

「遂に余命を告げられてしまって、柑菜ちゃんには本当に余裕がなくなった。

 だから、海斗くんに自分と同じように人の善意を知ってもらうためには、すぐにでも行動を起こさなければいけなかった。海斗くんは自分に似ているから、他人とただ話すなんて悠長なことをしていたら、間に合わないんだって」

「……でも、だからって登山じゃなくても。あんな無茶をしてまですることじゃなかったんじゃないですか? 確かに水野さんの経験とか、それで背中を押されたことも分かりますけど……。患者さん同士の会話で心を開いたっていうなら、別に病院で色んな人と話すとか、そういうのでもよかったんじゃないですか?」

「いいえ」

 水野さんは、珍しくはっきりと不正解を表すように言った。

「柑菜ちゃんが患者さんと仲良くなれたのは、あの人たちが同じ境遇だったからよ。たとえ病状の重たさや経緯が違っても、同じ患者さんということで、同調することも多かった。でも海斗くんは患者じゃない。病人から見れば、健常者でしかない。もちろんある程度仲良くなって、話すことはできると思う。けれど、そこには明確な違いがある。

 だから、海斗くんが短期間で人の温かさを知るためには、他の人も、全てが同じ場所にいなければならなかった」

「……」

 柑菜が考えていたこと。柑菜の想い。

 分かったような気がするけれど、色々なことが頭をぐるぐると巡って混乱してきている。

 そしてそうなると、一つだけ引っかかることがある。

「……じゃあ、富士山だった理由は? それなら、山でさえあればどこでもよかったんじゃ……」

「あら、分からない? 柑菜ちゃんは直接言うか、あるいはそうでなくとも行動で示したと思うけど」

 水野さんはまた表情を崩す。でも今度は、まるで何かを夢見る少女のように、朗らかで繊細な微笑みだった。

「柑菜ちゃんはね、どうしても海斗くんと、星が見たかったのよ。綺麗な星空を。海斗くんに人の善意を知って欲しいっていう本来の目的とは外れた、自分のわがままだっていうことは分かっていても。日本で一番高い場所から二人で星空を見上げるなんて、とてもロマンチックじゃない?」


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