第19話-3 水泳訓練は意外と難しい
少し歩き、アベルとレニーの二人はよく水の見通せる浅瀬までやってきた。先にアベルが踏み入れ、腰程度の高さのところまで行ったところでレニーに向き直る。
「それじゃはじめようか」
…とは言ったものの、翼のせいでおぼれかけたのならアベルにはその感覚が理解できないためどうしたらいいか判らない。
「…そういえばさ、翼が濡れるとどうなるの? 動ける?」
アベルの疑問に、レニーは
「そうですわね…小翅族のよりはある程度水気を弾けますが、さすがに長時間どっぷり浸かるくらいだとやっぱり飛んだりはできなくなりますわね。私の場合は一応、水を操って乾かすことはできますけど」
そう答えつつ、レニーもアベルの傍までゆっくり近寄った。この間、中途半端に翼を広げたままこわばっている。その様子はさながら威嚇している大型の鳥のようだ。
「なら、目下のところ濡れても問題なくなるようになればいいのかな」
今はまだ、翼の羽先の方だけが水についている状況だ。それでも怖いらしい。
「そうなりますわね。ただ、それが怖くて…」
「そうなんだ。だったら…うーん」
しばらく考えて、アベルは提案した。
「そうだ、水に顔をつけることはできる?」
「そ、それくらいなら何とか…」
レニーの言葉に、アベルはちょっとほっとした。
「よし、だったらまずそれに慣れて、息継ぎできるようになろう。そうしたらいきなり溺れる可能性は減るし、あとは浮くだけになるからね」
「そうなんですの?」
「うん。じゃあ、僕のやるようにやってみて」
アベルは適当な岩にしがみつき、顔をつけてから横向きに息継ぎを数回して見せる。
「…こんな感じ。どう、できそう?」
「や、やってみますわ」
最初はおっかなびっくり顔をつけるレニーだが、
「落ち着いて。最初は目を閉じたままで構わないから、何回か顔を横に上げるところから練習してみるんだ」
「こ、こうですの?」
「そうそう、慣れてきたら、顔を横にしたまま少しじっとする。…そう、それで口を開いて息を素早く吸うんだ。今はそのことだけ考えてやってみて」
「ふぅ…はぁ……」
「それで、また顔を水に付ける。これを自分の調子でやってみるんだ。力を入れないでできるまでね」
そうして練習してしばらくするうち、レニーも一連の動作を落ち着いてできるようになった。
「どう、目を開けてみて?」
「ええ…見えますわ! ばっちり!」
顔を上げたレニーは嬉しそうに手を叩いてはしゃいでいる。頷いたアベルは、次の段階に進むときが来たと判断した。
「じゃあ、次は実際に浮くところからはじめてみよう」
「わ、わかりましたわ」
また不安そうに答えたレニーだが、今度は先ほどまでの経験が生きているのか焦らないで済んでいるようだ。
「この岩に掴まったまま、ゆっくり、ゆっくりと足を後ろにおいていく感じにして。腕に力を入れないようにね」
「こ、こうですの?」
「うん。そうしたら、いい? 僕が脚を支えるから、ゆっくりと膝から先へは力を入れないようにしてつま先を交互に動かしてみて。つま先は伸ばしたままだよ」
頷いたのを確認し、アベルは足元に回ると膝上に右腕を回し支えるようにして持つ。数回試すうち、こちらも無事にコツをつかめたようだ。
「うん、そういう感じで。力を入れないで。もう顔を上げていいよ」
「ぷはっ…」
手を離し、レニーが同じようにその場に立つ。水気をたっぷり含んだ翼が横に広がり、びったり水面を覆っている。
「後は、翼にもちょっと力が入ってるみたいだけど…こればっかりは僕には感覚がよく判らないからなぁ…」
アベルの言葉にレニーも頷く。
「まあ…そればかりは仕方ありませんわね。私にとっては腕のようなものなのですけれど…」
「じゃあ、慣れれば何とかなるかな? ひとまず、今のように浮く訓練を数回、足の着くところでやってみようよ。そうすれば翼の力の抜き方も覚えられるかもしれないし」
「判りましたわ」
そうして徐々に浮く時間を増やしていく。少し経つとレニーも補助無しで浮くことができるようになっていた。
「よし、それじゃあ後は息継ぎのやり方だけ覚えるんだ。それで泳げるよ」
「そうなんですの? 泳ぎ方をまだ習っていませんわ」
まだ不安そうに尋ねるレニーを勇気付けるように、アベルは明るく答えた。
「泳ぐだけなら手を水を掬うようにして掻けば何とかなるんだよ、浮いてるんだし。でも、泳ぐには息を吸わないとならないだろ? その訓練は必要ってこと。息継ぎさえ覚えれば、もう溺れなくなるよ」
「なるほど、そういうことなら納得しましたわ」
「とにかく、焦らないのが重要だから。じゃあもう一度浮くところからやって、それに息継ぎを加えてみて」
最初のうちはぎこちなかったレニーだが、間もなく安定してできるようになったのを見てアベルもほっとした。
「うん、そうしたら後は簡単さ。浮いた状態から、交互に手をまっすぐ伸ばして水を掻くんだ」
「どうして片方ずつにするんですの?」
「このやり方なら、息継ぎしながら前に進めるんだよ。一応両方使って泳ぐやり方もあるけど、それは慣れてからでも良いと思うし」
「なるほど…」
「それじゃあ僕の真似して水を掻いてみて。そのとき足もばたつかせるんだよ」
「ええ、判りましたわ」
泳ぐ段になると水を含んだ翼が重そうだったが、しばらく練習するうちレニーもこつを掴んだのだろう。大きく開かないよう畳んだまま泳げるまでになった。
「もう大丈夫だね」
数度並んで泳いでみて、問題ないと判断したアベルは身を起こすレニーに手を差し伸べながら断言した。
「ええ、ありがとう。これでばっちり泳げますわね」
「うん。さすがにリティアナたちみたいに本格的に泳ぐのは無理だけど」
先の凄まじい勢いで泳いでいたリティアナを思い返す。
昔から泳ぎは達者だったが、まさかあそこまで上達しているとは想像すらできなかった。
その光景を思い出したレニーも、笑うとも呆れるともつかないなんとも言えない微妙な表情だ。
あの後リティアナは結局クゥレルたちの後塵を拝することなく泳ぎきり、クゥレルたちがへばっている岩場の傍で休むことなくそのまま数回周囲を泳ぎ回り、今は潜水を繰り返しているようだ。
はしゃぎすぎである。
「…それは必要になったら考えることにしますわ。ともあれ、案外簡単でしたわね」
「レニーが物覚え良いんだよきっと」
確かに、ここまであっさり身につけられたのはレニーの素質に拠るところが大きいだろう。そう思ったアベルの言葉に、レニーはふふんと胸を反らせた。
「まあそれほどでもありますわね。水の術法を得手とする私のこと、きっと泳ぎに関しても才能があると信じておりましたわ!」
数時間前まではやけにしおらしかったのに…調子のいいレニーにアベルは苦笑した。
「…現金だなぁ」
そんなアベルに、レニーも照れくさそうに笑い返した。
「ふふっ、まあそれは半分冗談ですわ。アベルに教えていただいたおかげでもあること、ちゃぁんと理解してましてよ? 本当に助かりましたわ」
満面の笑みを浮かべるレニーに、アベルも笑顔を返した。
「いや、僕は基本的なことを手助けしただけだから」
そっとレニーの手がアベルの手に重ねられた。
「…レニー?」
「こうやって、以前にもあなたにも助けられましたわね」
「え? そうだっけ?」
レニーははっきり頷いた。
「覚えてらっしゃらない? あなたが、ルークの元を出た私を受け入れてくれたからこそ、他の方たちも受け入れてくれたのですわ。この手が、差し伸べてくれたから…」
「ああ。あのことか」
そのときのことを思い出したアベルに、レニーは穏やかに微笑みかける。
「はっきり言って驚きましたわ。それまで敵だった者を、しかも人族が他種族を引き入れるなんてまずありえないことだと思ってましたもの。今だから言えますが、私はあなたを追い出すつもりでいたんですのよ」
「…だから従えとか無茶苦茶なこと言ってたのか…」
呆れたように言うアベルに、レニーは頬を染めてうつむいた。
「…そのことはもう忘れてくださいまし! と、とにかく私が言いたいのは、その……感謝している、ということですの。この班はとても居心地がいいですわ…それもあなたがいてくれるから、ですわね」
「…そんな特別なもんじゃないと思うけどなぁ」
くすりとレニーは笑った。
「アベル、知ってらして? 人の上に立つための資質を」
しばらく考えてアベルは答えた。
「…頼れるってことかな?」
「まあ!」
レニーはどうにも面白くてたまらないというようにころころ笑い続けている。
「それでも間違っていませんわ。とはいえ、私たち全員が全面的に頼れるようになるのはまだまだ先のことだと思いますけど」
ムクロたちのことを思い出し、アベルは気を引き締めうなずいた。
「まったくだね。もっともっと頑張らないと」
「ですが、それは不正解ですのよ。アベル」
笑い止んだレニーがもう一度、静かに名前を呼んだ。その目はアベルをまじろぎともせず見ている。
「上に立つ者の資質は……」
「う、うん。資質は…?」
何を言われるのかと身構えるアベル。
「まあ、今日のところは宿題ということにしておきましょう」
しかし、レニーはあっさり棚上げしてしまった。アベルは思わずつんのめりかけてしまう。
「え、何で?! 言いかけたんだからちゃんと教えてよ!」
「ふふ、すべて教えても面白くないでしょう?」
そう言って穏やかに微笑むレニー。その彼女が、ぐいと顔を寄せた。
「え、あ、う」
いきなりのことで、アベルは生返事しかだせない。
幼さを残した頤、艶やかな桜色の唇、そして蒼く濡れ濡れとした眸子。
乗り込んできたときの傍若無人だった印象が強くてこれまでは意識してこなかったものの、水に濡れそぼつレニーはやけに新鮮に感じる。その美貌にひきつけられたように、アベルは視線を逸らせなかった。
どれほどの間、そうしていただろう。
長い間そうしていた…そう思っていたのはアベルだけで、実際にはそんなに経っていないのかもしれない。
アベルを我に返させたのは、遠くで自分を呼ぶリティアナの声だった。
「あ…ご、ごめん、呼んでる。僕、いかなくちゃ」
心臓が早鐘のように打っているのを押し隠すように早口でそういうと、アベルは慌てて立ち上がる。レニーの顔がわずかに寂しそうに曇ったように見えたのは気のせいか。
「そう…私はもう少し一人で練習しますわね」
それまでの沈黙が嘘のようにレニーははっきり言うと自ら岩場から離れ、水の中に浮かび出ていった。
「うん、判った。それじゃあ僕は行くよ。あんまり無茶しないようにね」
「ええ、もちろんですわ」
駆け去るアベルの姿が完全に見えなくなってから、レニーは水の中に潜った。
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