2章 「お願い」


 柑菜の様子がおかしくなったのは、それから二週間ほどが経った、六月の中盤のことだった。梅雨真っ只中の、どんよりと湿った空気が纏わりつく気持ち悪い雨の日だった。ボツボツと全てを突き刺すような激しい雨音が街を支配していて、歩いても佇んでも億劫になる。

 それでも俺は、今日も病院へと足を運んでいた。雨の日だろうが雪の日だろうが、お見舞いに行かなかった日はなかったのだから、今日も同じようにここへ来るだけだ。

 ――依存、なのか。

 またそんな考えが、頭をぎる。無意識に、首を横に振っていた。考えたくない。そんなことを考え始めたら、思考が沈鬱の沼に沈んでしまうような気がしたから。

 柑菜に会おう。そうすれば、こんな考えなんかドブにでも捨てて馬鹿な話ができる。何も考えないで気軽に、へらへらと笑って過ごしていられるんだ。

 まるで麻薬のようだなと、心の泥が呟いた。聞こえていないふりをした。



 異変は、扉を開ける前に気付いた。

 いつものように、病室のドアの前で面倒なノックをし、柑菜の能天気な返事を待っていたというのに、その時はどうしてか、返事がなかった。いつも会いにいくこの時間に寝ていることは滅多にないし、部屋から出ていることもまずない。

 そんな変化が、何故か見えない手に心臓を握られているような感覚に陥らせて、ひどく胸をざわつかせた。空調の行き届いているはずの病院の廊下が、外と同じくらいに湿っている気がした。

 意図はしていないのに、「入るぞ?」と言った声は小さく震えそうになっていた。そして、やっぱり中から返事はない。

 出直そうという選択肢は浮かばなかった。

 取り敢えず、寝ていることを頭の片隅に入れてなるべく音を立てないようにだけはしようと、扉はゆっくり開けた。カラカラと横に開いていく音がやけに空虚に響いて、冷たかったドアノブは一瞬にして手汗で生暖かくなっていた。

 病室は、真っ暗だった。

 窓から差し込む空が微かに室内の輪郭をおぼろげに浮かべているものの……電気は点いておらず、どんよりとした雨雲のせいで、暗闇が世界のように部屋を覆いかけていた。

 そんな、全てを飲み込んでしまいそうな闇の中。目当てのシルエットを見つけて安心し、束の間。息を飲んだ。

 柑菜はいた。ベッドから上半身を起こしていて……何故か、右手には開いたままの携帯電話を持って。その顔にいつもの快活さは欠片もなく、まるでペットの無残な死に際に立ち会ったような顔をしていた。

「どうしたんだよ……?」

 自分の声は、かすれていた。

 時間が流れるということが、これまでの人生の中で一番恐ろしい。刹那的にそう直感した。今から、一秒だって未来に行きたくない。たとえどれだけ沈黙が肉体を締め付けようとも、これ以上先には今この瞬間なんか比にならないくらいの殺人的な絶望が待っているに違いないと、身体の全神経が泣き叫んで伝えていた。

 それでも、時は進んでしまう。どうしようもなく残酷に。

 この足が前へ出されてしまう。どうしようもない焦燥に駆られて。

 逃げ出したいとさえ思った。全部見なかったことにして目を背けて、今日も馬鹿な話をして終わったのだと記憶を暴力的に書きかえて、何事もなく退屈なアルバイトに勤しもうと、そんな現実逃避をしたいという欲求に強く駆られた。

 でも、逃げられない。

 あんな、吐息に触れただけで壊れてしまいそうな救いのない顔を見てしまったら、逃げ出すことなんてできない。そんなことをしてしまったら、後悔で身が裂かれてしまう。

 だから今、この息苦しい気配に包まれた空間においては、何をしても何をしなくても、前に進んでも後ろへ逃げても、希望のない道しか残されていなかった。だからこれ以上身体が血を流さないように、立ち止まるという選択肢をもって、時が止まって欲しかった。

「かい、と……」

 死にかけた虫のような声が聞こえて、それが柑菜の声だと気付くのにしばらくかかった。普段の明朗快活とは真逆の、もはや生きている人間であることすら疑ってしまうような有様に、言葉が返せなかった。

 知らないうちに歩み寄っていた俺に、縋るように、柑菜は触れた。降り注ぐ淡雪を摘むような、毛ほどの弱さしかない指先が服の一部を挟み。そしてしなだれるように、頭が腹部に当たる。重みを感じないそれは、空気のそれと変わらないような気がした。

 なのに、金縛りにあったように全身は動かない。きっと引き離そうと思えば、よろけるだけでこの指先と小さな頭は、ベッドの白いシーツへと身を沈める。

 だけど、できない。それをやってしまえば、きっと心臓を繋ぐ血管が切れるように、全てが終わってしまうような気がした。か細い力が、この場では命を繋ぎとめる唯一の、祈りのように悲しい結び目だった。

 皮膚が、泡立つ。頭がぐらぐらする。目眩がする。息が苦しい。耳鳴りがして鼓膜が痛い。動脈が暴れて身体中が痛い。

 身も心も悲鳴をあげておかしくなりそうな沈黙の中。

 暗闇が包み込む世界で、雨音だけがうるさいくらいに響いていた。


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 余命を告げられた。

 柑菜は、そう言った。

 早くて三ヶ月。もって半年。

 明確に示されたリアルな死の宣告に、柑菜の心はボロボロになった。

 全く心の準備がなかったわけでは、ないと思う。柑菜だって、自分の身体が軋みを上げて限界に近づいていることは誰よりも、側で見ていた俺以上に分かっていたはずだから。それでも。

 言葉にされること。身を持って知ること。自覚すること。

 それは、現実から逃避している人間にとって、時に、恐ろしく残酷な凶器になる。その時の柑菜の心情なんて、俺なんかが安易に想像できるわけがなかった。何もしていなくても、簡単に生きていられる俺なんかが。

 右手に持った携帯電話は、俺に「今日は来るな」とメールを打とうとしたかららしい。でも、なんて文面で送ればいいのか。今までずっと来ていたのにいきなり来るなと言われた時の俺の気持ちも考えて、どういう言い方をすればいいのか。どうすれば自然な、いつもの高槻柑菜である言い回しになるのか。

 だけど、そんなことより。何よりも。

 自分が一番動揺していることで、全く言葉が頭に浮かばなかったという。分からなくて、指が震えて、頭痛がするほど悩んで。そうしている内にはもう、手遅れだった。そのあとはもう、声を無理矢理胃に飲み込ませるのが限界だった。飲み込んで。しがみついて。顔を見られないように頭を押し付けるのが、あの場を耐え忍ぶ精一杯の虚勢だった。

 そして……自覚を強要されたのは、俺も同じだった。

 柑菜の余命のことだけじゃない。

 柑菜という一個人の、心についてだ。

 俺だって、柑菜の命のことは、覚悟してるつもりだった。それこそ、二週間と経っていないうちに。水野さんの奇妙な行動で違和感を感じてから、柑菜の命について予兆とか予感めいたものはあった。けれど。

 何より俺の頭を殴りつけたのは、柑菜自身の有様だった。

 そりゃあ、余命を告げられたんだ。動転するだろうし、愕然とするだろうし、計り知れないショックを受けるだろう。五年も監禁されて、結局好きなことが何もできないまま消えるように死ぬと言われて。そんなの、肉体より先に心を殺されたようなものだ。

 それでも……俺は、自分が十年以上見てきた高槻柑菜という少女は、もっと強いやつだと思ってた。

 勝気で、無邪気で、誰にも流されない。みんなの中心にいて、誰にでも好かれていて、リーダーシップのある頼れるやつ。俺にない全てのものを備えていて、何にも恐れることのない明るさと強さを持ち合わせている。病院で過ごすようになってからも、それまでと同じような態度で、晴れやかに笑ってみせた。この五年間、ずっと。全てが真逆の、俺の憧れの存在。

 だけど、その時俺が見た柑菜は、ただの脆い少女でしかなかった。身体の自由を奪われ、蝕まれ続けた、病弱な少女にしか。

 柑菜もずっと、自分の末路を見ないふりをしてきたのかもしれない。病の進行が本当に緩やかで――例え忌むべき場所だったとしても――まるで自分の家のように病院で過ごすことが当たり前になっていたから。

 傷ついてないわけがないと、頭で理解はしていた。

 それでも心のどこかで、柑菜は大丈夫だと、錯覚していた。俺の知ってる強い柑菜なら。入院してからもずっと快活に笑ってきた柑菜なら、大丈夫だろうと。

 でも……そうではないのだと、気づかされた。現実を、突きつけられた。

 柑菜が死んでしまうことよりも。

 柑菜が無敵だと思い込んでいた幻想が打ち砕かれたことの方が……何故か、どうしようもないくらいに心を痛めつけられた。

 間に合わなかったメールの要望通り、あれ以降お見舞いには行ってなかった。別に目指してもいなかった皆勤賞もそれに伴って自然に潰え、落ち着かない正午を過ごす日々が新しくやってきた。昼が終わると手持ちぶたさになり、何もすることがなくなり、そしてどうしても、柑菜のことが頭に浮かんだ。

 でも病院へ行こうとする足はいつも重かった。どんな顔をして会えばいいのか、分からなかったのだ。もう会ったとしても笑い合うことなんてきっとできないし、辛うじてそんな真似事じみたものが他人の目にそうと映る程度でできたとしても、それはきっと中に何も入っていないグラスを傾けるだけのように空っぽで乾いた遊戯に違いなかった。

 柑菜はどうしてるだろう。……ベッドにくるまって、それから――。

 それから、なんだ。

 柑菜が手に持っている、銀色に光るモノはなんだ。手首をつたう赤い線はなんだ。なんでうずくまって痙攣してるんだ。なんでナースコールも押さずに一人で苦しそうに震えてるんだ。……。

 いくらなんでも、そんなことまでするわけがないって、分かってるのに。それでも、何を思っても何を考えてもネガティブに捻じ曲げられるというイカれた思考が、頭の中にはできあがりかけていた。

「頼みがある」という文面で柑菜から呼び出しを受けたのは、短い梅雨が明けて真夏の到来を感じさせる二週間後、六月の終わりのことだった。


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「山に登りたいんだ」

 凛と佇む桜木を思わせる口調で、柑菜はそう切り出した。ベッドに腰掛けて上半身を起こしている姿勢はいつもより毅然きぜんとしていて、二週間前にあったような姿はない。

 一言で言えば、真剣さ。これもまた珍しかった。柑菜は何も、物事をマジメに考えない性格ではないけれど、どうにもポジティブすぎるきらいがある。それに頭で考えるよりも手と足が先に動くタイプだから、じっくりと何かを考える機会ってのが少ない。それは身体を動かさなくなった入院中も同じで、主に会話をするときなんかもその場のノリで口を動かすやつだ。

 そういえば、友達が多かった割にこいつが誰かの相談に乗っているところってのを見たことがなかったけれど、そういう時にはこういう表情を見せていたのだろうか。

 でも、そんなことより。

 俺は久しぶりに目にした柑菜を見て、呆気に取られるでもなく、驚嘆するでもなく、ただその言葉を聞いて――血の気が引いていた。

 だって、そんな願いは――。

「……山?」

「できれば高いところ。行けるんだったら、富士山がいい」

「ふじ……っ」

 知識の乏しい俺でさえ、一般常識として知っている。

 富士山。日本における、文字通り最高の山。標高だけで三キロを軽く超え、歩けば一体どれだけの距離になるか想像もつかない。健常者でさえ例年で事故に遭う人、行方不明者や怪我人も多く……死者だって少なくない。その原因は様々で、急な天候変化に対応できなかったり、滑落かつらくや遭難をしてしまったり、時には落石なんてのも聞いたことがある。標高が高い分、気圧や気温の差異が地上とは著しく、真夏でさえ頂上は真冬の寒さになる。

 そんなもの、登山経験のない素人の俺たちに登れる場所じゃない。そのうえ柑菜は、走ることさえろくにできない身体だっていうのに。山登りなんて、自殺しに行くのと同じじゃないか。

「……バカいうな」

「頼む」

「そんなんできるわけないだろっ」

「頼む」

「ふざけんな! 自分の身体分かってん――」

「頼むよっ……!」

 ――キツく、服が握られた。俯いた頭を、押し付けられる。縋るように。つい最近も見た姿が、目を背けたくなる場面となってデジャヴする。

 だけど二週間前の時より必死で、そして……切実に。

「一生の……お願いだよっ……」

 その言葉が――卑劣な力となって首を締める。強く。喉に食い込んで。空気が詰まり、舌が麻痺する。

 卑怯だろ。お前はその台詞を、こんな時にも言うのかよ。もうそんな台詞、数え切れないくらい聞いたはずなのに。この時ばかりは、洒落にならなかった。

 微かに息の残っている口が、それでも悪足掻きをする。

「……どうして山なんだよ。他の場所じゃダメなのか……」

「……今はまだ言えない」

 葉っぱからしたたる雨の雫みたいに、小さな声が落ちた。

 なんだよ。さっきまで、強そうにしてたくせに。ちょっと頼みを断っただけで、こんな簡単に壊れそうになっちまうのかよ。山登りってなんだ。バカじゃないのか。お前今どれだけ歩ける。外を歩くときは発作を抑える薬を必ず持てとか言われてるんじゃなかったか。その外出許可すら、ここしばらくはもらえてないとか愚痴ってなかったか。

 そんな身体で。そんな、死にかけた貧弱な身体で。

 まともに体力があるやつでさえを上げるような果てしない場所を歩こうとか登ろうとか、おかしなことをほざいてんのか。

 明らかな冗談として口走るならともかく、こんなメチャクチャなことを大真面目に言うことなんて、今までなかったのに。

 俺が無意味にわめかなくても、そんなことができるような身体じゃないって自分自身で一番分かってるはずなのに、なんでこんなこと言い出すんだ。

 ……一生の、お願いだからか。

 もし。もしここでこの手を振り払ったら、どうなってしまうだろう。三ヶ月と待たず、今この場で死んでしまうんじゃないか。二週間前、そう感じたのと同じように。糸がプツンと切れた人形のように生気を無くして、ただ回収されるのを待っているだけの廃棄物みたいになってしまうんじゃないか。そう思うとまた全身が動かなくなって、激しい目眩に襲われる。

 だけど、逆にこの頼みを引き受けたとしたら……いったいどうなる? これまで以上に、痛みに呻く様を見せ付けられるだろう。笑う余裕もなくなって、のたうちまわって苦痛に顔を歪ませるかもしれない。その上もし、望みを果たせないままで事切れるようなことがあったら。

 そんなの嫌だ。耐えられない。……なら、どうする。

 このまま何もさせずに死なせるのか、それともできないと分かっているような――それも、死に限りなく近い病苦を伴うであろう――最後の願いを叶えさせようとしてから死なせるのか。


 ――もし柑菜ちゃんが、今後海斗くんに何か頼み事をしたら……その時は、できるだけ叶えてあげて……?


 たった一度しか聞いていないのに、もう何度も鮮明に思い返された言葉。あの人、柑菜がこういうことを言うって分かってたのか。

 でも言わせてくれ。できないことはできないんだ。できるだけのことは叶えてやれたとしても、できないことは叶えてやれないんだよ。

 根気とか根性の問題じゃない。人間っていう弱い生物の問題だ。そして、不治の病という人間ではあらがうことのできない災厄の問題だ。俺が一人傍にいてやったところで、病理を覆ずなんていう神様みたいなことはできないんだよ。

 頭の中で、もう一人自分が出てくる。

『なら、このまま何もさせずに死なせるのか』「でも、何かしてやることなんてできない」『今願いを口にしてるだろ』「それはできないことだ」『でもどうせ死ぬんだぞ。それがほんの少し早いか遅いかの違いだけじゃないか』「だけど」『お前は怯えてるんだ。柑菜を死なせるわけにはいかないという大義名分を押し付けて、自分の理想像としての柑菜が壊れる姿を見ることに。柑菜が自分の前から消えてしまうということに』「ならどうしろってんだ」『選べ、柑菜の命と自分の心を取るか。

 自分の心をむしってでも、柑菜の心を満たすか』

 頭から、霧がかっていたモヤが消えていく。

 柑菜が今まで俺にしてくれたこと。柑菜と過ごしてきた日々のこと。柑菜が俺に与えてくれた、人生のこと。

 そういったものが、走馬灯のように頭を巡り、過ぎ去っていって、そしてその全ての姿が、今自分の服を必死に掴んでいる細い身体に重なる。

 その全てを詰め込んだ身体が、段々と薄くなっていって、そして透明に近づき、やがて、消える。

 幻覚だった。でもその幻が見えた瞬間。いや、見えなくなった瞬間。

 哀しいくらいに悟ってしまった。今の俺という存在が、どれほど柑菜によって作られていたのかを。

 それは、全てだった。俺の人生は柑菜と出会ったその瞬間に始まって、柑菜が辛うじて生きている今、俺の人生も辛うじて続いているだけなのだと。

 結局のところ、自分の奥底にいる心が正しかった。俺は柑菜に依存していて、柑菜という存在がいなくなったとき……俺という存在も、消えてしまうんだろう。薬を無くした麻薬中毒者のように。

 俺の人生の全てが柑菜でできているなら。その心を満たすことが、俺の全てだ。そう思ったとき。

 口は、勝手に動いていた。

「分かった」

 俺が柑菜にできること。柑菜にしてやれること。何を優先するか。何を蔑ろにしていいのか。何をすべきなのか。

 一生の、お願い。

 俺が呼び出された理由。

 そして、俺がここにいる意味があるとするなら。

 もう。

 言うべきことは、決まっていた。

「富士山に、連れてってやる」


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 俺たちは次の日から、登山の計画を立て始めた。

 登るルートや必要な道具の調べと用意。それらを隅から隅まで見落としのないように、綿密で穴のない計画を。

 入念の準備をしておくことは必要最低限であり、何か一つの見落としや失態が、言葉通り命の危険になる。考えうる限りの安全を優先し、いかに負担をかけないように登るか。それが俺たちの考えるべき命題だった。

 柑菜の目的。それは、富士山の頂上まで行くこと。理由はまだ分からない。

 それを達成する上で一番安心できるのは、実を言うとツアーに参加することだった。富士登山は電話やネットで申し込みをすることで、初心者にも安全な登山ツアーに参加することができる。しっかりしたガイドの誘導に従い、仮に具合が悪くなってもしっかりと対処してくれる。……ただしこの場合だと、下山を勧められてしまう可能性があるのが難点か。それでも柑菜の命を考えるなら、素人の俺たちが独断で計画を立てて登るよりもよっぽど心の休まる方法だ。

 しかしこれは、どのみち柑菜の言い分によりボツ。

「他の人に迷惑はかけられない。一人だけ足が遅いんじゃ、同じツアーに参加する人たちやガイドさんに迷惑がかかるだろ? ツアーが予定通り進められなくなるってことは、場合によっちゃ命に関わる。そうなったら、あたしたちに責任なんて取れないだろ」

 ……それは、最もだった。登山をする上で命がかかってるのは、俺たちだけじゃない。登る人全員に、その危機は降りかかるんだ。俺たちのせいでツアーが乱れ、他の人の迷惑になり、仮に何かの事故で命を落としてしまったとしたら。俺たちは死んでしまった人やその遺族に、きっと何をしても償うことなんてできない。

 だから俺たちには、自分たちで計画を立てて、自分たちの力だけで登るという選択肢しか残されていない。不安が大きくなってはしまうが、もともと覚悟していたことだ。

 そのかわりと言ってはなんだが、富士山は高さの基準として存在する一合目から九合目までのうち、ツアーでなくとも自前の車なりで五合目のレストハウス前まで行くことができる。

 五合目。そこは既に標高二千メートルを超えていて、つまり単純に考えても自分の足を使わないで半分以上は行けるということになる。柑菜は一瞬だけ渋ったが、自身の体力を考えてそこまで楽をすることには賛成した。

 ……だけど登山未経験の俺たちにとって、たとえ半分以上道のりが短くなったとしても、その距離が容易であるかと聞かれれば、それはいなと答えざるをえない。直線ならまだしも、実際山登りは蛇行だこう続きと聞く。そんな場所を永遠と繰り返し進んで登っていくなんて、俺たちにとっては砂漠横断もいいところだ。当初考えていたよりもずっと希望が持てるとは言えども、気が抜けることでないのは俺も柑菜も分かっていた。

 となる車の手配と運転に関しては、知人の中で唯一免許を取っている秀樹に頼むことにした。生憎俺は免許は免許でもバイクしか持っていないので、重たい荷物と一緒に柑菜を山に連れて行ってやることはできない。

 何にせよ。

 数日に渡る登山の計画は設計図を描くように曖昧な空白が埋まっていき、あとは実際に道具を手元に用意してその日を待つばかりだった。

 唯一の懸念材料があるとすれば。まだ計画を立て始めて間もない頃に持ち上がった、ともすれば盲点となったであろう問題だった。

 それは、まず間違いなく、日帰りは無理だということ。富士山の標高と、柑菜の体力、そして弱った身体で歩くスピードのことを考えると、おそらく登るだけでも一晩ではできない。

 そうなると、富士山の各所にある山小屋のどこかに泊まらざるを得なくなる。となれば自然、病院の方で外出許可どころか外泊許可が必要になってしまう。それは医師からのお墨付きがなきゃいけないはずで、それは一体どうするのか。余命なんか告げられた今の状態で、外泊許可が出るなんて到底思えない。

「そこはあたしに任せろ」

 しかし柑菜はあっけらかんと、でも自信だけはこんもり盛ってそう言った。

「任せろって……お前まさか、病院抜け出すとか言わないよな?」

「ふふん、あたしにはちゃんとアテがあるのさ~」

「アテってなんだよ。夜中に抜け出す協力をしろとか言うんだったらハッ倒すぞ」

「えー! あたしの願いを叶えてくれるんじゃないのかよ!」

「それとこれとは話が別だ!」

 ホントに俺を使って病院の隙間を縫って逃げ出そうとしたのか! そう思って愕然としかけたが、ところが柑菜はカラカラと笑って、冗談冗談、と笑ってみせた。

「大丈夫、海斗の手は借りない」

「ならどうするんだよ」

「言ったろ? アテがあるって。安心しろ。赤の他人に迷惑をかけるようなことは、絶対にしないから」

 ホントだろうな、と口ではこぼしてしまったが……俺はその言葉をほとんど疑ってなかった。

 確かに俺に対しては多大に面倒をかけるし平気で引っ掻き回して引っ張り回すくらいはやってのけるが、何も傍若無人なやつじゃない。ちゃんと、他の人への気遣いができるやつだ。それに――大いに不満があったとはいえ――ありったけ外で動き回りたいのを抑えてまで、医師の言うことに従って許可が出るまではずっと病院に居続けた柑菜だ。

 例え……最後の頼みだろうと、人を煩わせるようなことは、きっとしない。こいつは、そういうことを嫌うから。気がかりではあるものの、その言葉は信じる。

 それから、計画を立て始めてからすぐに気付いたもう一つのこと。

 柑菜はまた、笑うようになった。

 いつも深夜のバイトを終えてへとへとになったあと、辛うじて残っている体力でパソコンにしがみついて、登山のために少しでも情報を得るためネットを巡回。そして目覚めてからも、お見舞いの時間になるギリギリまで調べ物をして、その日分かったことや決めたことを聞かせる。

 そうして俺が言う言葉の一つ一つを咀嚼そしゃくし飲み込んで、それらが現実になることを意識していくたび、柑菜の表情は遠足を待ち侘びる子供のようにみるみる明るくなっていった。

 今までは、柑菜がリーダーとなって世界地図のように広がっていく計画をあれやこれやと企てていったけれど。

 でも、今回は違う。

 今回だけは俺が主導となり、この胸が弾む計画の中心部分を組み立てていく。

 そんな中で、柑菜を喜ばせるために取っておいたサプライズが一つだけあった。

 厳密に言えば、計画の段階で明かしてしまうのでサプライズではないのだが、最初相談していたときとは異なるアイデア。絶対に柑菜が喜ぶであろうことを、考えておいた。

「バイク?」

 そのとき柑菜が浮かべた表情といったら、今思い出してもちょっと痛快だった。ありきたりな表現だが、“鳩が豆鉄砲をくらったような”というのがぴったりの、間抜けな顔。俺がそうなっているのを見ようものなら散々おちょくってくるくせに、自分だってそれに負けないくらい変な顔をしてる。小一時間くらいバカ笑いしてやろうかと思ったが、話が逸れてしまうのでやめた。

「そうだよ、バイク。前から乗りたがってただろ?」

「や、でも、どうやって?」

 ベッドから落ちそうなほどに身を乗り出して聞かれる。

 簡単な話だった。秀樹の運転する車に登山道具ともども俺たちも乗せて行ってもらうつもりだったのをやっぱり変えて、秀樹にはというだけだ。そしてそれとは別に、俺たちはバイクで富士山を途中まで登る。要するに秀樹とは、五合目のレストハウスで待ち合わせだ。


 ――なあなあ、バイクの免許取ったって本当かよ! ならさ~あたしも乗せてくれよ後ろでいいからさ! なっ!


 一生のお願い。

 過去から聞こえてくる、弾んだ声。

 車は持っていなくとも、バイクの免許を取っている俺になら、それができる。

 それを聞いた柑菜は、喜びをどう表現したらいいのか分からないように、声にならない程度に何度か小さく口を動かして、それから、

「こいつ」

 ちょっと照れたように笑って、拳を腹にボスンと打ち込んできた。たったそれだけのことでも、気を利かせた甲斐があったってもんだ。

「ただバイクは、車に乗るより体力いる。無理そうなら予め言ってくれ」

「あたしを誰だと思ってんだ」

 そう言うと思ってた。

 そうして。

 病室で二人で話しているとき、俺もまた、柑菜と同じように笑えていたような気がした。

 ガキの頃に戻って二人で悪巧みをしていた時のように胸が高鳴り、ただ単純にそのとき楽しいことだけを考えて、自然と口が横に広がるのを抑えられないわくわくとした思い。うきうきして、顔がほころんだ。

 七月十四日。

 早くこの運命の日が来ないかと、待ちわびるようにさえなっていた。



 ……だけど打ち合わせを終えて一人になり、病院の外でむあっとした夏の空気を全身に浴びると、いつも気持ち悪く湿った思いに包まれた。

 二人で計画を立てているときは、楽しい気持ちでいられる。

 でも、一人になってその熱が冷めると、自分はいったい何をやってるんだという気持ちになる。

 別に、柑菜を山に連れて行くことになったのを後悔してるわけじゃない。今更撤回するつもりも、微塵もない。

 それでもまだ……情けないことに、あの時の感情を引きずってる。自分は救われないのだと。こんなことをしたって、きっと自分の心は一片たりとも晴れることなどないのだろうと。

 柑菜はひょっとしたら、救われるかもしれない。最後の願いを叶えて、幸せな気持ちで逝けるかもしれない。

 だけど俺は。柑菜を失ってしまったあとの俺は、きっと泥沼のような暗い世界で生きていくんだろう。そう思うと、酷く気が滅入る。心を蝕まれているのは、俺も同じだった。

 だから車の件で秀樹に電話したときも、あいつに糾弾されることを差し引いた上でも、気が重かった。自分で口にすることを吐き出していくたびに、柑菜だけでなく俺自身も死に近づいていくような気がして、心がすさんでいったから。

 ぐじぐじと悩んで、みじめなやつだと思う。

 だから、いつも自分のことは忘れるよう、意識した。強く、意識した。

 自分のことは頭から消し去り、ただ柑菜のことだけを考え、柑菜が喜ぶことを考え、柑菜の心が少しでも救われるようにすることを考えた。

 世界を明るくしてくれたあいつに、少しでも報いることができるなら。これが最後のチャンスだからと、そう思って。

 それでも、二人でいるときは待ち遠しいと感じる運命の日は、一人になった途端に永遠に来なければいいと感じ、一日一日を呪うようになる。カレンダーを確認する度に、肉片をちぎられるような痛みに襲われた。

 余命を告げられたと告白する柑菜を見たあの日を思い出す。

 あの時もそうだった。時間が止まってしまえばいいのにと願い続け、だけど直後に、そんな神様みたいな願いは虚しいだけだと気付く。救いなんてないのだと、気付く。

 けれども時が経って。

 七月十四日。

 その日は、柑菜を蝕んできたものと同じ万能な力に運ばれて、誰に対しても平等にやってきた。

 果たして心の準備ができていたのかどうかは、自分でも分からなかった。


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 早朝六時。病院の駐車場へ、できるだけ騒音にならないよう静かにアクセルを調整しながら入ると、そこでは既に柑菜が待っていた。本当にこんな時間に外にいる。どうやらアテとやらは外れなかったらしい。

 柑菜の目の前まで来てエンジンを切ると淡い沈黙がやってきて、聞こえてくるのは起床を始めたスズメの鳴き声だけになった。ヘルメットを外すと落ち着いた早朝の空気が頬に当たって気持ち良い。久しく触れていなかった、爽やかな空気だ。

 柑菜は、バイクに乗るときにしか着ない俺のライディングウェア姿を見て、ちょっと感心したようだった。

「以外と似合ってんじゃん」

「最初が余計だボケ」

 見ると柑菜は、当然ながら私服だった。いつも病院で着ているバジャマじゃない。キッチリとシワのない服で、動きやすい小奇麗な格好だった。髪もボサボサではなく、外出用にしっかりと整えてある。じっくり見ても、どこの街中で見かけてもおかしくないくらい、ハツラツで健康そうに見えた。久しぶりに見るそんな姿に、思わず安心が心から漏れ出て、口元が緩みそうになる。そんなとこ見られたら、またマヌケ面だとバカにされちまう。

 だけど俺がバイクから降りると、柑菜は急に身をそわそわさせながらこっちを見始めた。どうしたんだこいつ。と考えて、すぐに思い至った。

「トイレなら先に済ませとけよ……」

「ちっげぇよバカ!」

 ぶん殴られるかと思ったが、それでも柑菜は一歩も動かないままで、またうずうずと落ち着きなく身体を動かす。何かを我慢するように。……ホントになんだ?

 奇妙な違和感を感じ始めた頃に柑菜は、勇気を振り絞るようにして聞いてきた。

「それ……見てもいいか?」

「は? 何を?」

「だから、バイクを……」

 バイク。そう言われて、後ろを振り返る。俺が今乗ってきたもの。

 これがじっくり見たくて、ひょっとして、我慢してた? らしくない。普段だったら許可も取らずに、持ち主である俺なんか横にすっ飛ばしてでもかじりついたろうに。

 ボケっとしながら俺が曖昧に頷くと、柑菜は待ちかねたと言わんばかりに駆け寄ってきて、その巨体を見つめた。

 XJR400R

 別段、新しくも珍しくない車種だった。外見に関しては、普段乗らない人が『バイク』という単語を聞いて最初に浮かべるものと大差ないだろう。

 でも。

「うわぁ……」

 柑菜は、光輝く宝物を目の当たりにしているように、うっとりとそれを見つめた。

 そして手を伸ばし、触れる。

 ゆっくりと優しくさすっては、赤子を抱く母親みたいに大人っぽい表情を浮かべる。その感触を確かめ、自分の中で永遠に忘れまいと、その手のひらに馴染ませ、吸い込もうとしている。そして眠りから目覚めたばかりのようにゆったりと足を動かし、歩き回って、色んな角度から眺めては、また愛しそうに撫でる。それを繰り返していた。

 意外、だった。そりゃあ実際目にすれば、絶対喜ぶだろうと思ってはいた。だけどてっきり、おもちゃの城を初めて見る子供みたいにテンションを上げて、飛び跳ねるくらいはすると思っていたのに。

 高槻柑菜は、実年齢よりずっと下に見えることは数え切れないくらいあった。でも今の柑菜は、過去から現在に至る全ての姿を思い出してみても、そのどれにも当てはまらない。むしろ、実際に生きた二十年という時よりも、ずっと人生を重ねている。そんな風にさえ思えた。

 なん、だろう。初めて見る姿に、戸惑わずにはいられなかった。きっとこんなことは最初で最後だから、忘れないように、身体に、思い出に、刻みつけようとしている? それもひょっとしたら、あるのかもしれない。

 でも、それだけじゃない。そんな気がした。

 しばらくすると、満足したのか。

 澄み切った笑顔で、柑菜は言った。

「……行くか」

 少し、呆気に取られてた。

 ハッとして、意識を戻すために首を軽く振って、俺は自分が被っているのとは別に持ってきたもう一つのヘルメットを手渡しする。

 柑菜はまたささやかな力で受け取り、それに自分の魂を込めるように数秒だけ目を閉じてから、慣れない仕草でヘルメットを被る。

 しっかり装着できているかを確認してやってから、俺も自分のを被り直し、バイクにまたがる。柑菜も、まるで危険がないのを確認するかのようにおずおずと後ろに乗った。……始めてだからどう乗っていいのか分からないのか。

「それで合ってる」

「ふへっ? あ、ああ」

 吹き出しそうになった。こんなマヌケな声なかなか出さない。もしかして、緊張してんのか。

 手首を回してハンドルを捻ったその瞬間、別の場所へ来たように空気が変わった。エンジンが唸りを上げたのだ。人間には出せない重量を感じさせる闘牛のような唸りだ。地面を震わせるんじゃないかと思うほどの振動が手首から全身を伝い、臓器を躍動させる。

 柑菜が少しびっくりしたのが伝わってきた。一声かけたほうがよかったか。

「ほら、そろそろ行くんだろ? ちゃんと捕まってろ」

「お、おぅ」

 慎重に、何かを探るかのように柑菜は手を伸ばす。

 そうして後ろから手を回されて、少し息が苦しくなった。背中に感じる体温が、いやに頼りなく感じたから。

 こいつ、もうこんなに小さくなってたのか。分かってはいたことだけど、実際身体をぴったりとくっつけていると、なおさら思ってしまう。肌で、感じてしまう。

 かつての、俺よりずっと強かった過去を思い出して、切なくなる。

 みんな変わってく。俺の身体は成長して、病気と共に柑菜の身体は衰えていく。いつの間にか、こんなにも違っていたんだ。

 頭を振る。それで余計な考えを振り落とした。今は心を痛めてる場合じゃない。

 柑菜の被ったヘルメットが背中に当たる。寄っかかるようにして頭を預けられたのだと、鈍い頭でなんとか理解した。

 ……寄っかかる? ふと違和感を覚えた。ヘルメットの感触からして、柑菜は多分下を向いてる。走り出してからの景色を見ようともせずに、まるでバイクという名の室内で安らいでいるみたいだ。回された腕の優しさから、辛いことを考えているわけじゃないのだと感じる。

 さっきから……というより、ここにきてから柑菜はおかしい。想像と違う反応ばかりをする。今だって走り出すのを、かくれんぼをして相手に見つけてもらうまでを待っているみたいだ。身体も動かさず、大人しい。

 ボケっと考え事をしてて、走り出した瞬間に落ちるなんてのは勘弁なので、シャキっとしてもらうために声をかける。これから待ち受けているであろう苦労を乗り越えられるようにと、自分に気合いを入れる意味も込めた。

「行くぞ」

 回された腕の力が少し強くなったのが分かった。それと一緒に聞こえてくるであろう気合の入った返事も待った。

 だけど、そうして寝起き直後のように小さく、辛うじて聞こえてきた声といえば、

「……うん」

 まるでらしくない、白馬の王子様に連れて行ってもらう女の子のような返事だった。


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