第7話 眠れない夜の月は

前回のあらすじ。


昼と夜の区別が付かなくなった俺は、たまたま出会った女性にほうれん草を渡して半ば騙される形で昼夜逆転生活を送る羽目になった。

とんだお笑い種だ。


「まずはカフェイン摂取から始めようか」

そう言って俺の部屋に入り込んできた馬鹿は、台所(とも呼べるか微妙な備え付けのシンク)でコーヒーを淹れた。

馬鹿が俺のマグカップを使って、俺には母親から貰った湯呑みを渡してきた。コーヒーは嫌いじゃないから、一応は飲む。

「コーヒーのカフェインってあんまり作用しないらしいけどね」

「ならエナジードリンクにすれば良かっただろ」

「雰囲気は大切だよ?」

馬鹿の自信満々の顔は、俺に殴れと言っている気がしてならなかった。


「それで、何でこんな夜中に俺を誘いに来たんだ」

先程まで就寝していて、朝と勘違いして起きた俺が言うのも難だが。

「そうだねえ」

馬鹿は纏まりのない自分の髪の毛を弄りながら言う。

「昼の2時から寝て夜の2時に起きた君は分からないと思うけど、今夜ちょっとした異変が起きるんだ」

「異変?」

意味が分からなくて反芻すると、馬鹿は楽しそうに笑い掛けてきた。

「そう。異なる変化、で異変だよ」

言葉の意味をいちいち考えた事がなかった俺だから、この時馬鹿の言葉にやけに納得したのかも知れない。

「普通、夜に人間は眠るでしょう?」

最近では昼夜逆転生活を送る人も多いので、一概にそうとは言えないが、文化的に人間を見るならその通りだ。

「人間の寝ている間に起きるから、"異変"と呼ばれているのかもね」

誰も見た事が無いから、普段と違う夜が訪れるから、"異変"。

「お前は知っていたのか」

「まあね」

流すように言うと馬鹿はコーヒーを啜る。

「教えて良かったのかよ。"異変"って呼ばれる位なら、お前以外の人間が知ったら不都合なんじゃないのか」

「いいや別に」

馬鹿は満更でもない表情で空になったカップを送く。

「皆が寝てる間に起きる事だし、珍しい事っていうだけだから」

少し前に空になっていた俺の湯呑みとカップを片付けようと馬鹿は立ち上がる。

「世界が滅亡する予兆でも何でもないから大丈夫だよ」

馬鹿は一瞬だけ微笑んだが、すぐに俺に背を向けてしまった。

"異変"についてはある程度納得出来たが、何故俺の所に馬鹿が来たのかは理解出来なかった。


俺と馬鹿はベランダの縁に座って夜空を眺めた。確か、午前三時過ぎ。

しっかりした造りでもない縁で、2人分の体重を支え切れるのか不安が残るが、あえて気にしない事にした。

死に際に"異変"を見る事が出来るならば、それはそれで幸せな終わり方かも知れない。

「ほら、きたきた」

馬鹿が必要以上に騒ぐ。

このままだと崩れるぞと言いたかったが、俺もにわかに興奮を感じてしまった。




月が笑っている。

比喩ではなく、皮肉でもなく。

本当に、月が笑っている。

普段の夜には見えないような大きな月が、

大きな目玉をちらつかせて、俺たちを笑っている。

そして月は、俺に訊ねてきた。




「よう人間。眠れない夜は楽しいか?」


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