4章 「山登り」


 歩き始めてしばらくの間は、登っている気がしないくらいの平坦な道が続いた。一度だけ、別れ道を通過した直後だけは少しだけ急な坂があったものの、そのあとはまた車が二台以上は通れそうな広い平らな道をずっと進んだ。

 山を登り始めて間もないうちから意外に思ったのは、他の登山客の何人かに、すれ違いざまに挨拶をされることだった。既に達成感と共に頂上へ登ったのか、それとも無念な思いを抱えてリタイアしてしまったのかは分からないが、そうして下山をしている人たちに、時たま「こんにちは」と声を掛けられることがある。

 正直驚いた。ほんの一言だけとはいえ、全く見知らぬ他人と会話するなんて。

「結構あるみたいだぜーああいうの」

 まだまだ元気な顔をしながら、柑菜は言った。

「どこの山でも、すれ違う人とは結構挨拶するもんなんだってさ。ご近所さんにするみたいな感じで」

「俺近所の人に挨拶なんかしたことねーぞ」

「昔あたしの家の辺りで結構されただろ? 海斗だってちゃんと返してたじゃんか」

「そりゃまあ、声かけられたから何か言ったとは思うが……」

 子供の頃、柑菜と精一杯遊び回って、家に寄らせてもらう途中。確かに買い物帰りの主婦の人たちから、よく声をかけられたものだ。でもあの人たちが最初に呼ぶ名前はいつも柑菜からで、俺はみたいな存在なんじゃないかと、当時はそんなひねくれた認識をしていた。

 柑菜と出会って間もない頃の俺は、みっともなく他人にびくびくと怯えている性格だったから、はっきりしない小言みたいな返事しか返していなかったような気がする。

「あの時の海斗は随分おどおどしたやつだったからなー。ま、今もそんな変わってねーか」

「んなわけあるか」

「いや、変わってねーよ」

 即答されたのでムッと来たが、いちいち柑菜のからかいに乗せられてたらキリがない。

 そんな時にもまた老齢の三人組とすれ違い、挨拶をされた。年齢の割に若々しく優しい微笑みをしていて、みんな男性だった。

 俺は未だに妙な思いをしながら、柑菜は明るく返事を返して、今まで知らなかった登山の風習のようなものに新鮮味を感じていた。

 そんな、自分たちにはほとんど関係のないことに考えがいってしまうくらいの余裕が、まだあったのだ。確かに疲労がないわけではなかったし、実際柑菜も疲れた顔はしていたものの、これなら休憩をこまめに挟めばいけるかもしれないと、そう思っていた。



 しかし六合目に差し掛かり、急な坂道が続いてきたあたりで、その甘い考えはボロボロと崩れかけてきた。

 レストハウスを出発してから約一時間。

 キツい。坂道を長時間登るということが、平坦な道を歩くのとどれほど違うのかということを、始めて知ったかもしれない。加えて背中には重たいリュックを背負っている。身体を軋ませる負担は、その地を踏みしめるたびに感じていた。

 柑菜も次第に息が荒くなり、歩幅が狭まるのも無理はなかった。

 三度の休憩を挟んでようやく六合目の安全指導センターに着いた今、柑菜はもう疲れきっていた。

 ひと段落ついたような場所に思えるが、これと言って座れる場所がないので、そこらの石に腰掛けるしかなかった。

「大丈夫か?」

「……あったり前だろ」

 明らかな強がりだった。もしこの場に医者がいたなら、確実に病院に連れ戻されてる。

 想像以上に、マズい。動悸が激しくなりながらそう思う。予想よりもずっと疲労の進みが早く、体力の限界が近い。

 今の柑菜の身体で、坂を含んだ道を一時間も歩くということがどれほど危険なのかを、ひしひしと感じるようになってきた。

 出発は五合目。頂上は九合目。そして今いる場所は六合目。

 事前に調べたこの六合目という場所が、頂上までの距離に対していったいどれほどの位置にあるのかを思い出す。五~九という数字が示すとおりの、五分の一なんかじゃない。そう、確か。

 十七分の一。

 気が遠くなりそうだった。こんなのをあと十七回も続けてたら、柑菜は確実に――。

 頭を振る。

 結局、柑菜の疲労を回復させるためにもう十五分は休んでいき、俺たちは再び、地獄のような坂道を登り始めた。



 六合目を過ぎた直後に、また坂が続いた。幅の広い階段のような段差がところどころにあり、柑菜はそのたび、キツそうに足を持ち上げた。普段の五倍ぐらいの重力がかかっているように、重そうに。

 俺も既に、柑菜に肩を貸していた。そうでないと柑菜はもう登れなかった。足の負担を杖と俺にそれぞれかけて、辛うじて歩けている状態だ。こまめに休憩を挟み、少しだけ一人で歩けるようになっても、すぐにまた肩を貸すようになる。

 柑菜の顔は悔しさと苦痛に歪んでいた。露骨な病人扱いされることを嫌う柑菜でも、俺を頼ることに躊躇はなかった。でもそれは逆に、柑菜一人の身体の限界を示していたのだ。強がりを言っても、それを自覚してしまっている。

 ジグザグな道が永遠と思えるほどに続き、視界が明けているだけに同じ景色ばかりが目に映る。違っているのは、地上よりも遥かに素早く流れる雲の形くらいだ。確かに坂を歩いているはずなのに、本当に登っているのかどうかさえ疑わしくなるほど、その道は終わりを示さなかった。

「……なぁ柑菜、あそこにある雲ってタバコみたいな形してねぇか」

「はぁ? ……あぁ、まあなんか似てるような気もするけど、なんだ突然……」

「いいから聞いてくれ……。無理に返事はしなくていいから……」

 実際のところ、呑気に喋ってる余裕なんかなかった。でも何か話していないと、目の前にある巨大なモノに押し潰れてしまいそうだった。三千メートルを超える、今も俺たちを無表情で見下ろしている巨大なモノに。こいつにとっては俺たちなんて、人間の身体を蟻が登ってくるほどの感覚もないんだろう。そのくせ俺たちの行く先には、いやらしいほどの苦痛を感じさせる道を用意している。

 終わりのないと思っていたジグザグに、一応の終点はあった。

 だけど道はなかった。三十度くらいの傾斜にデコボコと、肌から大きな膿が突き破ろうとしているかのように地面が盛り上がっている。だけどその表面はゴツゴツとしていて、少し削ってやれば、きっと砂利とは違う色の岩が顔を覗かせるんじゃないかと思えた。

 道には見えない。その両端に申し訳程度に張られているロープがなければ、行き止まりかと思ったかもしれない。それはまさしく、歩く場所ではなく、登る場所だった。

「……でもさ海斗、上に小屋が見える」

「あぁ……最初の山小屋だ」

 希望、というにはあまりに小さい。ちょっと座って休憩ができるだけだ。あとは多分、食べ物や飲み物がちょっと売ってる程度だが、それはもうリュックにあるもので足りている。それでも、何か目に見える物を目標にしないと、今は気負けしそうだった。

 横にいる柑菜を見るたび、息が苦しくなる。道の端っこなんかじゃなく、どこか落ち着いた場所で休ませてやりたかった。

 それが今は、上に見える屋根の着いた小さな建物だった。

「軍手出してくれ……海斗。……じゃないと、登れない」

「……分かってるよ」

 こんなものを目にしても、お前は諦めないんだな。弱音すら吐かないんだな。

 返事をしたとおり、柑菜がそう言うことは分かってた。でも俺は、正直挫けたくなった。自分は大丈夫かもしれない。でもお前は無理じゃないのか。

 その強さに、小さい頃から憧れを抱かずにはいられなかったけど、今に限っては心をキリキリと締め上げられるような痛みに変わってしまう。不安の痛みだ。

 それでも俺にできることは、柑菜を制止することじゃなく、柑菜を全力で支えることだ。手を伸ばし、つまずかないように、転ばないように。

 俺たちは登る。軍手越しに岩肌を握る力は、憎しみを込めるように強くなっていた。



 七合目の始まりであり、最初の山小屋である『花小屋』についたときには、服はすっかり汗を吸って気持ち悪さを纏うようになっていた。既に二七○○メートルまで登っているのに、歩き続けていると火にあぶられているように熱くなってくる。筋肉を伝い、じんじんとした痛みが脳まで響く。この足はいったい、ここまででどれだけの痛みと熱を吸ってきたのだろう。

 ここに着いた瞬間、力が抜けそうになった。

 実際、すぐ側にあったベンチに倒れこむように座った途端、二人とも一気に呼吸から精気が抜けていた。少しのあいだ腰を上げる気力がなくなり、身体はただ無意識に酸素を吸うことだけを欲していた。

 六合目を出発してから、三時間近くが経とうとしていた。ペースがかなり遅いうえに、休憩の頻度がかなり多いので、他の人の恐らく二倍以上はかかってる。登っている最中や休んでいる途中に、多くの人が俺たちを追い越していった。みんなそれなりに疲れてはいるようだが、柑菜ほど深刻な消耗をしている人はいなかった。

 ……いや。

 柑菜だけじゃない。俺自身の身体も、思った以上に悲鳴を上げていた。

 元々の、慣れていない登山というものに対する体力消費だけじゃない。柑菜よりも遥かに重たい荷物を背負い、柑菜に肩を貸し、柑菜の痛みの半分を請け負っていることで、通常の倍近くの疲労がのしかかってる。バイト以外で身体を動かすことのない今では、それは終わりのない奴隷の労働のような惨痛さんつうに等しかった。

 そして……荒い息を吐きだしたり、足を滑らせそうになったり、苦痛に顔を歪ませたり。柑菜が示す、そういったマイナスの一挙一動を見るたび、心臓が暴れまわって気が狂いそうだった。それは柑菜が……倒れてしまうことへの恐れだった。

 そんな精神の乱れが、身体に余計な負荷をかけていた。そうしてじわじわと頭を侵食され、時期に柑菜への心配にさえ頭が行かなくなってしまったとしたら。その想像は、目の前が真っ暗になりそうなほどに恐ろしいことだった。

「やっばい……」

 隣で柑菜が、座ったまま下を向いて言った。

「足震えてる……」

「でも、やめないんだろ……?」

 疲れで止まらない呼吸にタイミングを合わせるように息を吐き、同時に薄く笑う。座って休むことで、空元気が出せるくらいの余裕は回復したみたいだ。

「……あったり前だろ?」

「だと思った……」

「まさか、海斗はもうやめたいなんて言わないよな?」

「言わねぇよ……」

 言いたかった。もうやめようぜ。諦めて大人しく帰ろう。こっからの景色だって充分綺麗だ。心が洗われるくらいに清々しい。だからもう降りて、車の中で秀樹に今体験したばっかのこの辛さを目一杯聞かせてやろう。

 でもこいつが登る理由は、景色を見るためじゃない。それ以外の何かだ。そしてその何かは、未だ達成できていない。

 だから柑菜の選択肢に、“降りる”はない。

 それが分かっているから、やめたいなんて言えなかった。



『花小屋』以降は、安定しない階段みたいな道が続いた。それはまさしく岩と石でできた階段で、そのうえ狭かった。二人並んで登るのは危険を感じさせるほどで、一歩一歩に異常なほど気を遣う。

 それは、坂以上に体力を奪っていった。休憩で回復した疲労は十分もしないうちに消え失せ、再び灼熱が脳を焼き、足の筋肉が発狂して檻を叩き続ける罪人みたいに喚いている。デコボコとしているせいで、足場が安定しないことが一層神経を使わせた。少し進んでは休み、また少し進んでは休み。それを繰り返さないと、とてもじゃないが歩けなかった。それでもやはり、道の狭いところでは他の人の邪魔になってしまうので、好きな時に休憩ができるわけでもない。道から逸れた穴場を、必死に、目を尖らせて見つけ出すのだ。

 さっきよりも一つ一つの間隔が短くなった山小屋へ到着するたび、身を投げ出すようにベンチに座り、呼吸を整え、上気した頭をゆっくりと冷ます。そしてたまに軽食を取り、身体に活力を与える。でもそれは、足を一歩動かす毎にみるみる削ぎ落とされ、百歩も歩いた時には全てがなくなっているように思えた。

「疲れたかい?」

 七合目を出発してから約一時間。四つ目の山小屋になる『鎌岩館』のベンチに座っていると、しわがれた声が聞こえてきた。声の近さで自分たちに向けられたのだと理解してびっくりする。

 誰だ?

 そう思って顔を上げると、優しい顔をしたおばあさんがいた。たぶん山小屋の人だ。あまりにもぐったりしているから心配されてしまったのかもしれない。

 柑菜がくたびれた植物のような顔を上げて、弱く笑う。

「あっはは……ちょっと」

「お嬢ちゃんたち、登山は初めてかい?」

「はい、分かります……?」

「分かるさぁ。たくさんの人を見てきてからねぇ。お嬢ちゃんたちみたいに慣れてない感じの疲れ方をするのはねぇ、結構いるんだよ。でも、取り分けお嬢ちゃんたちは疲れてるように見えるけど、ひょっとして一番下から登ってるのかい?」

「いえ、五合目からなんですけど……如何せん体力ないのに始めちゃったもんだから、予想以上に辛くって……」

「そうかいそうかい。もし調子悪いようだったら、ここの救護センターで診てもらうかい? 他のところにはないから、今のうちだよ?」

「大丈夫です。備えの荷物もたくさんありますし、ばっちり休めばまた……」

「……」

 二人の会話を、まるでクラスメイト同士の談笑を眺めているようにして見ている自分に気がついて、心臓がズキリとした。

 俺は、何黙ってるんだ。喋るのさえ辛いはずの柑菜にばっか喋らせて、なんで俺は黙ってんだ。でも、初対面のこんな人にいったい何を話せばいいんだよ。

 たまに急に話を振られたけど、すっかり鈍くなっているこんな頭をフル稼働させたって、曖昧な返事しかできなかった。なんで柑菜はそんなにも、トークの上手い芸能人のように言葉がスラスラと出てくるのだろう。

 そうこうしているうちに、ここに来てからもうすぐ十五分が経とうとしていた。長く休みすぎると逆に身体が動かなくなる。正直に言えば永遠にここから動きたくないとさえ思ったが、それだと後で、もっと悲惨なことになる。頃合かもしれない。

「そろそろ行くか?」

「っと、そうだな……。ちぇー、いつでもホイホイと動いてくれりゃいいのになーこの身体も」

 んっ、と言って、杖を支えに勢いよく立ち上がる。たったそれだけのことで、今の柑菜はどれほどの体力を使うのだろう。

 俺もリュックを背負い直して立ち上がる。砂袋のような重さが肩にずっしりとのしかかってきた。

 おばあさんは腰も曲がって、俺たちよりもずっと小さな身体をしているのに、まだまだ生の世界に留まっていられる人のように見えた。穏やかに笑い、手を振ってくれる。

「気をつけてねぇ。無理はしないようにねぇ」

「はいっ……ありがとうございます

 おばあさんは最後までにこにこと、自分の子供にそうするかのように俺たちを見送ってくれた。



「優しい人だな……」

 隣で柑菜が、振り向きながら感慨深そうに言った。山小屋は見えるが、もうおばあさんの姿は見えなかった。

「……悪い。俺以上に疲れてんのに、お前にばっか喋らせちまって」

「何言ってんだよ。あたしたちのこと心配してくれたんだぞ? そんな人と話すのが、苦痛なわけないだろ?」

「いや、だけど……」

 あんなの、たたの会話じゃないか。俺は正直、疲れてるときに知らない人の相手をする余裕なんてない。いちいち気を遣うし、それこそ身体の負担とは別のモノがのしかかってくる。赤の他人と話すのなんて、しんどいだけじゃないか。

 でも。

 柑菜を見る。少しだけ、活気の戻った柑菜を。

 本当に、苦痛なんかじゃないのか。むしろ、ただ休むだけよりも回復しているようにさえ見える。

 俺にはその感覚が分からない。

「ったく海斗はせっかく話しかけてくれたのに、無愛想なおっさんみたいにむすっとしちゃってさー」

「むすっとって……。別に怒ってたわけじゃねぇぞ」

「知ってるよ。でもあんな風に黙ってたら、そういう風に見えたっておかしくないぞ。あの人、悪気があってあたしたちに話しかけてるように見えたか?」

「それは……」

 確かにあのおばあさんは、心から心配してくれたように思う。今まで自分が見てきた数多くの登山客の中から、俺たちが他の人たちよりも辛そうに見えたから、わざわざ話しかけて救護センターのことまで教えてくれたんだ。そこに悪意や害意があったとは思えない。

 だけど。

 そこまで考えたところで、また身体の中がじくりと疼いた。思考を強引に断ち切るような全身に響く痛みだった。

 そうだ。それよりも。

 今はもっと、考えなきゃならないことがあるだろう。この果てしない道中を乗り切るために、精神を磨り減らしてでも全力で支えなければならない存在のことを。他のことに気を取られている暇なんて、ない。

 思考が現実に帰り、砂利を踏みつける感覚が戻ってくると、また喚くような痛みが足から伝わってきた。

 先はまだ長い。



 次の山小屋である『富士一館』のベンチで休憩してる時も、知らない人から声をかけられた。隣に座っていた、青年を過ぎ去ったばかりに見える男性だった。たぶん三十にはなってない。格好から同じ登山客だということが分かる。

 のろのろと来た瞬間倒れこむようにベンチに座った俺たちを見て、怪我でもしてるんじゃないかと心配になったらしい。

「本当に怪我はないんですか? 身体に異常は?」

「だいっ、大丈夫、ですっ……。ホント、思ったより、キツくって……。登山って、大変なっ、なんですね……」

 柑菜が疲労でぜいぜい言いながら、飢えて気を失いかける旅人みたいな顔を上げる。そこに辛うじて笑顔を浮かべていること自体が、既に奇跡としか思えなかった。

 だけど、呼吸が危ない。

 心臓がドクドクと何かを急かすように動くのを感じながら、俺はポケットの中にあるものを握り締める。まだ《、、》大丈夫、、、なのか《、、、》。

 男性が険しい顔をする。

「ひょっとしたら高山病かもしれない。吐き気や目眩は?」

「いえ、平気、ですっ……。体力ないのに、無理して歩いたから……」

「もし本当に辛いなら、下山したほうがいいです。不調なまま登っては、命に関わる可能性もある」

 愛想がなく、寡黙な言動から少し威圧的な印象を受ける。

 でもそれは、気遣いの言葉だ。さっきのおばあさんと同じ、ボロボロの俺たちを心配して、その安全と、そして命を守るためにいくつもの道を示してくれる。

「あなたも、大丈夫ですか?」

 不意に声が近くなってドキリとする。顔を上げると、男性が柑菜ではなく俺の方を見ていた。

「顔色が悪いように見えます」

「えっ? あ、えっと……、大丈夫です」

「彼女を支えていたようでしたが、足を痛めたりはしていないですか?」

「だっ、大丈夫です」

 回らない頭では、同じ言葉を繰り返すしかできない。

 本音を言えば、体力の面でも精神の面でも、全然大丈夫じゃなかった。足は辛うじて神経が繋がっているだけの棒みたいになっているし、こうして限界の中で歩き続けて、いつ崩れてしまうか分からない。何者かにナイフでアキレス腱を狙われて続けているようで、もう気が気じゃない。

 連れのこいつが実は重病で、こうして歩いてるだけでもいつ倒れてしまうか分からない。どうすればいいんでしょう。

 なんて、正直に打ち明けられるわけがない。

 心遣いは嬉しい。

 けど同時に、俺としてはほっといてくれという気持ちもあった。

 こっちは今や、会話をするだけの労力すら惜しみたいんだ。話しかけられて、考えて、言葉を返すのが苦痛だった。ようやくって時の大事な休息なのに、それを奪われるのは勘弁してほしかった。

 でも、柑菜は違う。

 柑菜はむしろ、誰かと話す度に呼吸が整っていき、目は輝きを取り戻し、心はハツラツとする。

 それは、ここを登っていればすぐに消えてしまう程度の些細な回復だ。だけど、少しでも元気を取り戻して誰かと話している柑菜を見ていることだけは、俺にとっても救いだった。それは、柑菜がまだ今までのように生きていることの、生きていられることの、証のような気がしたから。

 何も知らない他人と関わることで英気が養われる人体回路は理解できないけれど、それは互いにとって良い薬となっていた。たとえその薬の使い方が違っていたとしても、今の俺たちには必要なことだったかもしれない。

 結局、男性は自分の分の水を差し出してくれたり、なんだったら下まで送ろうかとまで言ってくれたが、俺たちはそれらを丁重に断り、再び瓦礫のように苛烈で険しい道を登り始めた。

 しかし、こうも立て続けに話しかけられるというのは……つまり、俺たちは随分と目立つ存在なのだろうかと考えてしまう。でもすぐに思い至る。

 それも、そうなのだろう。いくら山登りなんて言ったって、身体を支えてもらいながら歩いてる人なんて、周りには一人もいない。みんながみんな健康で、自分の足で歩いている。病気持ちで、いつ倒れるかも分からないような状態で登ること自体、気が狂ってるんだ。



『富士一館』を出発し、その次の『鳥居荘』に着いた辺りで急激に寒さが増した。吐く息が既に白い。ほんの数十メートルの標高の違いが、体感では恐ろしいほどの差異を生み出していた。道端でさえ何度も休憩を挟んでいる俺たちはあっという間に身体が冷えてしまい、厚着をして手袋まで着けても、まるで血を吸われていくように体力を奪われていった。

 そのせいで『鳥居荘』ではなおさら長く休んでいることはできず、七合目最期の山小屋である『東洋館』に到着したときの消耗は、今までの中で一番酷かった。

 たとえ心が僅かだけ回復したとしても、ここまで登ってきたという事実は変わらない。道中でいくら休んでも、山小屋でいくら休んでも、歩けば歩くだけそれ以上に疲労はかさむ。ここまでのダメージを、身体はしっかりと刻んでいるんだ。

 柑菜は座りながら、真上を見ていた。

 ついに誰かと話す余裕さえ、全く感じられないように見えた。飢えで苦しみ、目の前にパンがあったとしても、それを咀嚼するだけの顎の力がなくなっているように。

 ただ、自分の中に溜まった絶望的に深い疲弊を、空に向かってゆっくりと吐き出しているように見えた。

 空。

 血の巡らない頭で、ぼんやりと俺もその視線を追う。

 風に晒されながらこうして見上げていると、さっきまで自分が何をやっていたのかが思い出せなくなる。身の回りのものが見えなくなり、青色と不定形な白が視界の全てを支配すると、さらにはどこにいるのかさえ分からなくなりそうだった。

 少しだけ正気に戻って、もう一度柑菜を見る。その目に空は、半分しか映っていないように見えた。もう半分は、考えることを放棄して路上に捨てられている粗大ゴミみたいに朽ちていた。

 ああ。これがあの柑菜なのか。

 疲れ知らずで、二十四時間走り回ったって明るく笑ってそうなあの柑菜が見せる表情なのか。病院で見たような悲痛な表情とも、壊れそうな儚い表情とも違う。

 それは、命の限界を示しているように思えた。風前の灯のような微かな命を、じっとして、必死に消さないようにしている。

 急に冷たい風が吹いて、思わず肩を抱く。この場に本当に灯があったなら、それが消えてしまうくらいに無情で強い風だった。

「行くか……」

 老婆みたいにかすれたのろい声が隣から聞こえた。それが誰のものなのかは、分かっていても考えたくなかった。

 柑菜は、本当に老婆みたいに力の入らない腰を、杖と俺の力を借りて上げ、ぐったりと人形みたいに顔を下げた。

 もう少し休んでいこうなんていう当たり前の判断すら、今の俺たちからは失われていた。

 柑菜は、疲れきった顔でもう一度チラっと上を見る。

「やっぱまだ、だよな……」

 そう呟いたように思えた。何のことを言っているのかまで考える余裕はなかった。



 俺たちは今、どこを歩いているのだろう。

 登っている最中、そんなことが頭をよぎった。疲労でまともな思考力を失っている。

 山道? 砂漠? それとも、地獄?

 朦朧とするほど歩いても、全身が鉛のように重くなるほど疲れても、血反吐を吐きそうになるほど苦しんでも、行く先には曖昧な中継点があるだけで終わりがあるとは思えなくなってきた。

 俺たちは今、何をやっているんだろう。

 なんでこんなことをしているんだっけ?

 与えられた動きを求められるおもちゃのように足を動かし、何かを考えることさえ放棄し始めた鬱陶しい脳味噌を詰め込んで、つまずかないようにと目だけは鷹のように研ぎ澄ませて、一体何を目指しているんだ? ここを登った先には何があるんだ?

 岩石みたいに重たい視線を上げてみる。

 そこでは、日本最長が俺たちを見下ろしていた。あるいは、見下しているのか。六合目から見た時と同じで、のっぺらぼうみたいにその表情を見て取ることはできないけれど、少なくとも歓迎しているようには見えなかった。

 でも、と思う。

 こいつよりも上は、存在する。

 それは青く、翼を持つ者にとっての世界で一番雄大な庭だ。

 背中に羽があって、それを羽ばたかせて飛んでいけたらどんなに楽だろう、なんて、今更ながらあまりにも都合の良いことを考えた。そうすれば、日本の一角にポツンと浮き出ているだけのこんなやつは、目じゃないってのに。

 そう思った瞬間、身体が急に軽くなった。一瞬、本当に空を飛んだのかなんて馬鹿なことさえ考えた。

 けど違う。

 自分が支えていたはずのものがなくなったからだった。身体の半分でしっかりと支えていたはずの、辛うじて生きていた幼馴染。

 柑菜。

 横には、倒れそうなほどに深くうずくまって奇妙な動きをしている柑菜がいた。不規則な痙攣とも思えるそれを見て、徐々に音が耳に浸透してくる。

 せる声。変調をきたしている呼吸。

 危険信号。

「柑菜ッ!」

 ヤバい。発作だ!

 そう理解した瞬間、全身の血が脊髄反射で駆け巡り、身体が咄嗟に動いた。ポケットに手を突っ込む。

 発作を抑えるための薬だ、これがないと止められないっ!

「あっ……」

 手袋をしてて、うまく掴めなかった。指先だけで勢いよく取り出したそれは遥か崖下へと落ちて、ゴツゴツと跳ね、やがて消えた。

「げほっげほっ! かはっ! げはっ! かっ、はぁっ、がはっ! ――っっッ!」

 危篤きとくに等しい呻きが耳を貫き、人間味のない奇妙な動きが目に焼きついて、沸騰している脳味噌がパニックを起こす。

 マズい。マズいっ!

 暴風みたいに頭が乱れ、痛み、狂い、判断力が奪い取られて、なのにたった一つの文字だけが烙印のように浮き出てきた。

『死』

 ずっと避けてきた言葉。今日だけは考えないようにしていた言葉。だけどこの期に及んで、いよいよ闇の底から這いずってその醜悪な姿を晒す。

 化物だ。勝てない。成すすべが無い。唯一あると思われたものは失われてしまった。

 やっぱり、無茶だったんだ。いくら休もうがいくらゆっくり歩こうがいくら他人に気遣われようが、こんな脆弱ぜいじゃくな身体で登ろうなんて。

 俺はなんて馬鹿で愚かだったんだ。こんなことになるって、最初っから分かってたじゃないかッ!

「ちょっと、君たち?」

 低くしゃがれた声が上から降ってきた。

 あれ? 俺はいつの間に膝なんて付いてたんだっけ? いやそんなことよりも、まずい。位置的に歩ける場所が少ないから、俺たちが邪魔なんだ。こんなときに。

 不運に不運が重なって、嫌な汗が流れ始める。どうしよう。この場を動こうにも、そんな場合じゃないってのに……!

 突然肩をグラッと揺さぶられて、意識が強引に戻される。見上げると、中年の夫婦が俺たちを見下ろして、……なんだか、心配そうな顔をしている。肩を揺さぶったらしいおじさんの方が声を掛けてくる。

「どうしたんだい? どっか悪いのかい?」

「あ、えっと――」

 そこで、柑菜がバシバシと自分の腰のあたりを、まるで救難信号を送るように叩いているのが見えた。 なんだ?

 思い当たる。それさえ忘れるほどに混乱してたなんて。無我夢中で柑菜の上着のポケットに手を突っ込み、今度はしっかりと握りしめて、取り出す。

 そうだ。もう一つ。非常時を考え、俺と柑菜とでそれぞれ持っていたんだ。その瓶の中の錠剤を一つと水を素早く取り出し、柑菜の口へと運ぶ。

「げほっ、げはっ! っ、……はぁ! はぁ!」

 柑菜の呼吸が戻り始める。けれど、これじゃあまだ視界も足もフラフラしていて危ない。しかも地面は今、デコボコの安定しない岩場だ。どこか落ち着ける場所へ行かないといけない。

 するとおじさんが、柑菜の左側の肩をすっと持って俺に叫んだ。

「そこまで運ぼう。君、そっち持って!」

「は、はいっ!」

 さっきまでそうしていたように、柑菜の腕を自分の肩に回し、自分の腕を柑菜の腰に回す。今は柑菜の足が動かないけれど、そこは、――もう一人が補ってくれる。

 冷たい空気を切り裂くように荒い息を吐き出しながら、一刻も早くと視線を前に向け、俺たちは手近な座れる場所を探し、一心不乱に向かった。



 なんとか近場にある、少しだけ道から外れたところにある岩に柑菜を座らせた瞬間、全身の力が抜けてヘタりこんでしまった。

 しばらくすると柑菜は呼吸が落ち着き始めていて、少しは話せるくらいに回復していた。

 おじさんは尚も心配そうに柑菜のことを見ている。

「は~、助かりました! 苦しくなっちゃって、どうしようかと」

「ひょっとして喘息持ちなのかい?」

「そうなんですよ。たまにああやって、息がしづらくなっちゃんです」

 適当なことを言ってる柑菜に突っ込みを入れる余裕すらなく、俺はぐったり力が抜けて、俯きながら座っていた。それはさっきまでの、疲労だけの疲れとは違う。

 そこには確かに、安心があった。

 命の危機を回避したことへの、安心が。

 よかった。本当によかった。それしか言葉がない。

「大丈夫ですか?」

 自分に掛けられた言葉のような気がして顔を上げると、夫婦の奥さんの方が俺に話しかけていた。しとやかな物腰で、見た目がとても若々しい綺麗な人だった。おばさんと呼ぶことに少し違和感すら感じるほどに。おじさんはまだ柑菜と話している。

「よかったですねぇ。彼女さんが無事で……」

「はい、なんとか……」

 優しい語調だった。初めて会った人だけれど、話していてもあまり神経質にならない。でも。

「喘息? にしては、随分辛そうでしたよね? あなたもすごく混乱してるように見えました。まるで命の危機だったみたい」

「あっ、と……それは……」

 本当に命の危機だった、なんて言えない。だけど、俺がなんて答えたらいいか分かんないでいると、奥さんは静かに笑ってくれた。

「いいですよ。無理に言わなくても。……でも、すごいですねぇ。身体が不利なのに、富士山なんて……」

 奥さんが感心したように柑菜を見つめる。察しがいい上に、優しい。

「あなたが誘ったんですか?」

「いえ、あいつが何がなんでも行きたいって言ったので、付き添いで……」

「そう。きっと、どうしても来たかったのね。あんなになってまで登りたい、なんて」

「……ええ」

 そう。どうしても、山が登りたいと。あんなになってまで。その理由は、まだ分からないけれど。

 奥さんがまた俺を見て、穏やかに微笑んで言った。

「しっかり、支えてあげてくださいね」

「……はい」



 それから、少しだけ話をした。柑菜はおじさんと、俺は奥さんと。登っていてキツかったところや、山特有の物の値段の高さとか、今も見える景色の綺麗さとか。

 初対面なのにとても話しやすい人で、会話をしていても全然疲れなかった。

 それは、この人が命の恩人だからというだけではないような気がした。そのたおやかな姿勢と優しい口調が、緊張で縛られている胸をほぐしてくれる。きっと、元々こういう人なんだろう。水野さんとは違うタイプだけれど、この人とはもっと話していたいとさえ思えた。

 だけど、しばらくするとおじさんと目配せをして、そろそろ行こうみたいな話をした。そうだ。本来この人たちは、休憩のためにこんな岩道の端っこにいるわけじゃない。偶然俺たちと鉢合わせてしまったからなのだ。

 奥さんがリュックを背負い直すと、おじさんの方が言う。

「君たちは、もう少し休んでいくといい。決して無理はしないようにね」

「はいっ、ありがとうございます。そちらこそ、お気を付けて」

 柑菜がそう言うと、感謝を受け取ったような顔をしてにこりと笑った。

「ありがとう。君たちもね。時間が被らなくて会えないとは思うけど、先に頂上へ行ってるよ」

 嬉しいエールだった。

 二人はひらひらと手を振ると、健康そうな足取りで道を登っていった。まだまだ先は長いけれど、無事登りきってほしいと、そう思った。

「助けられたな、あたしたち……」

「……ああ」

 本当に、あの人たちがいなかったら、どうなっていたか。

 諦めかけてすらいた。やっぱりダメだったと。だけど、ああして支えられてひと段落できる場所へ連れてきてもらったからこそ、こうしてまだ、なんとかなっている。

「……やっぱりいるんだよ、ああいう人たちは」

 突然柑菜が、胸の奥に染み込ませるように呟いた。

「ああいう人たちって?」

「他人のことを、心から気遣える人だよ」

 他人のことを、心から気遣える人。

 おじさんの朗らかな顔と、奥さんの優しい微笑みを思い出す。

 全く知らない他人である柑菜を助けることに、何の迷いもなかった。一緒に運んでくれたあとも、迷惑そうな顔なんてシワの一つ分もなかった。そこには純粋に、無事を得たことによる安心と、無事に話せることによる喜びが溢れてた。

 正直、すごいと思う。尊敬できる。俺には、とても真似できない。

 でも、ああいう人たちがいるからこそ俺たちは今、こうして呼吸をして、生きていることができるのだ。

 心がじんわりと、熱を持つ。

 誰かに対して、こんなに感謝したのは久しぶりだった。

 俺たちはその後、あの人たちの暖かさを深く深く感じながら、十分だけ休んで出発した。

 もう、絶望や恐怖に飲み込まれてはいなかった。



 かくして。

 息も絶え絶え。疲労困憊。……そして、命からがら。

 そんなになりながらも、ついに俺たちは、山小屋『太子館』へと辿りついた。そして同時に、八合目への到着でもある。

 標高三〇五〇メートル。頂上へはまだ遠い。

 だけどここは、これまでの山小屋と違って、辿り着くことで本当に安心できる場所だった。何故なら、

「予約していた、霧山です」

 待ちに待った、宿泊だからだ。一日で登りきることは元から不可能であると断じ、途中のどこかで泊まろうという話は病院で既にしていた。

 そして話し合った結果として、この『太子館』が選ばれたのだ。スタート地点の標高二三〇〇メートルから見て、頂上の三七○○メートルまでの丁度半分の高さに位置するここを最初の宿泊地点にしようと決めていた。登るだけでまるまる二日も使うという贅沢な計画だった。

 朝から昇り始めて既に八時間近くが経とうとしていて、日が沈み始めている。暗くなる前に来られてよかった。光の届かない夜に岩場を歩くことは、きっと昼間なんて比にならないくらいの危険を伴う。五合目からであれば、普通ならば一日で登りきってしまう人が大半だが、俺たちはそうもいかないのだ。

「は~! 疲れた~!」

 山小屋に入り、食堂にある椅子に座った瞬間、柑菜はそう言った。

 俺としても、それ以外に言葉はなかった。明日があるとはいえ、今日はもうこれ以上登らなくていいんだと思うと、気が抜けた。

 そして、辛いだけだったはずの疲れが、今は心地よくさえ思える。ここまで来られたんだという充実感と満足感。こんな感覚、いつ以来だろう。

 夕食に出たカレーはえらく美味かった。正直見た目は安っぽいし、都会で食べたらきっとマズい部類にすら入るだろう。でも、ここまでの苦労を乗り越えた末の本格的な食事は、一日の終わりとしては格別の褒美だった。柑菜も今回は、最後の一口まで食べることができて、満足な顔をしている。

 生きているからこそ、味わえるものだ。

 寝床は布団ではなく寝袋で、そんなに寝心地が良さそうには見えなかった。高所にある山小屋に贅沢は言えまい。

 そういえば、万が一のためにということで携帯できる寝袋を二つ持ってきていたが、この分なら使わずに済みそうだった。標高のせいですっかり冷え込んでいるこの山で野宿をするなんて、洒落にもならなかった。

「なあ海斗」

 寝袋の上に二人で座り、さあ寝るかというところで、柑菜は首をもたげて俺の肩に頬を乗せてきた。とても安心できる場所に身を委ねるように。

 それは早朝、病院でバイクに乗せた時のことを思い出させた。ヘルメット越しに背中に触れた、弱々しげな頭。

「どうした?」

「あたし、もうへとへとで、すっごい疲れて、今にも気を失うくらいの勢いでばったり眠っっちゃいそうなんだけど……、でも……明日になれば、大丈夫だから。あんたがいれば、絶対、大丈夫だから」

 それはともすれば、弱気なものに聞こえたかもしれない。前向きで強い柑菜が、あまり口にしない類の台詞だった。でもそこには確信があった。心配なんていらないという確信が。

 俺がいるから、と言う。

 思えばこんな風に、柑菜に心ごと寄りかかられたことなんて、今までどれだけあっただろう。俺がいつも、その背中を負うばかりで。柑菜が俺にすがることなんて、病院にいる時だってなかった。何かの些細なことを求めるのとは違う、本当の、心からの願いを叶えるために、俺を必要としている。

 柑菜は言う。

「頼りに、してるから」

 その言葉が、胸に染みる。

 決意ばかりで、俺はろくに柑菜の力になることなんてできていない。発作の時だって、満足に助けてもやれなかったのに。あんな無様な姿を晒しても……まだ、信じてくれてるんだ。

 だから、自分に発破をかける意味で、今度こそ同じ過ちは繰り返すまいと誓いを立てるように、力強く言った。

「任せろ」

 ボロボロになって、何も考えられなくなるくらいに大変で、挫けそうになったけれど。

 でも、前向きな気持ちで、明日を迎えられそうだった。



 起きたのは朝の五時だった。

 日が落ちてからそう時間の経っていない内に眠りについたので、昨日一日の疲労を丸ごと抜き取ってくれるような、久々に満足できる長い睡眠だった。夢も見ず、こんなにガッツリ寝たのは久しぶりだった。

 横にいる柑菜も、目覚めたばかりだっていうのに目がバッチリ開いている。状態を起こすと勢いよく伸びをし、思いっきり息を吸って、

(……よく寝たー!)

 叫びのニュアンスを含んだ精一杯の囁き声だった。周りではまだ寝てる人が大勢いるのだ。

「これ一度は言ってみたかったんだよなー。でもなかなか言えるようなシチュエーションってのがなくってさ……」

「俺もそれ、ちょっと思った」

 目は覚めていても呑気な会話だった。頭が冴えていたって、俺たちはいつもこんなだ。

 朝食を食べて軽い準備運動をし、荷物を整えてから山小屋を出る。大勢の登山客のにおいが消えて山の大気を直に浴びると、着ている服に寒さが打ち付けられる。朝の山は雪国みたいだった。

 だけどゆっくりと深呼吸をすると、血の巡りが良くなり、神経が鋭敏になって、頭のてっぺんからつま先までが細かに動かせるように感じる。冷たいけれど、驚くほど透明で綺麗なのだ、ここの空気は。

 眼前にある景色を見る。驚くほど透明で綺麗なのは、目の前に広がるこの佳景も同じだ。息を呑むほど圧倒的で、人間という存在がいかにちっぽけなのかを痛感させられる。

 それでも、半分登ったんだ。小さくても、遅くても、確実に前へ進んでる。それに伴う苦しさは、恐ろしいとすら感じるけれど。

 でも、大丈夫。俺がいることで柑菜が大丈夫なら、俺も大丈夫だ。

 杖を握り締め、重たいリュックを背負う肩に力を込めて、柑菜に呼びかける。

「行くか」

「おう」

 力強い返事だった。病院の時とは違う。

 字面通り、そして人生においても山場となるであろう、この登山計画。

 それもきっと、今日で最後だ。



 やはり、道は困難だった。

 柑菜には肩を貸したし、気分としては疲労が全て取れたように感じても、身体は正直に痛みを訴えている。歩き始めて三十分もすれば、毒が広まるように前日の足の痛みがジワジワと蘇ってくる。

 けれど、慣れというのか。昨日よりもどういうペースで歩き、どの程度の休憩を挟めばいいのかという容量が掴めたような気がする。それによって過剰な無理をする前に身体を休めることができて、気を張り詰めすぎずに登れている気がする。

 何度か発作も起こった。だけどそれも、昨日みたいに取り乱すことはなく冷静に対処することができた。そもそも昨日の発作だって、本当はもっと早く起きると思っていたのだ。けれど予想に反してそれは遅く、疲労が限界を越えた先だったということが、あの場では頭を狂わせた。いくら止めなければ命の危険があるとは言っても、薬と水を飲ませるというだけのことを冷静にやれば、どうってことはないのだ。呼吸が乱れるので、発作の直後はじっくりと道端で休み、落ち着くまでそこに留まる。寒さで身体が冷えてはいくが、軽く身体を動かしつつ雑談をしていると、そこまで酷く消耗することはなかった。

 それでも、登山客や山小屋の人たちに何度か声を掛けられた。前日より余裕があるとは言っても、身体を支えながら歩いているのは、どうしても目立つのだ。

 だけどそんな時も、柑菜は明るく振る舞えてた。あからさまな無理しているのではなく、そこには自然な明るさがあった。

「大丈夫ですか?」

 また、あるいは逆に柑菜の方が、そう言って他の登山客に話しかけることもあった。俺たちよりもずっと早いペースで一日を歩き続けた人たちのところに寄っていって、気さくに、でも馴れ馴れしすぎないように、まずは一声。

 話しかけられた人たちは、みんな最初は驚くものの、すぐに顔を綻ばせて笑いかけてくれる。ぐったりした表情から、元気を取り戻すように。それは昨日の柑菜と全く同じだった。

 でも、たまに違う人もいる。

 それは俺のように顔を伏せている人や、少し嫌そうな顔をする人。何故かそういう人がはっきり見て取れる。

 最初はどうしてなのか分からなかった。でも、昨日までの自分や柑菜を思い出してみて、気づいた。

 心に、余裕がないからだ。

 取り繕う暇もない。だから顔が、正直になる。

 うっとうしい。めんどくさい。

 嬉しい。楽しい。

 疲労が溜まっているのは俺たちだけじゃなくて、ここにいる人たちみんなが同じだから。そう思ってみると、人の顔がみんなありのままに見えるような気がする。

 今こうして陽気に喋っている人は、陽気な人。

 今こうして親切に先にある注意を教えてくれる人は、親切な人。

 今ここにある笑顔が、嘘でないと分かる。

 だから俺も、この場においては他人と自然に話すことができた。

 それは、自分でも驚いてしまうほどの変化だった。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないけれど、それはまさに、驚愕と言えた。

 初対面の人と話すのは、いつも苦手だった。どうにも距離を感じて何を話していいのかも分からず、かといって自分から相手に近づきたくもない。そんな複雑な思いが頭を無意識に巡って、口はいつも重たかった。

 だけど今日は、相手の考えていることが分かるから。相手との距離が、自然に測れる。どんな話をすればいいのか、逆にどの程度話をしなければいいのかが、自然と分かる。

 初めての他人との会話が苦痛じゃない。

 そんな風に思ったのは、いつ以来だろう。

 昨日と今日を通して、俺の中で何かが。漠然とした何かが。ゆっくりと氷解していくように感じていた。それが何なのかは、分かりそうな気がしそうで、でもやっぱり、はっきりとは分からなかった。



 一番キツかったのは、八合目最後の山小屋である『御来光館』を過ぎたあと。

 標高三四五○メートルよりあとは、頂上まで山小屋が一切ない。そこでは凄絶な足の痛みと、疲れと、熱さが全身を巡った。気持ちの問題なのか、道端で休んでも山小屋ほどの回復は感じられない。

 頭が朦朧としてきて、息をすることさえ辛かった。砂利の道が生命を吸うように体力を奪っていき、地面を踏みしめる足には水で固まった砂が詰まっているように思えた。大きな石や小さな岩の全てが意思を持って足に食らいついてきているように感じて、杖を突く力はそんな彼らから身を防ぐように切実に強くなっていた。身体の全てが重い。

 柑菜も既に元気がなくなっていて、今ではぐったりと俯いていた。ただつまづかないようにと必死に足元だけを見て、繊細に歩く。

 まるで、昨日の再現そのものだ。

『太子館』を出るときのような前向きな気持ちが、薄れかけてきている。考える力が削り取られているのだ。

 けれど、天に続いているかのような長い長い階段を歩いていると、上に何かが見える。

 二匹の白い狛犬と、高くそびえる鳥居。

 道の左右にいるその獣は石でできていて、固くいかめしい表情をしながら放浪者を黙して見守る。その奥に控えている鳥居は獣と同じく汚れのない白色をしていて、陽の光に反射して輝いているように見えた。

 何かで見た気がする。つい最近。多分この山を調べているときに写真で見たものだ。でも、何を示しているんだっけ?

 思い出す。

 あれらは確か、そう。

 この山の、間もなく頂点に立つ人間を迎えるためのものだ。

 ――つまり。

 ゆっくりと足を前へ、上へ出し、獣の真ん中を通り抜ける。

 そして、もう一つ。最期の場所。

 それは白くて、高くて、でも細かなところが欠けている表面は、時代を感じさせた。それもそうだ。俺たちよりもずっと長い年月をここで過ごし、日本という国をずっと見渡してきたのだから。

 一歩。一歩。

 歩いていると。ふと、変な考えが頭をよぎった。何でこんなときに思うんだろう。こうして壊れそうになりながら懸命に足を動かしていると、辛いとか、苦しいとか、もうすぐとか。そんなことは頭から綺麗さっぱり抜けて、たった一つのことだけ、感じる。

 生きてるって、感じる。

 これまでの自分の人生はこの日この時のためにあったのかもしれないとさえ思える。

 柑菜の願いを叶える、この時のために。

 そして。

 そこを潜り抜け、微かに続いていた階段を登りきると、まさに待ち構えているように、一つの建物が鎮座していた。まるで表札のように側に佇む石碑には、『富士山山頂浅間大社奥宮』と刻まれている。

 久須志神社。

 この長い長い道の、終点。

 目の前にはもう、上へと続く段差も階段もなかった。

 振り向くと、そこには――壮観な、風景が。

 日本最長の眺めがあった。

「……やったぞ」

 腕を少し動かして、柑菜の身体を揺さぶる。

「やったぞ柑菜……! 頂上だぞ……!」

 柑菜はずっと下を向いていた顔を上げ、そこに映るものを見た。

 日本で一番太陽に近い場所から見る、その雄大で、圧倒的で、心が震えるほど壮麗な景色を。

「うぁ……」

 柑菜は、目を見開き、何か信じられないものでも見ているように、遠くへ続く地平線と雲の波を見ていた。

「すっごいな、これ……。あたしたち……ホントに登ったんだな……」

「あったり前だろ……? だいたい、ホントにってなんだよ……お前諦める気なんて、さらさらなかったじゃねぇか……」

「……そうだな」

 すると、支えていた身体から急に柑菜の感触が消えた。また倒れたのかと思って一瞬背筋が冷えたが、違った。

 柑菜は笑っていた。

 杖を持った両手に額を押し付けて。

 やった。

 ただ一言、そう語っている顔だった。

 しばらく俺たちは、その場から動けなかった。この瞬間においてだけは。疲労はなく、時間を超越して全てから解放されたように感じていた。

 とてつもなく大きな偉業を成し遂げたように絶大な達成感をその身に浴びながら、そこに座り込むことすらなく、ただ時折吹く強い風に、心を、揺らしていた。



 いくつも連なっている山小屋近辺では大勢の人がごった返していて、まるでお祭りに来ているみたいだった。人が多くて迂闊に歩けず、俺はまだ柑菜を支えながら、柑菜は俺に支えられながら、ぼけっとつっ立っていた。

 同じこの場所にいる人々の声は疲労のにじんだ充足感に溢れていて、ここでは誰の顔も清々しく輝いていた。そんな人たちの声が、喧騒となってたくさん聞こえてくる。

「つっかれたぁ~!」「でも登りきったなぁ!」「おい、土産買おうぜ土産」「その前に杖に焼印入れようぜ」「メシは~? もう倒れそう」「もう少し我慢しろ」

 本当に、たくさんの人がここにいるんだ。

 ここへ来るのに苦労したのも、ここで感動を味わうのも。みんな知らない人だけど、みんな同じ想いをしている。俺たちだけが死に物狂いで頑張っていたような気がするけれど……そうじゃないんだ。

 そして他にも聞いてみると、妙な会話も聞こえてくる。

「あ、さっきはどうも」「大丈夫でしたか? ここへ来る直前は大変だったでしょう」「えぇ。でもおかげさまで、なんとかこのとおり」「良かった。あんなことだけで平気かどうか、心配していたんです」「とんでもない! とても助かりました」「そう言っていただけるなら嬉しいです」

 どうやら登山中に初めて出会って、この場所で再会したようだった。俺たち以外にもここで救われた人がいるんだな、なんて、そんなことをぼんやりと思っていた。

 頂上へは登りきった。まるで全てのことから解放されたような気でいたけれど……気分が落ち着いてくると、どうしていいのかが分からなくなってきた。

 そもそもここへは、柑菜の願いを叶えるためにやってきたのだ。ここを登ることは手段であって、目的ではない。

 横にいる柑菜を見る。

「明日」

「え?」

 俺のことを察したのか、最初の一言よりも先制される。

「あたしがここを登りたかった理由。明日、教えるよ」

 だから今日は、休ませて。軽やかな笑顔で、そう言った。

 それを一刻も早く知りたいとは思ったけれど、疲れているのも事実だった。昨日『太子館』に着いた時と同じで、今はもうへとへとだった。

 それに、気を揉む必要はないのだ。辿り着くべき場所には、到達できたのだから。



 予約していたもう一つの山小屋である『山口屋』へ着いてからは、もはや引きこもりのように一歩も外へ出ることはなかった。お鉢巡りもしなかったし、土産屋にも行かなかったし、食べ物も飲み物も何一つ買わなかった。中にあるテーブルにべたりと突っ伏し、冬眠して春が来るのを待つ熊のように身じろぎ一つしなかった。身も心もくたくたで、山頂の趣を楽しむどころではなかったのだ。

 ひょっとしたら一生に一度しかないであろうチャンスを見る見る棒に振って、実にもったいないと思いもしたけれど……でも、それでいいのだ。

 それでも、俺と柑菜は笑ってた。

 肩に背負った重たい荷物を置いてイスに座った瞬間……まるで盛大に暴れるだけ暴れまわって、果てには疲れて寝てしまう子供のようにぐったりし、それから……二人して破顔した。

 身体は全然動かなかったけれど。そのせいで山頂の趣を楽しむことはできなかったけれど。

 子供のように、いつものように、病院にいるときのように。

 そうして話しているだけで、俺たちはいつだって笑っていられたのだ。

 やがて日が沈んできて辺りが暗くなると、山小屋の中は大勢の登山客で一杯になった。暑苦しい上に空気がこもり、汗や土のにおいが辺りに充満してくる。

 色んな人がやってきていた。

 ゴツい体つきの体育会系男子。メガネをかけた気弱そうな男の人。人生を深く噛み締めているような中年の男性。若い人には負けないぞと意気込みを感じる老年近くの女性。友人と一緒に来たらしい女子大生。

 今ここにいるのは、みんな俺や柑菜と同じ。ここを、自分の足で登ってきた人たちなのだ。

 そんな中で食べる食事は、まるで学年全体で食べる修学旅行の夕食みたいだった。知らない人ばかりだけど、不思議な連帯感があるような気がする。狭苦しくて悠々自適とは言えなかったけれど、この場にいるということだけで、そんな不快なはずの気分もどこかへ吹き飛んでしまった。

 やがて時間が経ち、腹の中もいい具合に落ち着いてきてそろそろ寝ようかという話をしている頃だ。

 ここまで、本当に何もしていない。

 ただ山を登って、頂上にたどり着いて、宿泊場所でのんびり過ごしているだけ。これじゃあ疲労を余計に背負っただけの遠足と変わらない。

 明日になったら教えると言っていたが、そもそも何故明日じゃないといけないのかも分からない。疲れているから明日に回したいだけ?

 考えてもさっぱり分からなかったが、布団(ここは寝袋ではなく布団だった)に入る前に、念のため釘を刺しておいた。

「ここまで来といてなんも教えないとかナシだからな」

「分かってるよ。ったく、ちったぁあたしを信用しろ」

 コツンと指で額を叩かれる。ジト目をしている俺を見ながら柑菜は淡く微笑む。珍しい表情だった。

「今じゃできないことなんだ。だから、今日はもう寝ようっ。ほらほらっ」

 そう言って、無理矢理布団に押し込められる。その行動的な態度は柑菜らしいようでいて、その姉のような仕草や表情は柑菜らしくもないように思えた。

 聞き分けのない弟にするかのようなそのやり方に釈然としないまま、今はもう何をしても無駄だろうと判断して、大人しく目をつむる。

 やはり疲れていたのだろう。さっきまで感じていなかったはずの眠気が波のように襲ってきて、視界と意識が一気に暗くなっていくのが分かった。

 そう。

 やるべきことは、終わったのだ。

 だからあとは、待つだけ。

 明日。そこで、全てが分かる。

「……おやすみ」

 小さく何かが、聞こえた気がした。


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