第8話 黙ってて
「綾瀬? 今日は休みだけど」
つれない友人がいつまで経っても大学に来ないので、どうしたものかと他の子に訊ねてみると、意外にも呆気ない答えが返ってきた。
大学になってからほとんど一緒に行動してきたからこそ、心配になるのだ。もとい、私が勝手につけ回っていただけかも知れないが。
しかし休みの原因は、単に寝不足と二日酔いで体調を崩しただけだ。
拍子ぬけだなあ、と思いながら私は講義を受ける準備を進めた。
授業開始のチャイムが鳴って三十分ほど経ったが、教授が一向に現れないので教室はざわついてきた。
遅刻で入ってくる生徒も居れば、教室から出て行こうとする生徒もいる。
パンを食べ始めたり、
私は一人、する事もなくぽつんとしている。本も無いし、ケータイを出すのは面倒。
不意に"異変"の夜の事を思い出した。
心底驚いていた友人の顔を思い出すだけで、ちょっとした優越感に浸れる。"異変"を他人に見せたのは彼が初めてだ。彼も"異変"の事を知ってしまったから、もう"異変"と呼べるかは分からないが。
私の時はどうだっただろう。暇を持て余していたので記憶を辿ってみる事にした。
"異変"の正体、"笑う月"を見つけ出したのは高校生の時で、月の方から声を掛けてきたのだ。
「よお人間、眠れない夜は楽しいか?」
つれない友人は大層驚いていたが、私は"そういうもの"に慣れていたせいで、どこか冷めていた。
「全然。早く寝たい」
街灯の少ない街にある坂の上、月は不気味に輝やいている。
「ならば眠れば良かろう」
あざ笑うように答える月を、ちっぽけな人間の目で睨む。
「眠れないから困ってるの」
月は声を出して笑った。
私の他に、月が笑っている事に気付いた人は何人居るだろう。
「可笑しいのう、人間。夜は眠るものだ。何故眠らぬ」
「そっちこそ、月は喋らないのに、何で喋るのよ」
月の問い掛けたには答えず、生意気な事を言っても月は怒らずいてくれた。何億年も歳上の相手だと気付くのは、もう少し後の事だ。
「人間が眠らぬからだ」
間を置いて、月は続けた。
「夜は儂の世界。人間は眠る時間。ずっと昔からそう決められていた。しかし人間は夜でも活動しているではないか」
月の言葉に、私は返す言葉が無かった。
「夜は人間にとって、危険で妖しい世界。人間が眠らぬなら、儂が忠告するしかあるまい」
月は穏やかな表情で、私に諭すように言った。
私は胸の辺りがむず痒くなって、そっぽを向く。自分の背後、坂の下の街はネオンの光で眩しかった。
「優しいんだね」
「ホ、ホ。人間は可愛いからのう。ここから見下ろしていると、豆粒のようだよ」
僅かに明かりを灯していた街灯が、ひとつ消えた。
「今一度問うぞ、人間」
月の不敵な声が背中に突き刺さる。
「何故、お前は眠らない?」
月は人間には優しいが、私には意地悪だった。
記憶の海から意識が戻ってくると、もう教授が教鞭を振るっていた。授業開始から一時間が経過している。
慌ててノートを開いて板書を写そうとすると、一人で座っていたはずの席の隣、見知らぬ女の子が座っていた。
木製の椅子に、正座していた。
「あの」
思わず口が滑る。
女の子はこちらを向いて、軽く会釈してくれた。花粉症を引きずっているのかマスクを付けている。
「ちょっとノート、見せて貰えますか?」
彼女は答えず、メモ帳にペンを走らせてそれを私に見せ付けてきた。
『いいですよ。その代わり、条件がありますが』
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