3章 「タバコ」
バイクでの道のりは、快適だった。
車と違って、大気を直に浴びながら駆け抜ける。それは、風を薙ぎ、空気を切り裂いてでも前へ進むということ。その上この『XJR400』というタイプの車種は、空気抵抗を減らすための外装がないため、前から来る太刀風みたいな暴風を直にその身に受けることになる。しかし、それに
人間という
もちろん運転している時は、そんな風に舞い上がってる場合じゃない。きちんと意識を正常に保って、自分の命を守るために集中していなければならない。
が、柑菜は違った。俺と違って運転をしていない柑菜は基本的にフリーであり、危険な行動にさえでなければ何をしてもいい身分だった。後ろに乗っているぶん、当然身体に感じる空気抵抗は微々たるもので、俺に比べればずっと負担は少ないはずだった。
だけど、柑菜にそんなことは問題にならなかった。むしろ丁度よかったかもしれない。仮に運転でもしようものなら、頭のネジが吹っ飛んで暴走してたかもしれない。
さっきまでのしおらしさのようなものはどこへやら。道路に出始めて一分と経たない内に柑菜は台詞にならない叫びをあげ、身体をがくがくと揺らす勢いではしゃぎ始めた。
パトカーのチェックはするからもっとスピード出せとか、もう少し急な曲がり方してもいいぞむしろやれとか。風が身を吹き抜ける中で、俺に聞こえるようにずっと大声でいろいろと調子のいいことを言っていた。
流れる景色。吹き
それでも――ヘルメットを叩かれ、肩を揺さぶられ、耳元で叫ばれても――富士山まではどうしても長旅となったので、多少強引になろうとも途中で何度か休憩を取った。周りに見えるものが都会のビル群や遠くに小さく見える住宅街から、山道を彩る木の壁へと変わっていったことで、次第に柑菜も落ち着きを見せるようになってきた。
いよいよ富士山に突入し、道路は段々と簡素なものへなってゆき、代わりに空の色が様々な顔を覗かせるようになった。
しかしそれでも、山の変わりやすい天気の中で雨に降られなかったのは幸運だった。予め調べてはおいたものの、地上の天気予報は山ではあてにならないと聞く。荷台にレインコートを雑に縛って乗せていたものの、それを着て走るのは実際キツいだろうと思っていた。
幸先の良いスタートに、心が少しだけ奮い立った。
富士山の五合目、標高二三○五メートルに位置する富士スバルラインでは、平日朝だっていうのにざっと数えて百人以上の人がいた。それでもレストハウス前の広場にはまだまだ余裕があって、人がまばらと思えるくらいだった。なにぶん来るのが初めてなのでこれが多いのかどうかは判然としないが、少なくとも駐車場が三分の一も埋まっていないのを見る限り、どうやらピークと呼ぶには程遠いらしい。頂上ではないとはいえ、二千メートルを越えた高さでは溶けるような暑さの地上よりだいぶ涼しくなっていて、秋の風に吹かれているみたいで心地いい。
手すりの向こうは、既に絶景だった。麓の樹海の先に見えるのは、何よりも綿密な色彩をもって描かれたような小さな街。東京タワーより高い場所から下界を見下ろすのは生まれて始めてで、汚れのない空気を吸っていると、自分がいま都会とは
柑菜も、自然が生み出す圧倒的な眺望に息を飲んでいる。見た者の目と心を掴んで離さない透明な力が、その風景には、確かにある。
「……やっぱ、写真とかで見るのとは全然違うな」
「お前が山を登りたかったのって、こういう景色が見たかったからか?」
「こんなすごいの、見たくなかったって言えば嘘になるけど……それも、根っこの理由じゃないな」
「じゃあ――」
いや。多分、答えないか。
壊れそうになりながら
今はまだ言えない、と、柑菜は言っていた。
もしそれを聞けるときが来るのだとすれば……多分、このあとに待ち受ける地獄のような苦難を乗り越えた先になるんだろう。
言葉を止めた俺の考えを見抜いたのか、柑菜は俺を見つめてへらっと笑うと、後ろを向いた。
「それよりさ、まだ時間には余裕があるんだろ? あそこ寄ってこうぜ! なんかいろいろありそうだし!」
名残惜しい佳景に背を向けると、私立の学生寮くらいの大きさのレストハウスがあった。正確には、そのレストハウスに食堂やレストランが連結していて、結果として、この富士スバルラインを象徴するようなデカい場所になっている。
この高度の気圧に慣れておかなくてはならないために早く来たので、確かに秀樹との待ち合わせまではまだ時間があった。
レストハウスの中は予想以上に広く、退屈しなかった。いくつかある土産屋を回っていき、その時々で新鮮な気分を味わった。
柑菜はもうすっかりいつもの調子を取り戻し、早朝の振る舞いなんてなかったかのようにテンションが高かった。思えばこいつが遠出をするなんてのは小学校の遠足くらいで、他にこういう旅行気分みたいなのはほとんど味わったことがなかったはずだ。ひょっとしたら今、かなり楽しんでいるのかもしれない。
一応秀樹が持ってきてくれるものの中に軽食は入っているのだが、記念だからと言って少しだけ余計に買った。どうせ大した重さにはならない。金は幾分かかったが、今日に限っては構わなかった(ちなみに柑菜は金を持っていないので、今回の費用は全て俺持ちだ)。
柑菜と二人でレストハウス内を一通り回り、朝メシも食っていなかったので景気づけも含めて食事もした。富士山にちなんだ見た目の催しはしているものの、ただの牛丼やカレーが千円もして唖然とした。俺の金がみるみる減っていくのを楽しそうに見ていた柑菜だったが、
しかし、
「……ごめん、ごちそうさま」
食事中。頼んだ牛丼が半分以上残っているにも関わらず、口に運ぶ手の動きが段々と遅くなっていき……ついに柑菜は、箸を置いた。
「お前……そっか」
「うん……胃が病院食に慣れちまってんだ。急にこんなガッツリは食えねぇわ、やっぱ」
生ゴミみたいに皿に残っている牛丼を見て、急に息苦しくなる。低くなっている気圧のせいじゃなかった。
今の今まで忘れていた事実が、俺に思い出せと警告しているようだった。
意識しなくちゃ、いけないんだ。いくら髪を整えて小奇麗な格好をしていても、いつもより健康そうに見えていても。この高槻柑菜という幼馴染が、余命僅かの人間であるということを。
「……くれよ。お前のぶんまで食うから」
「……バーカ。腹壊しちまえ」
さっきまで浮かれていた気持ちが萎縮して、潰れそうになるのを、精一杯こらえたかった。おまじないのようなものでもよかった。
こいつの分まで食って、こいつが動けなくてもその分だけ俺が支える。そういう気持ちを込めた。
これから長時間登ろうってのに腹は必要以上に満たされ、柑菜以上に動けない状態になって、二人で笑いあった。本当はこんなことしてる場合じゃないのに。でもそれでよかった。マイナスな気持ちのままでここを過ごすことだけはしたくなかった。
待ち合わせの時間。
それは膨れた腹が元に戻り調子が落ち着いてきた頃に、ちょうどよくやってきてくれた。
駐車場へ戻ると、見覚えのある車と、それに寄っかかっているもう一人の親友の姿があった。今回登山するにあたって、なくてはならない存在だった。
柑菜がぶんぶんと手を振ると、向こうもそれに気づいて軽く手を上げる。なんだか、その姿を見るのがひどく懐かしく感じた。
「高槻さん久しぶり」
「やっほ~中村くん! 今日はありがとな~荷物持ってきてくれて! まったく海斗が使えなくてさ~!」
「ホンットだよな。バイクに高槻さん乗せながら登山道具持ってくくらい自分だけでなんとかしろって話だよな」
「てめえやってみやがれ」
後部座席七割を占める量をバイクでなんか運べるか。
二人は尚も俺のことを情けないだのニブいだの実は猛烈にエロいだのと、遠慮って言葉だけをそっくり忘れたように好き放題言い合っていた。息がぴったりの漫才みたいにその口は止まらず、そして出てくる台詞は俺への罵倒中傷批判だけなのだから恐れ入る。
柑菜は身体だけじゃなく口を動かすことも大変達者で、一度喋り始めればなかなか話題を切らさない。毎日病院で雑談ばかりしていても話が尽きないのが良い例だ。秀樹も秀樹で、普段はどこか一歩引いたような落ち着いたところがあるくせに、気に入った話題になると頭の中が高校生になってしまうのが玉に
思えば秀樹は、柑菜に少しだけ似ているような気がした。
この世で二人しかいない親友の一人である秀樹は、いつの日か俺がポロっと言ってしまったことで柑菜のことを知った。それで何を思ったか知らないが、あるとき俺と一緒にお見舞いに行きたいと言い始め、それがきっかけで柑菜と知り合い、以降度々病院に足を運ぶことがあった。
元々友人を作りやすい性格をしている上にどことなくノリが似ているからなのか、二人は形の合ったパズルのピースみたいに意気投合し、気安く接することができる間柄になった。
柑菜にとっても、俺と家族意外に唯一来てくれるお見舞い客なので、たまにしか来なくても嬉しがっているようだった。俺としては、互いを一対一で相手する分には構わないのだが、二人揃うとたいていこうして俺への話題(主にマイナス方向)に転ずるので、ときおり逃げ出したくなった。そのまま酸欠になって力尽きてしまえと思う。
「おい。そんなことより道具出すからドア開けるぞ」
「あっ海斗お前、ぐうたらでだらしなくて猛烈にエロいだけじゃなくて空気も読めねぇのかよ」
強引に話を断ち切ろうとしただけでこれだ。あと猛烈にエロいをまた言うな。
とにもかくにも、空気の読めない俺の行動で二人の掛け合いはひとまず収束させた。そもそも、時間だって有り余っているわけじゃないんだ。
秀樹の乗ってきた車の後部座席を開けて、ドデカい二つの塊を取り出す。パンッパンに膨らんだリュックサックだ。一つは重く、もう一つは極力軽くしてある。二つとも同じものを入れて同じ重さにしたら、身体の弱い柑菜にはキツくなってしまう。だから二つの中身はまるで違うものばかりが入っている。それからトランクを開けて着替えも出す。長時間歩くのに適した、登山用の服装だ。
これらが、今回登山するにあたって秀樹に車で運んできてもらったものだ。とはいっても、実際のモノは俺が全て用意して、秀樹はただそれを車に乗せてきただけだ。それじゃあただの運び屋みたいだな、なんて秀樹は言ってたが、認識としては概ね合ってる。細かい注文を伝えて秀樹に揃えてもらうより、何が必要か最初から分かってる自分で用意した方が早かった。ただそれをここまで持ってくる手段を俺は持ってなかったために、こうして秀樹の手を借りることになったということだ。
無理矢理に会話をぶった切られてブーたれている柑菜に服の半分を押し付けて、俺たちは一度レストハウスに戻り、トイレへ着替えをしにいった。
秀樹はひらひらと手を振って、また車に身体を預けた。
着替えて戻ってくると、柑菜はまだいなかった。車の前では俺たちを見送った時と全く同じように、愛車に寄っかかっている秀樹が立っていた。
そういえばあのとき以来、まともに話してなかった。最後に会ったのは、今日のために持ってきてもらった道具を預けたときだったが、あの時はバイトの時間が迫っていてろくに話さなかった。
なんだか、気まずい。まるで二人の間に、見えないヒビ割れのようなものを感じる。
でも見ると秀樹は、いつものように気安く笑っていた。どうしてそんな顔してんだよとでも言いたげに。……なんだよ。ひょっとして気まずいと思ってるのはこっちだけなのか。
俺はただ立っているだけのことさえ億劫に感じて、秀樹の車にうつぶせになるように身体を乗せる。背中を預けている秀樹とは、隣にいるのに反対を向いていた。
普段は二人で話すことの方が多いはずなのに、さっきまでのように柑菜がいない状態だと、今は何も話すことができない。まるで言葉という意志を持った集団が、
そうして何も言えないまま蘇ったのは、あの
そうして、辛うじて思い浮かんで外に出そうになった、たった一つの言葉は、だけど……謝罪でも、詫び言でもなかった。
「……ありがとな」
「いいさ」
刺のない、柔らかな声だった。そのことに、暖かい毛布で包まれたように安心できた。
電話越しに鼓膜を刺していった鋭い針のようなあの声。今も痛むくらいに、深く耳に残っている。
嫌な思いをさせたと思う。俺だって、自分が同じ内容の電話をもらったら、ふざけんなと怒鳴りつけたくなるだろう。
こんな無茶な頼みを聞いてくれた。こんな頼みの片棒を担いでくれた。申し訳なさや謝りたい気持ちが、頭を後悔で埋め尽くすほど渦巻いた。
ごめん、とか。すまない、とか。悪い、とか。
でもそういう言葉は、ひどく言い訳じみていて、そしてみっともなく思えた。ここまで頼んでおいて、今更言い訳もなにもない。
だから今は、感謝の言葉だけを言うべきだと、そんな気がした。それがこの場を最も、優しくしてくれそうだった。
すると秀樹は、おむむろにポケットからタバコを取り出して、その中の一本を口にくわえ、ライターで火を点けた。思わず目を剥く。喫煙してるとこなんて、始めて見た。
「……お前、タバコ吸うのか」
「普段は吸わねぇよ。こういう、なんか特別なときだけ吸うって決めてるだけだ」
特別なとき。多分悪気はないであろうその言葉に、胸がキツくなった。
それはきっと、何か心が重くなったときや、ひどくしんどい時なんじゃないかと、ふと思ってしまった。静かに煙をふかす親友の姿が、これまで見てきた中で一番大人で、でも一番頼りなくて、一番小さく見えたから。
どうしようもない後悔とか、それに反論するための弁明とか、だけどそんなことをしても背けようのないくらい目に付く心の傷跡とか。そういうどうにもならないしんどい気持ち。
そのタバコは、そんな自分の痛みを代わりに引き受けてくれる、身代わりのようなものなんじゃないかって。
「……山で喫煙はよくねぇぞ」
「いいんだよ。ここから上には登らねぇんだから、俺は」
そういって、チラと俺のことを見てから肩を軽くドツく。
「こっから先は、お前次第なんだからな」
「分かってるよ」
それからは、何も喋らなかった。
ただ何かの儀式を行うように、色んな思いを、霧散する煙に流すための時間を共有した。その細いニコチンは、痛みを受け止める度に短くなり、白く
周りの喧騒が妙に小さく聞こえた。まるで心の隙間がそっと身を潜めるときのように静かな時間だった。
重たい沈黙じゃなかった。苦しい沈黙じゃなかった。
だけど、ただ、ただ、寂しい沈黙だった。
秀樹がタバコを吸い終わる。
ひょっとすると、それがこの静かな空間を打ち消す合図だったのかもしれない。指で挟んだ寂しさの象徴がほとんど茶色だけになって、自前の灰皿に捨てたまさにそのとき、ちょうど柑菜が戻ってきた。
俺たちの間に流れていた空気になんかまるで気づいてなくて、無邪気な子供みたいに軽やかに歩いてくる。
「悪い悪い。遅くなって」
「いいや、ちょうどいいくらいだ」
「? 何が?」
「なんでもねぇよ」
そう言って俺はリュックを二つ持ち、軽い方を柑菜に渡す。そして登山用の杖を片手に持った。これで準備は万端だ。
柑菜は、今は雲に隠れて見えない頂上を一瞥してから、秀樹の方を向いた。
「じゃあ中村くん、行ってくるな」
「あぁ、気をつけて。待ってるから」
柑菜は頷いて、歩き出す。
待ってるから。その言葉は、秀樹自身の願いであり、柑菜にとっても励みになる言葉だ。
俺は、何も言わなかった。
言葉はもういらない気がした。さっきのタバコを吸う時間で、秀樹とのやりとりは全て済んだ。
強い眼差しに見送られて、俺たちは高くそびえる日本最長に向けて一歩を踏み出した。
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