第9話 願望 がんぼう


「はぁはぁ……」

「……大丈夫ですか」


「ごっ、ごめん。あんまり走り慣れていないから」

「そうですよね」


 まぁ、家が武士っていうなら多少は護身術くらい出来るだろうが……商人の家でそういった話を聞いた事はない。


 ちなみに「バンッ」という音が聞こえた瞬間。俺は、近くにあった『水球』を思いっきり相手に向かって投げた。


 ……俺。投手に向いているかもしれない。


 今まで見た事しかなかったが、意外にスピードが出て……という状況に関わらず楽しかった。


「でも、あの人たちは……」

「多分、俺たちが盗み聞きをした人たちです」


 そう、俺たちがいた家に突然入って来たのは、夕方に見かけた『あの出稼ぎ』の人たちだったのだ。


 まぁ、なんとか相手がひるんだすき一恭かずきよさんの腕を引っ張ってここまで脇目もふらずに走ったが……確実に追ってくるだろう。


「えっ、でも……」

「……夕方にすれ違ったあの人たちが、俺たちの姿に全く気がつかなかったって……本当に思っていますか?」


「えっ?」

「今にして思えば……の話ですが、いくら草むらにいたとしても、俺たちの姿はあの人たちから見えていたと思うんです」


 俺たちが忍びだったら、気配も消して気づかれない様に出来たかも知れないが、俺たちはそういったプロではない。


 しかし、相手がそういったプロの人間だった場合。俺たちの『物陰に隠れる』といった事などさぞ陳腐ちんぷに見えただろう。


「それに、一恭かずきよさん。ご自身でおっしゃっていたじゃないですか。『俺は、父親に殺されそうになっている』と」

「まさか……父様が?」


 未だに現状が信じられない一恭かずきよさんは、少なからずショックを受けている様に見えた。


「……どうやら相手も本気の様ですね」

「そう……なのか?」


「もし、雇われの殺し屋だったとしたら、すぐに見つかっておしまいです。先ほどは偶然が重なって上手く相手のすきをつけましたが、同じ手が通用するとは思えません」

「そっか……。じゃあ、俺。そこまで嫌われていたんだね」


 ――こんな時、どう声をかけるのが正解なのだろう。


 例えば、「そんな事ありませんよ」などの『励ましの言葉』では、現状を見た上では説得力に欠ける。


 じゃあ、ずっと『沈黙のままで……』という状態では、悪い方向にどんどん思考がかたよってしまうだろう。


 沈黙もダメ、下手な励ましもダメ、だからといって事実をただ淡々と告げるのもダメ……正直面倒……なんて言ってしまっては……とあの人に突っ込まれてしまう事間違いなし……ではあるのだが、正直、どうしようもない。


 しかし、このままここでジッとしていても……どうしようもない。


「じゃあ、ここで立ち止まっていたらすぐに見つかってしまうんだね」

「ええ……おそらく。ですが下手に動いてしまっては、たとえくことが出来てもあの家には戻れません。最悪、遭難する可能性も……否定はできません」


「……そうだね。さて、どうしたものか……」

「……」


 もっと落ち込むかと思っていたが……いや、もしかしたら一恭かずきよさんは分かっていたのかも知れない。


「……巻き込んでしまってゴメン」

「いえ、一恭かずきよさんが声をかけて下さらなければ俺は、ここが山だとも気づかずに路頭ろとうに迷っていたでしょうから、お気になさらず」


「……そっか。でも、まさか……『水球』が。またただの『球体』になるなんてねぇ」

「えっ」


「あれ、知らなかったんだ。あの玉。亮一りょういちくんが投げた時、空気も何もないただの『球体』になっていたんだよ」


 その時の状況を思い出す様に言った一恭かずきよさんの言葉に思わずその場で固まってしまった。


「ああ、そうだ。多分、『水球』が一杯になったのを最後に見たのは……母様が亡くなった時だ」

「かっ、一恭かずきよさん?」


「そして、あの時もこんな風に星がまたたいて、流れ星も出ていて……」


 そう言って一恭かずきよさんが見上げた空を俺もならって見上げたると、空は真っ黒いキャンバスの様に広がっており、その空をいろどる様に小さな星たちがかがやいていた。


 たまに……流れ星も出ている。


「その時に願った事がそもそもの始まりだったんだ……」

「あの……願った事とは?」


「……ただの平穏な日常じゃなく、普通じゃない生活をしてみたい……って」

「それはなぜ?」


 たまに、何気ない日常から脱してみたい……そんな風に思う人がいる……と聞いた事はあった。


 まぁ、俺は毎日が普通じゃないからそんな事思った事はないけど……。


「どうせ叶わないだろう……って思っていたんだよ。そんな事にはならないって、心のどこかで思っていたから、そんな事を願った……でも」

「叶ってしまったんですか」


 そんな俺の言葉に、一恭かずきよさんは小さく苦笑した。


「……今の状況を見たら一目瞭然いちもくりょうぜんだろ? 平穏な生活をしていたら、追われる事なんてないはずだから」

「……そうですね」


「母様が亡くなった時から色々おかしくなった。父様は母様が亡くなった現実を受け止められなくなって、仕事に没頭し、妹も悲しませた上に才能があると分かった瞬間に、妹すら利用しようと考える様になった」

「……」


「考えてみたら、全部俺が悪いって、俺のせいだって……今更になって気が付いたよ」

「……だからって、諦めるのは違いますよ」


「……えっ?」

「いくら願ったとはいえ、それを証明する方法はありません」


「だけど……」

「それよりもあなたがすべき事は、妹さんの力になってお父様の考えを改めさせる事です。難しい事ではあると思います。そもそも俺は部外者の人間ででうす。ですが、あなたまでいなくなってしまっては、妹さんは一人になってしまうんですよ?」


 あまりに俺がまくし立てる様に言ったからなのだろうか、いや、俺が熱くなって顔を一恭かずきよさんに思わず近づけてしまったのだろうか……。


 何にせよ、一恭かずきよさんはそのまま目を見開き、俺の言葉をコクコクと首を上下に振った。


「そう……だよね。諦めたら……ダメだよね」

「そうです。それをする為にも、今はなんとかこの窮地きゅうちを脱しないと……」


 周辺を見渡しながら、警戒していると……


「こっちだよ……」


 一恭かずきよさんは、俺の腕を引きながらそう言って『ある場所』へと誘導したのだった――。

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