ガナッシュのように柔らかい朝の時間を

西織

ガナッシュのように柔らかい朝の時間を




 私の幼馴染に、八木原雪道という男がいるのだが、私はこいつのことが嫌いだった。

 小学生の頃に隣のマンションに引っ越してきたこいつとは、始めから気は合わなかったが、なぜだか不思議と縁があった。なにぶんこの田舎のことなので、特別進路にこだわらなければ、同じ学校に通うことになるのは仕方ない。

 けれども、まさか高校まで一緒になるとは思わなかった。

 中学の頃からカップルだの恋人だのとからかわれることが多くて腹立たしかったが、高校になる頃にはもはやそれが当たり前になり、周囲からの反応は、私と雪道を一緒くたに扱うようになってしまっていた。今では、半ば夫婦扱いである。屈辱だ。

 こんな男と一緒にされては堪ったものではない。

 ましてや、好きになるだなんて冗談じゃない。

 スポーツはできるが勉強はサボる脳筋おバカ。気安くてユーモアがあるが、少し視点を変えれば軽薄でデリカシーがない。遠くで見ている分には清潔感があるが、その内心は欲望まみれであることを私は知っている。スケベでタラシで、ちょっと気を抜けばセクハラをかましてくる。あんな男のどこを好きになれというのだ。

 といった主張を、私は小学校からずっとずっと、言い続けてきた。

 そんな風に奴をこき下ろすと、決まって妹の未早がフォローをする。

「お姉ちゃんは、ユキくんのこと悪く言い過ぎだよ」

 可愛い私の妹は、よりによって私が一番憎らしく思っている男を庇ってくる。それさえなければ完璧な妹なのに、本当に困ったものだ。

 雪道のことはおおっぴらに嫌っているアピールをしている私だが、さすがに悪口雑言を妹に聞かせるのは気がひけるので、妹の前ではほんのちょっとだけ手加減しているつもりだ。もちろんそれでも、アイツへの嫌悪感は伝わるようにしているけど。

「アイツが馬鹿でスケベなのは変わらないじゃない」

「そんな事無いよ。ユキくんも、いっぱいいいところあるのに」

「いいとこ? あいつに?」

 どこよ。

 胡乱げに尋ねると、未早は目を少しそらして、そっぽを向きながら、

「や、優しいとこ、かな」

 と、はにかんでみせるという、大変可愛らしい反応を見せてくれるのだった。

 妹が可愛いのは大変結構だが、それにあの男が関わっているという事実が、無性に腹が立つ。ひどすぎる自己矛盾だ。

「…………」

 やっぱり私は、奴のことを、好きになることが出来ない。

 妹の恋する顔を見る度に、私は憎しみを抱くのだ。


※ ※ ※


「よー、千歳。今帰りか」

「…………」

 この二月の寒い中、何故か耳元で羽虫の羽音が聞こえた気がしたけれど、多分きっと気の所為だろう。

 無視して歩を早める私に、後ろからブンブンとやかましい音が追いかけてくる。

「おいこら、無視すんなって」

「…………」

「なんでそんな急いでんだよ。あ、さては。ははーん、今から明日の為にチョコでも買いに行くつもりか? へぇ、千歳がチョコをねぇ。なあなあ、誰にやるんだよ。俺の知ってるやつ? もしかしてそれ、俺の知ってるやつ?」

 うるせぇ羽虫だなぁ。

 バス停の前で立ち止まると、奴も隣に立ち止まりやがった。並んで立っていると、また夫婦みたいに扱われるだろうが。分かっているのかこの男は。

 まあでも、家の方角は同じだから仕方ない。

 私はちらりとヤツの方に横目を向けると、探るように聞く。

「随分と早いじゃん。今帰り?」

「おう。テスト前で放課後の部活は休みだ」

 得意そうに言う雪道だが、何がそんなに誇らしいのだろうか。馬鹿じゃないのだろうか。死ねばいいのに。

「そう。じゃ、真っ直ぐ帰ることね。私は寄り道して帰るからここで」

「あ、コラ待て待て」

 あっさりと徒歩に切り替えようとする私に、雪道は慌てたように追いすがってくる。

「聞きたいことがあるんだっての。ふざけたのは謝るからちょっと待てって」

「ふざけたことを謝るだなんて、アンタの存在以上にふざけたことってあったっけ?」

「いつにもまして辛辣だなおい。何イライラしてんだ。生理なら終わったばっかだろ」

「ナチュラルにセクハラかますんじゃねぇよド変態」

 というか適当なこと言うな。危うく把握されているかと思ってぞっとしたぞ。

 ちなみに正しくはこれからである。

 ポーズとしての苛立ちから、本当にイライラしてきた私は、ドッと疲れて大きくため息をつく。私がこんなに嫌っているアピールをしているのに、この男はいつも私を振り回そうとしてくるのだ。こんな嫌がらせが他にあるだろうか。

 これ以上口論を続ける気も起きず、私は観念したように尋ねる。

「そんで? 聞きたいことって何よ。あたし忙しいんだから、早くしてよね」

「お、おう」

 私の剣呑な空気が伝わったのか、わずかに口ごもりながら、雪道はその名を口にする。

「未早ちゃんのことだけどよ」

「あん?」

 こいつの口から未早の名前が出てきただけで、私は凄んでみせた。

 その反応を予測していたのか、雪道はさっと両手を上げて降参のポーズを取る。俺は何もやってませんよー誓って妹さんには手を出してませんよー、といったポーズだ。あまりにも手慣れすぎていて白々しい。

 ギリギリと視線で噛み潰さんばかりに睨む私に、雪道は平然と言う。

「なんかよ、未早ちゃんの様子がおかしかったんだよ」

「ふぅん」

「俺に声かけてきたんだけど、何言いたいのか要領得なくてさ。後でメールするっては言ってたんだけど、なんかあったのかって。千歳なら知ってるかなって思って」

「そう」

 適当な相づちをうちながら、あらぬ方を向く。

 さて、どうしたものか。

 ここで知らないと答えるのは簡単だが、未早のことならだいたい把握していると自負している私からすると、知らないなんて軽々しく答えるのはプライドが許さない。あんな可愛い妹がどこぞの馬の骨にうつつを抜かしているという事実を、知らないふりする訳にはいかないのだ。

 とはいえ、ここで知っていると言って事情を話すと、それはそれで未早の努力を無駄にすることになる。そんなことは姉として出来ない。

 なので、私ははぐらかす。

「そのうち分かるんじゃない。メール来るんでしょ。それまで我慢しなさいな」

「なんだ、千歳も知らないのか」

「…………」

 こらえろ私。

 なにせ、あれだけ未早から「ゼーったい言わないでね!」って口止めされているんだ。ここで口を開いて、未早に嫌われたいか? いや、そんなのは絶対に嫌だ。

 未早の笑顔を思い浮かべて、私は心を落ち着ける。未早が一人、未早が二人。うん、冷静になってきた。今日も私はシスコンだ。

 私が自身のアイデンティティを確認したところで、雪道が溜息をつくのが聞こえた。

「ちぇ。その様子だと、口を割りそうにないな。わかったよ。待ってほしいってんなら、待っとくわ。未早ちゃんがムリしないように、よろしくな」

「……アンタに言われなくったって、未早の面倒はあたしが見るっての」

 勘が鋭いのか、それとも適当なことを言ってるのか。たまにこういうよくわからないフォローをしてくる雪道のことが、不気味で苦手だった。

 次のバス停で雪道とは分かれ、私はショッピングモールの方へと足を運んだ。

 さて、材料は未早の方で用意するとは言っていたが、多分足りなくなると思うので、念のためこちらでも予備を用意しておこう。


※ ※ ※


 チョコの手作りを手伝ってくれと未早が言ってきたのは、昨日のことだった。

「お姉ちゃん……あのね」

「あー。分かった分かった。その惨状を見ればわかったから、泣きなさんなって」

 未早が持ってきたボウルの中には、ボソボソに固まったチョコレートの残骸があった。

 どうやら、テンパリングに失敗したようだ。見たところ、底の方が少し焦げているようなので、湯煎するのが面倒で直火にでも当ててしまったのだろう。典型的な素人の失敗だ。

 落ち込む未早を前に、私は頭をかく。うん、シュンと落ち込んでる姿も、我が妹ながら可愛い。可愛いけれども、小顔に黒髪のお人形さんみたいな妹が、シュンと肩を落としている姿は長く見たいものではなかった。

「もう。こういうことやるなら、相談しなっていってるでしょ」

 言いながら、ボウルの惨状を確認する。あー。これはもう駄目っぽいな。

 ボウルを一個駄目にしたことを母にどう言い訳したものかと考えながら、未早に尋ねる。

「でも、急にどうしたの? 去年までは、いつものお店でチョコ買ってたじゃない。どうせあいつにやるんでしょ」

「う……。だからお姉ちゃんには話したくなかったんだけど」

 私が雪道を嫌っていることを知っている未早は、できるだけそういった話をしないようにと気を使ってくれているのだった。我が妹ながら、気遣いのできるいい子である。よしよししてハグしてあげたい。

 昔から姉思いの可愛い妹だったけれども、最近は可愛さに磨きがかかってきた。男子人気も高いらしいと聞く。そんな夢を抱く男どもを残らず殲滅したいくらいだ。妹を愛するのは自分だけで十分である。

 そんな可愛くて人気の妹は、指をつんつんしながら訳を話す。

「あのね。やっぱり、わたしも高校生になったから、ちゃんと自分で作ってみたいなって思ったの。溶かして固め直すだけって言われてるけど、でもその一手間があれば、ユキくんも喜んでくれるんじゃないかなって」

「そっか。そんな風に、友だちが言ったんだね」

「う……。はい」

 図星を疲れてうなだれる妹を抱きしめたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。

 まあ、そうでもなければ、料理下手な未早が、手作りをしようだなんて思わないだろう。

 普段は、母や私が台所に立っている姿をボォっと眺めながら「いい匂い~」と頭を揺らしているような可愛い妹だ。もちろん危険なので、包丁なんて私が触らせようとはしないが(白魚のような指に傷でもついたらどうする)、そもそも自分から触ろうとも思わないだろう。

 未早の最も得意な料理は、電子レンジのトースター機能を使った、なんちゃってピザトーストである。そんな妹に、チョコのテンパリングを一発でしろと言っても、難しい相談だ。

「えっと、今日って十二日だよね」

 日程を確認しながら、手順を確認する。

 私が作ってしまえば早いが、それじゃあ意味がないし、未早も納得しないだろう。なら、ちゃんと練習時間を考える必要がある。

「今日は試作のつもりで、明日作って、火曜に渡すってことでオッケー?」

「おっけーです、シェフ! どうかこのダメな妹めに、ご指導ご鞭撻を!」

「良いでしょう。お姉ちゃん、本気出します」

 もとより、妹のお願いを断るなどという言葉は、辞書から消滅している。

 材料について聞いてみると、予備のチョコはほとんど無いらしいので、作るのは翌日に持ち越しであった。

 なお、台所を見てみると、そもそも調理器具が圧倒的に足りないので、そのあたりを買い集める必要もあった。趣味程度のお菓子作りなら何度かしているけど、あくまでありあわせのものを使った、なんちゃってお菓子作りだ。未早の要望を叶えるのなら、ちゃんとした器具がないとまずいだろう。

 お小遣い足りるかなとお財布を確認してみたけど、たぶんなんとかなりそうである。


※ ※ ※


 そして、当日。

 雪道と別れた後、百均やらスーパーやらをはしごして、一通り材料を買い揃えた私は、妹との共同作業を楽しみにスキップしながら家に帰った。

 帰宅するやいなや、天使が叫び声を上げて助けを求めてきた。

「お、おお、お姉ちゃん! 大変だよぉ!」

 玄関にいる私に向けて、未早が小走りに駆け寄って来ると、ぴょんぴょんと跳ねてみせた。黒髪がふわふわしてる。ペンギンみたいで可愛い。

 なんだか大変なことが起きているらしいが、その程度で焦る私ではない。

「どーしたのー。まさか、先にチョコ溶かそうとして失敗した?」

 昨日の失敗を見ているので、今更私は動じない。そら、どうした妹よ。今度はどんな失敗をしたんだい? お姉ちゃんに言ってみ?

「う、うん。そうなんだけど、そうなんだけど!」

「はいはい。それで?」

「チョコが、チョコがぁ!」

「もう、そんなに焦らないの。落ち着いて、どうしたのかお姉ちゃんに言ってみて」

 まあどうせ、湯煎に失敗してチョコにお湯が混ざってしまったとか、ボウルを倒して中身をぶちまけてしまったとか、そのくらいの失敗だろう。

 まったくもう、可愛い妹なんだからと思いながら、私が靴を脱いでゆっくりと立ち上がったところで、未早が叫ぶように言った。

「チョコが、爆発したの!」

「はぁ!?」

 さすがに驚いた。

 発言が穏やかじゃない。

 そんなバカな、漫画じゃないんだから、と思いながらも、未早の鬼気迫った様子は冗談を言っている感じではない。

 でも、一体何をどうすれば、チョコ作りで爆発が?

「と、とにかく現場を見せて……」

 慌てて台所に向かうと、すでに焦げ臭い匂いがしていた。

 恐る恐るあたりを見渡すと、電子レンジの扉が開いていて、中の惨状を見せつけていた。

 茶色い物体がアチラコチラに飛び散っている。盛大に飛び散ったドロドロのチョコレートが、電子レンジの内側にこびりつき、ちょっとやそっとでは取れそうにない。

 これは酷い。

「え……いや、なんでこんな……」

 妹煩悩の私でも、さすがに未早の姿を二度見する。

 未早は「わ、わかんないよぉ」とオロオロとしているが、原因が無いわけがない。パソコンと同じで、何もしてないのに爆発するわけがない。

「チョコって、電子レンジで溶かしちゃダメだったかな……? わたし、すごくいいアイデアだと思ったんだけど……」

「ううん。電子レンジで溶かす方法もあるから、それは間違いじゃないよ、未早。でも、温めすぎたとしても、せいぜい焦げるくらいが関の山なんだけど……」

 これは完全に爆発している。

 使っている容器は、耐熱用のコップだったので、それも問題ない。

 あとはチョコの種類だけれど、一般的な板チョコを割って入れていたらしい。包み紙がまだテーブルに残っている。

「何にしても、このままにしておくわけにはいかないよね」

 原因を考えながらも、とにかく片付けの作業に入る。キッチンペーパーを水で濡らして、固まってしまったチョコを拭き取る。すでに固まってしまっているものは、少量のお湯をかけて溶かしながら、なんとか電子レンジ内を拭き取ろうと奮闘する。

 その最中も、爆発したことに怯えた未早が、その時の様子を口にし続けている。

「ブーンって音の後、バチバチッ、っていきなり言い出して、そうかと思ったらドーンッ、ってチョコが弾けたんだよ! 慌てて電子レンジを空けたら、すっごく焦げくさくって、怖かったんだよぉ!」

「うん、うん。怖かったねぇ、よしよし。未早は悪くない。悪くない、から、ね……」

 未早を慰めながら電子レンジを拭いていた私は、そこで見つけてしまった。


 解けたチョコの中に、銀紙が入っているのを。


「…………」

 無言のまま、テーブルに置かれているチョコの包み紙を見る。うまく空けられなかったのか、

ビリビリに破れている銀紙は、もはや原型を止めていない。

 何とも言えない表情をしているだろう私に、未早が神妙な顔をして言う。

「料理してて爆発するなんて、漫画の出来事だと思ってたんだけど、本当にあるんだね……わたし、一つ賢くなったよ。次からは、絶対にお姉ちゃんに見てもらってるときにしか、料理しない。そう誓うよ」

「うん。そうした方があたしもいいと思う」

 これまで、妹をお嫁に行かせるなんてもってのほかだ、と思っていたが、今日は別の意味でそう思った私だった。


※ ※ ※


「それでは、初心者の未早の為に、今回はガナッシュを作ります」

「わーい! ……ん? がなっしゅ? それってチョコレートなの」

 うむ、期待通りの妹の反応は可愛いけれど、女子として大丈夫だろうかこの子。

 予想通りの残念な答えが帰ってきたので、私は丁寧に説明してあげる。

「ガナッシュってのは、簡単に言うと生チョコのことね。生クリームとチョコレートを混ぜたもので、簡単に溶けるし温度調節もいらないから、初心者にはおすすめなの」

 正確には生チョコはガナッシュの一種にすぎないのだが、そこまで厳密に言う必要もないだろう。とにかく今は、チョコを溶かして、ある程度形にすることだ。

 手作りチョコレートで一番難しいのは、湯煎後のテンパリングの作業である。

 チョコレートの中のカカオバターは、溶かす温度と固める温度で、色合いや形、味が大きく変わる。一番いい温度が30℃から32℃で、その温度保つようにしながらゴムベラで混ぜなければいけない。

 手作りチョコなんて、市販の品を溶かして固めただけだなんて言われるが、その作業は超高難易度、はっきり言って素人が軽々しく手を出して成功するものではない。まともなものを作ろうと思ったら、かなりの失敗を積み重ねなければ習得できないのだ。でも、明日がバレンタインという状況において、そんな時間はあるはずがない。ないないづくしである。

 そこで、ガナッシュである。

「やり方は簡単。沸騰させた生クリームにチョコを投入して溶かすだけ。混ぜるのにコツは必要だけど、これなら失敗してもすぐにやり直せるしね」

「おー、なんかすごそう」

 買ってきた生クリームのパックを手に持って胸を張る私に、未早がぱちぱちと拍手をしてくれる。うん、かわいいよ私の妹。ほんと教え甲斐がある。

 そんなわけで、早速やってみよう。

 レッツクッキング。

「まず、生クリームを鍋に入れて、弱火にかけてと」

 私が見せる見本を、未早は真剣な眼差しで見つめてくる。天使の顔が近い。幸せである。この天使からチョコを貰う相手が憎い。

「火にかけすぎると焦げ付いたり、膜ができたりするから、耐熱ヘラでかき混ぜながらね」

「う、うん……頑張る」

「その間に、私はチョコを刻んどくね」

 生クリームでチョコを溶かすためには、チョコのかけらはできるだけ細かい方がいい。このあたりは同時進行で、それぞれが別作業をすることで、スムーズに進めていく。

 漫画なんかでは、ここでまたトラブルでも起きるのがお約束だが、さすがに横で私が見ていれば、そんな大きな失敗は起きる余地もなかった。一度、生クリームが沸騰しかけた時に、未早が鍋を触って思わず中をひっくり返そうとしたこと以外は、順調だった。

 刻んだチョコをボウルに入れ、沸騰した生クリームを注いで混ぜる。この時、はじめから勢い良くかき混ぜると、チョコレートがあまりうまく溶けず、チョコと生クリームが分離してボソボソになってしまう。初めはチョコが解け始めるのを待って、ゆっくりとかき混ぜながら、チョコと生クリームを均等に混ぜていく。

 最初は、チョコの油分が表面に浮き出してどろどろになってしまって失敗だった。

 その次は私が例を見せながら混ぜてみせると、未早もちゃんと成功して、滑らかで艶のある、きれいなチョコレートが完成した。

「お、おお。おお!」

 その光沢のあるガナッシュを見て、未早は目を輝かせている。可愛い。

 味見をしてみると、口当たりも滑らかで、成功したことが味覚でも感じ取れた。

「うん、完璧。あとはこれを型にとって固めるだけ。生チョコだから完全には固まらないし、冷蔵が必須だけど、ひんやりして美味しいよ」

「お姉ちゃん。ちなみに、好きな形にってできるの?」

「大丈夫だけど、型は持ってるの?」

 念のため、百均で小さなカップ型の容器は買ってきているけれど。

 尋ねる私に、未早は「ふっふっふ」と笑みを浮かべる。なんて可愛い。勿体つけるようにしたあと、彼女は「これだぁ!」と袋に入ったままの型を取り出してきた。


 クッキー用の大きめの型抜きを。


「…………」

「これね、百均で見つけたんだけど、大きなハート型で綺麗でしょ。この形に出来たらすごく素敵だと思うんだ。ね。素敵でしょ、ね?」

「………うん、そうね」

 自慢げな妹の顔を見て、私はわずかに目をそらす。

 さて、このガナッシュ。

 クッキー用の型抜きで形を整えるくらいはできるだろうが、果たしてこの大きさ、うまく固めることができるか? いやいやそれ以前に、手に持てるような固め方は出来ないからこその生チョコなわけで、小さめの塊で出すのが正解であり……

 なるほど、天使は小悪魔だったか。

「……うん」

 判断は速かった。

 今からテンパリングしたチョコの作り方教えるか。


※ ※ ※


 チョコ作りは、夜遅くまで続いた。

 夜勤に向かう母からは、「お姉ちゃんがついてるから大丈夫だとは思うけど、程々にね。あんまり遅くならないようにするのよ」という声をかけられた。酔っ払って帰ってきた父は、「お、なんだお前ら、手作りチョコか。色気づきやがって、このこの~」と言いながら、作りかけのチョコを食べようとして私と未早に怒られた。

 テンパリングによるチョコ作りは難航したけれど、久しぶりの妹との姉妹交流は最高のひとときで、常に失敗に気を配りながらも、私は楽しかった。

 けれど、まさか日付が変わるまで、あの飽き性の未早が頑張るだなんて思わなかった。

「もうこれでいいんじゃない?」

「うぅ……でも、色が。お姉ちゃんのはもっとキレイだし」

「なんなら、こっちを使ったら? 一緒に作ったんだし、未早が作ったのと変わらないでしょ」

「それじゃダメだよ! わたしが作らないと意味ないもん」

 強情な未早からは、譲れない一線があるのが見て取れる。

 一回に使うチョコの量は少ないとは言え、かなりの回数テンパリングに挑戦しているので、そろそろ予備も無くなりそうである。

 積み重なっていく失敗作は、気持ちそのものが積み重なっているようで、私には少しだけ重たく感じるのだった。

「ねえ。未早」

 さすがに気になって、私は自然と尋ねていた。

「そんなに、アイツのこと好きなの?」

 今年に限ってチョコを手作りする理由。

 人に言われたからというのはあるだろう。けれど、言われた上でやるということは、それだけ、渡したい相手に対する想いがあるという証拠だ。

 私の問に、未早は予想通りの答えを返す。

「うん。振り向いて欲しい」

 ボソボソになってしまったチョコを見下ろしながら、未早は苦いものを飲み下すように、目をぎゅっと瞑る。

 その一言はきっと、アイツだけじゃなく、私に向けられたものだ。

「義理じゃなくて、わたしのこと、見て欲しいから」

「………」

 聞くまでもなかった。

 そんなこと、知ってたのに。

「よーし!」

 パンッと頬を叩く。眠気なんて何のそのだ。可愛い妹の顔を見てれば、そんなものは吹き飛ぶ吹き飛ぶ!

 納得行くまで、とことんやろうじゃないか。

「じゃ、もうちょっと頑張ろうか」

「うん! ごめんね、お姉ちゃん」

「いーのいーの。それより、もうちょっとで残りがなくなっちゃうから、大切にしないとね」

 未早の肩をたたいて、私は冷蔵庫に入れていた板チョコの残りを取り出す。

 胸の内に湧いている気持ちを、握りつぶしながら。


※ ※ ※


 雪道の一家が隣に引っ越してきた時。

 背の高い男の子が来たな、というのが、第一印象だった。

 あれは小学五年生のことだった。女子が先に成長期を迎えて男子よりも背丈が高くなる中、雪道は誰よりも大きくて、びっくりした記憶がある。実際、彼を見た時、未早は怯えていた。そのことを考えると、私の最初の感想も間違いではないと思う。

 最初に感じたのは、自分より大きな男子に対する恐怖で。

 そのあと、すぐに反発心が生まれた。

 私は幼い頃から、妹を守ろうと強気に出ることが多かった。だからこそ、出鼻に怯えを抱いた自分が許せなかったんだ。その背の高い男子がどんな相手だろうと関係なかった。自分が弱気になった、その事実が、気に入らなかった。

 ぐっと踏みとどまって、精一杯睨みつけて。

 負けたくない一心で食ってかかろうとした私だったが、その勢いは、すぐに空回りすることになった。

 挨拶に来たあいつが、ニカッと笑って、人懐っこそうに声をかけてきたからだ。

「よっ。よろしくな」

 それは、心の隙間にすっと入ってくる気安さだった。

 敵愾心丸出しだった私は、虚を突かれて心を溶かされた。

 おそらく、それは彼の処世術だったのだろう。転勤族である親とともに、何度も引っ越しを重ねた彼は、初対面の対応には慣れたものだった。人一倍身体が大きく、同年代では怯えられることも多かっただろう彼は、相手を安心させるすべも心得ていた。

 そんな相手を前に、攻撃的に出ていた私は、どうして良いわからなくなった。

「う……えっと」

 睨んでいた目をオロオロと彷徨わせた私は、そこで、背後にかばっていた未早のことを、ちらりと見てしまった。

 心を溶かされたのは、私だけではなかった。

 それどころか、掴まされた女の子の顔を、私は見てしまったのだ。

「…………」

 だから、その日から私は、自分のポジションを見定めたのだ。

 私は妹が好きだ。

 そして、妹が好きな彼のことを、私は嫌いだ。

 そうすれば全てがうまくいくと、そう、幼い心でわかってしまったのだから。


※ ※ ※


「おっす、おはよう」

「……あんた、今何時だと思ってんの?」

 チャイムの音に慌てて玄関をあけた私は、寝不足の頭をおさえながら雪道のことを睨みつけた。結局あの後、二時過ぎくらいまで粘ったので、圧倒的に睡眠時間が足りない。

 寝間着のままで髪の毛はボサボサ。顔すら洗っていない、年頃の女子として終わっている格好である。でもまあ、こいつが相手なら気にする必要もあるまい。

 私の剣呑な態度を前に、やつはあっけらかんとした声で言う。

「いや、未早ちゃんから昨夜メールあってさ。朝、話したいことがあるって書いてたけど、どこ行けばいいかわかんなかったから、どうせだから迎えに来た」

「……待ち合わせの場所とか指定しとけよ」

 まだ夢の中にいるであろう妹に、さすがに苦言を申す。そういう抜けてるところも可愛いけれど、でも家で渡して良いのか未早。下手したら姉がいるんだぞ? 

 どうしたもんかと迷ってるところで、後ろから父が顔を出した。

「お、雪道くんじゃないか。おはよう」

 朝っぱらからデリカシーのないのが一人増えてしまった。

 父親という生物は、基本的に女子高生の敵である。パーソナルスペースをたやすく侵食してくるオヤジという侵略者は、娘の気持ちなど欠片も考えずに、愉快そうに言う。

「なんだ、昨日のチョコ、雪道くん用だったのか。随分と気合入ってたから、本命なんだと思っていたが、お前らも隅に置けないなぁ」

「父さんは黙ってとっとと仕事いけ」

「おお、怖い怖い。それで、雪道くん」

 肩をすくめながら玄関に出た父は、ひょうひょうとした様子で雪道に話しかける。

「うちの千歳と未早、どっち狙い?」

「俺的にはどっちも素晴らしいお嬢さんなんで、ぜひお二人とも」

「よし、許す。ただ、嫁にやるときは一発殴らせろよ」

「その前にあたしが殴ってやるよクソ親父」

 当人差し置いて何勝手なことを言ってんだこの馬鹿男二人は。

 私の怒りの剣幕を前に、父は「うひゃぁ」と声を上げて、笑いながら出勤していった。うん、帰ってきたら失敗作のチョコをたらふく食わせてやる。

 そして、雪道と私だけが残されたのだが。

「……ほほう。昨日は、チョコを作っていた、と」

 ニヤニヤとしている雪道が鬱陶しい。

 ため息を一つ尽いて、私は顎で部屋の中を指し示した。

「とりあえず、中に入ったら。もうすぐ未早も起きると思うし」

「いいのか?」

「アンタもだいたい察してるんでしょ。未早が起きる頃には、私は先に学校行ってるから、二人で話しなよ」

 少し順序は変わるだろうが、まあ四年来の付き合いだ。今更体裁を繕う必要もないだろう。

 リビングに案内する私に、雪道が声をかけてくる。

「そりゃあ良いんだけどよ。ちなみに、お前からってのはないわけ?」

「は? あたしが? あんたに?」

「おっと、こりゃあ本当になさそうだな。残念無念」

 少しも残念そうじゃない声が癇にさわるが、この際無視をする。

 そっぽを向いて、私はリビングから台所に直行する。とにかく、寝不足で頭がフラフラするのだ。馬鹿の相手をするよりも、早く寝起きの牛乳でも飲んで目を覚ましたい。

 と、その時だった。

「ま、おつかれさん」

「…………」

 ふいに。

 そんな言葉をかけられて、私は立ち止まって、目を閉じてしまった。

 急に立ち止まった私に、雪道は怪訝そうな反応を見せる。それを感じた私は、ふぅと小さく息を吐く。まったくこの男は、こういう不意打ちをしてくるから卑怯だ。

 胸のうちに形容しがたい感情が満ちる。

「―――」

 大丈夫。

 胸に満ちたこの気持ちは衝撃だけれども、その程度では私の嫌悪感は揺らがない。

 ただ、気を良くしたから、ちょっとくらい気をかけてやろう。

「あんた、朝飯は?」

「食った。最近自炊してんだよ、俺」

「へぇ。アンタがねぇ」

 転勤族だった雪道の父親は、彼が中学に上がる時に単身赴任を始めた。そして、昨年雪道が高校に上がった段階で、母親もたまに父親の単身赴任先に行くようになり、数ヶ月単位で雪道は一人暮らしをするようになった。

 たまにうちの母が気を利かせて夕食などを誘っているのだが、最近はちゃんと一人でも生活できているようだ。

「それじゃあ、私は朝飯の準備でもしましょうかね」

「おう。俺はコーヒーで良いぜ」

「あんたちょっとは遠慮しなさいよ」

 まあ、もう散々訪れた勝手知ったる他人の家で、遠慮も何もないだろうが。

 雪道を放って、私はちゃっちゃか朝食の準備を始める。

 朝ごはん用にトーストと卵を焼く。ついでなので、未早の分も作っておく。そして、仕方ないので雪道用にコーヒーカップを用意する。と、そこで、ちょっとした気の迷いを起こす。心のなかで葛藤をした後、合理化。まあそのくらいなら、問題ないだろう。

 トレイに自分の分の朝食と、二人分のコーヒーカップを乗せた私は、リビングに戻る。

「ほら、ありがたく頂きなさい」

「お、さんきゅー」

 雪道は新聞を読んでいた。

 人んちの新聞を……自由気ままとはこのことだろう。

 そんな気ままな彼は、目の前に置かれたカップを、無意識のうちに手に取る。そして、そのまま自然と口元に運んだ。

 カップの中身を口に含んだ雪道が、ピタリと身体を固める。

「…………」

「…………」

 その姿を尻目に、私はトーストをかじる。少し焼きすぎて焦げてしまっていた。準備に手間取ったのが悪い。つまりは雪道が悪い。

 目の前でいわれのない恨みを買っている当の彼は、カップの中を覗き込んで、私の方を二度見する。最初は怪訝そうに、そして、次にニヤニヤと笑いながら。

「ほほう。これはこれは」

 笑い方が気持ち悪い。

 そっぽを向いたまま、私はすまし顔で答える。

「言っておくけれど、余りだからね、それ」

「でも、失敗作じゃないよな」

「…………」

 ほんと察しが良いな、こいつ。

 黙った私に、雪道は「ほぉ、へぇ。ふぅん」と嬉しそうにニヤニヤと笑っている。そんな彼のニヤケ顔が最高に気持ち悪かったので、私は思わず、「黙って飲め」と言いながら、テーブルの下でヤツのスネを蹴りつけた。

 私も、カップを一口口に含む。

 無駄になったガナッシュを再利用した、甘くとろみのあるチョコレートドリンクの味が口の中に広がる。今顔が熱いのは、このカップの湯気が当たっているからである。

 さて。

 もうすぐ未早が起きてくる。

 その時までには、朝食を片付けて、出て行く準備をしておかなければいけない。これから可愛い妹が、一世一代の大勝負をしようというのだ。それのジャマをするのは、姉として気がとがめるというものだ。

 けれど。

 まあ、それまでは。

 こうして、彼の前に居てもいいかなと、そんなガナッシュのように柔らかく甘々な気の迷いを起こす、朝の時間だった。


END


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