1章 「幼馴染」


 時を少し遡り、六月の序盤。間もなく到来する梅雨を前に、暖かな陽気の中で見慣れた道を快適に歩く。湿った空気はまだなく、昼下がりという一番気温の上がる時間でも、薄着ならば気持ちよく歩けた。

 もはや学生の登下校と同じように日課と化したこの通い詰めには、なんの感慨も苦々しさもない。行くたびに心が重たくなることもなくなった。

 見上げてみると、自分の住むアパートの軽く十倍以上はあるであろう大きな建物がそびえ立っている。

 日差しに照らされた真っ白な壁。数十台もの車やバイクが停められる大きな駐車場。少し脇に逸れれば、綺麗な花々が彩り見る者に癒しを与えてくれる庭。何十人もの人がいて。何百の絶望と希望を与えて。何千もの生と死を隔てたであろう、命を扱う場所。

 そこは、病院だった。

 もう通い始めて五年になる。中学三年生の時から二十歳に至る現在まで、皆勤賞でも目指すかのように毎日来ている。別に怪我をしているわけでも持病を患っているわけでもなく、実を言うと自分がお世話になったことは一度としてない。そして大学を辞め、しがないフリーターにすぎない自分なんかが、当然職員であるはずもない。

 残る選択肢があるとすれば、その職員の関係者か、患者の関係者。そして自分の場合は、後者に当てはまる。

 見舞い客、というやつだ。



 中に入ると、多数のベンチがある大きなロビーが目の前に広がる。老若男女、患者看護師が入り混じった人が二十人以上はいて、それぞれにいこいの場を作っている。

 俺は迷うことなく受付へと向かい、もはや挨拶と大差なくなった手続きを済ませようとする。

 しかしこの日は、受付には知らない人がいた。これまで見てきた何人かよりも若く、きっと入りたての人なんだなと把握し、若干身が堅くなる。用件を告げていると、向こうも少しだけ口調が辿たどしく、一つ一つ頭の中のマニュアルを確認をしながらという感じで、入りたてというのは間違っていなかったんだなと改めて認識する。

 初めて接する人というのはどうにも苦手だ。事務的なことだから当たり前だとは思いつつも、固い言葉の端々に近くない距離を感じる。自分を知っている人ならば、すっかり顔馴染みになったおかげで軽い世間話くらいはできるのだが。次期にこの人にも慣れることができればいいなと、そんなことを考えつつ手続きを終えて、目的の場所へと向かう。

 床に貼られた青いビニールテープに沿って廊下を歩く。微かに漂う消毒液のにおいも、階段の段数も、病室までの距離も、みんなこの五年で身体が覚えてしまった。特に消毒液のにおいは、当初はそれまでの生活に馴染みのないものだったために、この病院という場所が別世界のようだとさえ思えてしまうひどく苦手なものだった。それが今や、少なくとも新人の受付のお姉さんよりはよっぽど身に染みたものになってしまった。それは嬉しいことのようでもあり、しかしそんな病院に通い詰めなきゃならないということに気が滅入らないとも言い切れない。

 三階の廊下の突き当たり。目的の病室にたどり着くと、念の為にノックをした。もうめんどくさいし、どうせ当人以外いないんだから黙って入ろうかと何度も考えたこともある。だが、親しき仲にも礼儀ありという。万が一他の誰かがいる可能性も、限りなくゼロに近いがゼロじゃない。ここは人間の最低限のマナーとして、人がいる部屋にはノックをしてから入ろうという常識の心が、俺の行動を押さえ込んでくれる。

 ところが当の相手、扉の向こうの人物は、

「どんとこーい」

 ……そんなふざけた返事をしやがった。若干こめかみに青筋が浮かんでいることを自覚しつつ、周りに迷惑をかけない程度に力を込めて乱暴にドアを開ける。

 そこは一見すると、真っ白な部屋。真っ白な床。真っ白な壁。真っ白な天井。真っ白なベッド。真っ白なカーテン。差し込む日差しは時に爽やかさを。時に儚さを漂わせる。清潔感があると言えば聞こえがよく、殺風景で彩りがないと言えば返す言葉もなくなってしまう、そんな不思議な空間。辛うじて白くないものと言えば、ベッドの周辺器具と来客用のパイプ椅子くらいだ。どうしてかここは一人部屋の割に面積が広く、他の病室よりも悲しい空白が多い。

 そんな場所で、ベッドから上半身を起こしてこちらを見る快活な――年齢的にそう呼ぶのは微妙だが――少女がいる。

 そいつが浮かべる笑顔は一片の曇りすら感じさせないほどに気持ちが良く、見ているこっちも元気づけられそうなほどに明るい。病室の窓から差し込む光を背にしているせいで、見る者によっては本当に太陽のようだと思うかもしれない。

 しかしながら、彼女の着ているパジャマはしわくちゃで、髪はところどころはねているし、その顔に化粧などはもちろんなく、肌もツヤツヤとは言えない。快活なその顔だけを見ていると、まるでどこの学校にでもいそうな普通の明るい少女にも見えるけれど、少し落ち着いて見てみればとても人と会うようななりではないことが分かる。

 それに……それらとは全く別に、それは。

 初めて見る人ならば、息を飲んでしまうようなものかもしれない。

 その少女の、髪や、顔や、服ではなく。

 その身体付きそのものは。

 女子であるということを鑑みても、それはあまりにも細く、必要最低限の筋肉が骨と皮についているだけ、という感じだ。二十歳にもなっているというのに小学生にさえあっさりと負けてしまいそうなほどに貧弱で、可能な限りのリハビリをしていてもその衰えを遅らせるだけで、一行に回復の兆しは見えない。五年の入院生活で身体はすっかりと痩せ、その身一つでできることは、あまりに限られていた。

 でも。

 いくら初対面の人がその身体を見て言葉を失おうとも。

 五年も毎日、その変化をじっくりと見てきた俺は、その身体を見て心が曇ることも……そんなに、なくなった。

 だから、いつもどおりに対応する。

 人間として最低限のマナーを守ろうと部屋をノックしてやったのに、ふざけた返事をしてくれた顔馴染みに対して。

「お前、返事は少し考えろ。俺じゃなかったらどうすんだ」

「この時間にあんた以外の誰がくんのさ。王子様が白馬に乗ってやってきてくれたら、きちんと麗しいお姫様の態度で接してやるから安心しろ」

 アメリカ的な皮肉を聞き流しながら、中に入ってドアを閉める。変わらない足取りで彼女のいるベッドへと近づき、この部屋の白を辛うじて破壊してくれている来客用のパイプ椅子に座った。

 すると彼女は、不満そうに顔をしかめる。無論それもよくあることで、本気で怒っているわけではないのだと分かっている。

「なんだよ手ぶらかよっ、たくー」

「お前のところに来るのに何を持ってくってんだよ」

「そりゃあお見舞いなんだから、綺麗な花とか持って花瓶に生けて、この殺風景な部屋を少しでも彩れってんだよー。この若い乙女のいる場所に花の一つもないなんて、景色が死ぬってもんだろー?」

「寝言は寝て言え。お前花なんて慎ましいものは好きじゃねぇだろ」

「たははーバレたか」

 そう言って、軽く肩を浮かしながら笑う。

 その言動だけを見れば、虚弱にも、貧弱にも、ましてや病弱になんて、とても見えない。

 儚い雰囲気なんて全くなく、落ち込む様子なんて微塵も出さず、暗い顔なんて片時も見せない。

 そんな、強靭な強さを持っている彼女。

 高槻柑菜たかつきかんな

 俺の幼馴染だった。


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 霧山海斗きりやまかいとという名の生を受けて五年が経った時、――俺は幸せだった。

 自分には一人の親友がいた。女の子だった。知的な雰囲気が幼いながらもあって、でもきちんと年齢相応の明るさを持った楽しい子だった。幼稚園のクラスが同じだったことで仲良くなり、その子の友達を含めた数人でいつも遊んでいた記憶がある。でも毎日毎日変わらず一緒にいたのはその子だけだったから、自分にとっての本当の友達というのは、その子だけだったのだ。

 まだ『信用』なんていう言葉すら知らなかったあの頃。

 その子とといるのは楽しい。だからその子と一緒にいたい。

 そんな、恋にも似た純粋な感情を抱いていたと思う。



 その子との別れが来たのは突然のことで、どうやら両親の都合で引っ越すことになってしまったらしい。

 まだ幼く、遊ぶことしか考えていなかった俺は、その子と別れることなんて考えたこともなかったのだろう。あのとき無性に悲しかったのを覚えている。当たり前のように毎日一緒にいた友達がたった一日を境に消え去ることが信じられなくて、男のくせにわんわんと泣いていたのだ。

 ――寂しいよ。

 引越しの前日、その子の前でそう喚き続けた。

 でもその子は泣かなかった。

 目を潤ませてすらいなかった。

 そして言った。

「私、あなたのこと、ずっと嫌いだったんだけど」

 いつもより低い声で、あからさまに突き放すような言い方だったその台詞は、この子が目の前からいなくなってしまうこと以上に信じられなかった。目の前が真っ黒になって、まるで死んだように脳味噌が動かなくなっていた。

 なんで。だってずっと一緒にいて、数え切れないくらい楽しく遊んだのに。

 でもそんな風に思っていたのは自分だけだった。

 俺の両親とその子の両親は仲が良く、その子の親が「仲良くしてあげてね」と言ったから、仲の良い“振り”をしていただけのことだと、そう告げられた。そうしなければ、親に怒られるからだと。

 そういえば、君の家に行きたいと言った時や、君の好きな場所を知りたいと言った時に、強く断られたこともあったっけ?

 そんな、にずかずかと入ってこようとするところが、一番嫌いだと言われた。

 あそこまで悪意を正面から叩きつけられ、両親の胸で涙が枯れるほどに大泣きしたことは、後にも先にも、あれ一度きりだっただろう。

 それ以来俺は、『他人』という存在に恐怖するようになった。

 友達なんていうのは所詮見せかけに過ぎなくて、いつかきっと裏切られるに違いないのだ。

 例えば命の危機に陥ったとき。例えば心に余裕がなくなったとき。例えば……二度と会うことはないと確信したとき。

 それが、まだ人生経験の浅いうちから学んだ、人生の大きな教訓だった。



 その別れを経て、苦痛の中で年が一つ上がった頃。

 これは本当に不運な出来事なのだが、両親が事故で死んだ。

 まだ小学生になったばかりの自分にとって両親の死は確かに悲しいものであり、世界がまるごとひっくり返ったような衝撃を受けたことは否定できない。

 しかし……両親の死、そのものよりも。

 むしろ、環境の変化にこそ、自分の性格は影響を受けてしまったのだと思う。

 今まで住んでいた場所から少しだけ離れた、会った記憶のない祖父母の家へと世話になり、転校をした。それは、広大な無重力の空間に自分一人だけが強い力で放り込まれたような恐ろしさがあった。ふわふわと漂うだけで、自分が一体何処へ向かっているのかも分からず、なのにどれだけ手足を動かそうともその流れに逆らうことができず、何かを掴むことすらできない。

 そして辿りついた先は当然、自分には全く身に覚えのない景色。人。そして家。皮膚の表面がざわつき、これからここで過ごしていくんだということを自覚すると、不安だけが募った。

 今まで自分が住んでいた家を離れること。今まで自分が馴染んでいた生活の空間全てから隔絶されること。それは、人並みに裕福な生活をしていた俺にとって多大なストレスを与えるものだった。

 けれど……それだけならきっと、なんとかなっていた。新しい環境に戸惑いつつも、慣れないなりに頑張って過ごそうと思えたと思う。

 だけど、――そこで脳裏をよぎったのは、それまで見せたことのなかった、親友だと思っていた女の子のドロドロとした悪意。

 蘇った、他人への不信感。

 事故で両親を亡くし、転校で同級生とすら離れたことで、周りに自分が知る人間は誰もいなくなった。

 生まれたばかりの頃に会ったことがあるという、それから世話をしてくれる祖父母にしたって、記憶にない俺には赤の他人も同然だった。だからそのときは、自分に向けてくる笑顔がおぞましくさえあったのだ。(祖父母の名誉のために言っておくと、二人はきちんと責任と愛情を持って俺のことを育ててくれた。今ではとても感謝しているし、一人暮らしを始めてから改めて実感したありがたさもたくさんある。できる限りの恩返しをしていきたい)

 ましてや、そんな家族さえも信頼できないままに新しく訪れた学校なんて、もう魔物の巣窟としか思えなかった。

 迎えた、転校初日。

 教壇という、みんなとは違う場所に立つ自分。周りが自分に向ける好奇の目。

 

 初めての自己紹介は、緊張と押し殺した恐怖で声が震えた。きっと傍目には、ひどく気弱そうに見えただろう。今思い出しても、みっともないことこの上なかった。

 質問攻めも満足に答えられず、学校に通い始めて一週間が経つ頃には、俺はもうそこらへんの空気と大差なくなっていた。嫌われてもいじめられてもいなかったけど、特別仲の良い人間もまた、いなかったのだ。辛うじて会話があった友人らしきクラスメイトたちも、きっと他の友人たちに比べれば、俺なんて全く大したことのない存在だっただろう。

 仲良くなれる機会はいくらでもあったのに、周りへの疑念から自らの手でそれを放棄した俺は、その当然の帰結として……孤立し始めていた。

 だけど、そんな時。


 ――なーに辛気臭い顔してんだよっ!


 手を差し伸べてくれたやつがいた。


 ――ほらっ、付いてこいって!


 強引に俺の手を引いて走る彼女は、ひょっとして自分をまた知らない所へと連れて行く存在なんじゃないかと思って怖かったけれど……今思えば、あれは命綱そのものだった。

 男の子のような口調で。勝気で。無邪気で。

 そして、誰にも流されないやつだった。

 憧れた。自分にない全てのものを備えていて、何にも恐れることのない明るさと強さを持ち合わせている彼女に。

 高槻柑菜という少女は、その持ち前の明るさで常にみんなの中心にいて、誰にでも好かれていた。他人を怖がってビクビクしているだけの俺とは全てが真逆の、リーダーシップのある頼れる存在だった。

 柑菜は俺に、色んな世界を見せてくれた。

 たくさんの遊具がある公園。裏山に作った秘密基地。内緒話をするのに最適な校舎の影。

 遊び方。楽しみ方。場所。

 歳を重ねていくことで変わりゆく放課後や休日の過ごし方も、みんな教えてくれた。

 柑菜は確かに、俺を知らない所へと連れて行った。けれどそれは、今まで澱んで見えていたのが嘘のように晴れやかな、目の前を遠くまで照らしてくれる明るい世界だった。

 気付けば俺は、いつも柑菜の後ろを追いかけていた。そして時には、俺を置いていかないようにと差し出されたその手に掴まり、肩を並べて過ごした。

 柑菜を通して友人もできたし、転校する前のような年相応の無垢な心も取り戻せたと思う。

 色んな無茶もやった。木登りだってしたし、飛び回る虫とだって戦った。他の学校のイジメに遭遇しているところに飛び込んで殴り合いをしたことさえあった。ボロボロになったけれど、『二度とこんなことすんな!』と言って追い返せた時には、そんな傷さえ勲章のように誇らしく感じていた。

 そして何年と時が流れるにつれて、幼き日に植えつけられた他人を怖がる心も、以前ほど過敏に反応を示さなくなってきていた。

 楽しかった。一日一日が、まるで光に包まれているように輝いて見えた。

 もし柑菜がいなかったら、どれだけ色褪せた人生だったろうと思う。

 柑菜と出会えてよかった。

 一緒の時間を過ごしているうち、心の底からそう思った。



 だけど柑菜は、――突然倒れた。

 中学三年生になったばかりの頃。下校途中だった。その日の柑菜はいつもより、ほんの少しだけ活気がないように感じたけれど、そんな程度のはずだった。体内で深刻な病気が進行しているなんて、つゆ程も、きっと本人でさえ思っていなかったに違いない。

 急性のその病気は、今の医学では簡単には治せないものだった。身体との相性が悪かったのか、投与された薬品も芳しい効果を示すことはなく、長期療養を余儀なくされた。

 そして、柑菜の入院生活が始まった。

 最初の頃は、まだ良かった。

 それなりの運動やスポーツもできていたし、外出許可も頻繁にもらえていた。子供のように自然を駆け抜けることだってできたし、人並みに休日を満喫することだってできた。学校の男女含めた多くの友人も、よく見舞いに来て励ましてくれた。

 だけど、時間というどうしようもなく巨大で抗いようのないものが世界を通り過ぎていくたび、まるで自然の摂理として人が老いていくように、柑菜の身体は動かなくなっていき、友人は他人に変わっていった。

 息が上がることは早くなり、発作の頻度は増え、目覚めているときでもベッドの上で過ごすことが多くなった。当然、高校へ行くことも完全に諦めさせられた。それでも可能な限り体力を落とさないようにと続けていた軽い運動も、その効果は虚しいものだった。五年が経った今では、ろくに走ることすらできなくなっていた。年齢的に高校生になる頃には、もう柑菜の元に来るのも俺一人だけになっていた。

 そんな柑菜を見ているのが、辛かった。

 何をして何を考えて何をやろうとも、時が経つというただそれだけのことで身体が細く衰えていくという事実を目視するのは、当事者でない俺でさえもあまりに耐え難いものだった。例えそれが、数年をかけるというどれだけ緩慢でゆるやかなものであったとしても、着実な絶望であることに変わりなどなかったのだから。

 だけど。

 それでも、柑菜は強かった。

 病気になったことも運動ができなくなったことも学校に行けなくなったことも、かつて友人だった彼ら彼女らに会えなくなったことも、苦痛に感じてなんかいない全然へっちゃらだと言わんばかりに振舞っていた。

 入院してまだ一ヶ月の、中学三年生の春には、


 ――お願いだよー! ジャンプ買ってきてくれよー! 検査とかどうたらで外出許可が出なくってさー! だから、なっ! 一生のお願い!


 既に病院での生活が当たり前になっていた、高校二年生の冬には、


 ――なあなあ、バイクの免許取ったって本当かよ! ならさ~あたしも乗せてくれよ後ろでいいからさ! なっ! 一生のお願い!


 俺が大学をやめて、何かをやる気力がなくなった十九歳の秋も、


 ――毎日毎日、飽きもせずにまったくよく来るよなー! 海斗はあたしがいないと何にもできねぇんだから!


 病院で過ごすようになってからも、それまでと同じような態度で、晴れやかに笑ってみせたのだ。それも、入院してからこの五年間、ずっと。徐々に身体が動かなくなっていくのが明白であっても、ずっと。

 平気なわけがない、なんてことは分かってた。

 治らない病が自分の身を蝕んでいると聞かされて、平気でいられる人間なんているわけがないんだ。それに初めて入院したとき柑菜はまだ、未来をいくらでも夢見ることができる、十五歳の少女に過ぎなかったっていうのに。


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「……っと、もう行かないとな」

 窓から差し込む夕日が眩しいと感じ始める頃。それが、今の季節ではこの安らかで取り留めもない時間を終える合図のようなものだった。

「今日もバイトか?」

「あぁ」

「そっか。また明日なー」

 当たり前のようにそっけない別れ。

 いつものことで、当然のことだ。学校の帰り道で、次の日も会う友人との別れを惜しまないのと同じように。



 病室を出ると、うら悲しい空気が頬に触れる。この部屋が病棟の突き当たりにあることと、夕方という時間がそうさせているのだろう。昼時の慌ただしさはなく、そして夜ほどの静けさには満たない独特の寂しさ。遠くから聞こえる誰かの足音や、台車を動かす音、歓談の声。そういったものが、どこか遠い場所から小さく聞こえてくる。世界から取り残されたような廊下に一際反響する自分、――と、もう一人の靴の音。

「あら、海斗くん」

 廊下を歩いていると、すれ違いざまに馴染みのある声に呼びかけられた。

 水野さん。

 ナース服に身を包んで親しみを感じさせるその人は、柑菜の受け持ちの看護師さんだった。柑菜が入院した時からずっと変わらずに担当していて、これまでのお見舞いで何度も顔を合わせていた。そのおかげで、柑菜はもちろん、俺のこともよく知っている。大人の雰囲気を漂わせつつも、明るく気さくで、ちょっとしたことでも気軽に話せる姉のような人だった。

「今日はもうおしまい?」

「はい、このあとバイトで」

「そう。しんどいだろうけど、負けないでねっ。私だってものすごくしんどいの、今も頑張ってるから」

 思わず苦笑する。他の人に聞かれてないだろうな、今の台詞。

 この人とならゆっくりと談笑したいところだけれど、生憎むこうは仕事中だ。こっちも油を売っている余裕がなかったので、それだけの会話を終えて立ち去るつもりだった。

 だけど、すれ違って不定期に聞こえるはずの二つの靴音はすぐに自分一人のものしか聞こえなくなって……そして、背中の向こうの世界が遠ざかっていくのを感じ始めたとき、

「海斗くん!」

 どうしようもないほどの切なそうな声を背中に受けたせいで、思わず足を止められた。

 そして、振り向いてすぐに視界に飛び込んできた表情が、殊更目に焼き付いてしまった。何か、辛くてたまらないことを告げなければならないような悲痛さを含んだ、弱々しくてあやふやな微笑み。この人は、こんな笑い方をする人じゃなかったのに。

 何故か、見ているだけで不安になりそうなそんな顔を直視したくなくて……喉から声が漏れてしまう。

「……なんですか?」

「……もし柑菜ちゃんが、今後海斗くんに何か頼み事をしたら……その時は、できるだけ叶えてあげて……?」

「? はい……」

 よく、分からなかった。

 柑菜が何かを頼むなんて、これまでだって何度もあったことだ。物を買ってきてくれとか持ってきてくれとか、どっかへ連れてけとか愚痴を聞いてくれとか。些細なことから面倒なことまで。二週間に一度くらいは一生のお願いをしていて、いい加減に欲は無くならないのかと、ほとほと呆れ果てるくらいだ。

 でも、水野さんの普段見せることのない頼りない表情を見ているとひどく落ち着かなくなってしまって、気持ちが急いた。

 時間が押してる。それを言い訳に、釈然としない曖昧な返事を返して、足早に別れた。



 病院から出ると、綺麗で寂しいオレンジ色の光に照らされる。そよと吹く風が身体を少しだけ冷やし、唇が乾いた。

 きっと、水野さんに妙なことを言われたせいだろう。

 何故か、昔のことを思い出した。もう四年以上も前……中学を卒業し、俺一人だけが高校に通い始めた頃から。柑菜はよく、学校について尋ねるようになった。新しく始まった俺の高校生活。その中で、俺がどんな風に過ごしていたのか。

 友達はできたか。クラスにいいやつはいるか。彼女はできたか。担任の先生はどんなだ。

 それだけじゃない。進級した時や、アルバイトを始めた時、卒業した時。大学に行き始めてからや、そこを辞めてからのこと。何かが新しく始まる時や、何かが終わりを迎える節目の直後。

 そう、特に……対人関係が大きく変わるとき。

 柑菜は決まって、そんなことを聞いてこなかったか?

 その度、俺はなんて答えていただろう。あまりはっきりと覚えてはいないけれど、同じようなことばかり言っていたんじゃないだろうか。

 高校の時。柑菜を通して仲良くなった中学のやつは全員別のクラスになり、それ以降は大して話さなくなったような気がする。唯一、中村秀樹なかむらひできという高校で初めて出会ったアイツは、柑菜以外に親友と呼べる存在にはなったけれど。それ以降はどうだったろう。バイトではプライベートでまで付き合うような人はいなかったし、大学では一緒の講義を受けていたやつと少し話はしたが、中退してからはハサミで切ったように縁も消えた。特別話すような面白いこともなく、箇条書きされた文章を読むように乾いた言葉だけを口から捨てていなかったか。

 どうして柑菜はいつも、あんなことを聞いてきたんだろう。

 いや、不思議なことなんて何もないじゃないか。そりゃあ知人の環境が変わったなら、ついつい気になって聞くことくらいは誰にだってある。その上柑菜は好奇心旺盛なタイプで、知らないことには容赦なく手を出し首も足も突っ込むような性格だった。だからそうして俺の近況を知りたがるのも、ごく当然のことと言えただろう。

 当時は、そう思っていた。

 でも、今になって思い出し、その言動や口調を思い返してみると、些細な違和感が胸を疼く。

 自分の知っている通りの、軽いノリ。だけど、いつも似たような答えしか返さない俺の言葉のあとに微かにわえる寂しげな口元。そして決まって口にする、他人との関係が希薄な俺をからかうような台詞。

 そんな一つ一つの仕草が鮮明に蘇ると、どうしてか、別の意味合いがあったように思う。

 あれは。

 あれは、心配していたんじゃないのか?

 柑菜は、自分がいなくなった後の俺のことを、おもんばかっていたんじゃないのか?

 そんな考えが頭を過ぎると、自分が酷く情けなく、そして、侮辱されているように思えた。同時に、何か言い知れない怒りがふつふつと内側から湧いてくる。

 確かに柑菜は、身体に関して自分が過度に気遣われることを嫌った。あからさまな扱いが、自分を『病人』だと意識させるからだろう。バカにするなと、強い口調で言われたこともある。

 だけど。だからって。

 柑菜がいなくなったとか、たったそれだけのことで、俺がダメになるわけじゃない。もうガキじゃないんだ。いつまでも子供の頃の嫌な思い出に囚われてなんかいない。今じゃ祖父母の元を離れて一人暮らしだってしているし、生活も全て自分で管理している。一人でもそれなりにやっていけるし、生きていける。そんなもの、自分を押さえ込む生活を強いられて、身体を蝕まれる恐怖に日毎耐えなければならないやつに比べたら、どうってことない。それこそバカにするなと怒鳴りつけたいくらいだ。

 でも、一抹の不安が心を覆う。


 ――海斗はあたしがいないと何にもできねぇんだから!


 そう言われたことを、不意に思い出した。

 今までずっと、お見舞いに行かない日はなかった。受験の前日も、入学式の日も、卒業式の日も。どれだけ忙しく身体が重たいときでも、たとえいられる時間が短くとも、必ず足を運んでいた。

 柑菜のことを気遣っていたわけじゃない。あいつが寂しい思いをするだろうとか、そんなことを考えていたわけじゃない。そもそも他人がいなくて寂しがるようなやつでもない。

 ただ日課になっていることを疎かにすると落ち着かないとか、そういった神経質な感覚と似ているに過ぎないんだ。

 ……落ち着かない。

 その言葉が、思考を泥沼へ沈める。

 柑菜に会わないと落ち着かないのか。柑菜が側にいないのが嫌なのか。

 


 ――もし柑菜ちゃんが、今後海斗くんに何か頼み事をしたら……その時は、できるだけ叶えてあげて……?


 切ない表情と悲痛な唇が、網膜に蘇る。

 あれは、どういう意味の言葉なんだ。柑菜の頼み事なんて日常茶飯事じゃないか。今更言うことでもないし、改めて聞くようなことでもない。どうせ柑菜がする頼み事なんて、今となってはちょっと欲しいものをねだるとか、せいぜいが散歩に連れてけくらいだ。柑菜だってあからさまなワガママを真剣に言うわけでもないし、水野さんは何を深刻そうに言っているんだ。

 逃避的な思考の首を、現実的な思考の手が締める。指先が喉元に食い込んで、暗い感情を吐き出させようとしてくる。

 心の底では、なんとなく分かっているんじゃないのか? ただその可能性を、口にしたくないだけなんじゃないのか?

 微かに漏れた闇を付着させた手が、そのままべっとりと脳みそを掴んでくる。もう耐えられなかった。

 考えざるを、えないんだ。

 柑菜が、いずれいなくなってしまう、ということを。

 それが近い未来かどうかは、まだ分からない。

 でも、その時は必ず来る。年々体力が落ちてきて、まともに動ける時間が少なくなっていることを、俺は知っているのだから。

 俺は、耐えられるのだろうか。

 一人で残されて。

 柑菜がいなくなったこの世界で、生きていくことに。

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