第15話
何か言われる前に早足ですれ違ってそのまま黙って逃げる。
普通に「よー上野も時枝もおつかれ! じゃ!」で有無を言わさず帰る。
飛び降りる。
思いついた脱出案は、それだけ。
どれも選択できなかった。
「キャンプファイアー、こっからでも見えるかな」
「見えるんじゃないかなあ」
「……! ……!!」
迫りくる足音に焦って、首がねじ切れるほどあたりを見回し、目に留まったのは給水塔とそこまで上るための梯子。
何も考えず飛びついて駆け上がり、給水塔の上で身を伏せた。
閉めていた屋上のドアが開いたのはそれから数秒後の話。
不安要素しかなかったが、二人の視線がこっちに向かないことを祈り、あるいはこの体が夜の闇にまぎれることを願いつつ、軍人みたく腹ばいになっていた。両手は祈るように組んでいる。
遠くで燃えているキャンプファイアーがこのときばかりは恨めしい。向いてる方向の都合上、二人が見えないのもまた怖い。
「あ、フォークダンスもうすぐじゃない?」
「らしいね」
判断材料は声だけなので、その時枝の声がわりと弾んでいるのが、なんとも、なんとも。
対する上野のほうは、どこか緊張しているような調子だったが……。
「上野くん、行かなくていいの? 絶対ヒーローでしょ、今日は。みんな離してくれないって」
冗談めかして笑う声音……。
いつまで耐えればいいのだろうかと現在時刻が気になった、が、この状況で携帯のディスプレイを点灯させるのは怖すぎる。
ズリズリと腕を動かして、腕時計のほうに目をやろうと……した、途端。
「……それなんだけど」
妙に真剣味のある声で、空気が変わったのを肌で感じた。
「なに?」
なにじゃねえだろ時枝よお!
見えないが、たぶんのほほんと笑っているのだろう、柔らかい声色で時枝は返事をした。
これからどうなるかわかんねーわけでもないだろうに、なんなんだよその気の抜けた返事は!
俺のほうは身じろぎするのもためらうような緊張の中にいるというのに!
なにかが変にハイになってしまって、動くわけにもいかない体が熱を持ってプルプルと震える。
「えーっと、わざわざこんなとこまで来てもらって、あれなんだけど」
「うん」
「……フォークダンス、一緒に行ってくれねえ?」
そんな震えもぴたりと止まった。
やっぱり、そういう状況だ。
やっぱりそういう状況だ!
「うん、別にいいけど」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……あー、うん。わかった! ハッキリ言う!」
ごほん、と咳払いの音が聞こえた。
今からでも逃げられないものか。
単純に、部外者がその場にいること自体がもう悪趣味だし、俺だってそんなの聞きたいわけじゃないし、
「俺、時枝ちゃんのこと好きだ。だから、付き合ってほしい」
終わり。
いや、そこからは飛び飛びだ。
「時計、直してるとこ見せてもらったことあったじゃん。あれで、なんかいいかなーって……なんかいいって失礼かな」
言ってしまうと気が楽になったのか、上野はわりと穏やかな調子で語っていた。
それは時枝がなんで私なのとか私のどこが好きなのとかそういうことを……聞いたから、だっけ? 聞いたんだっけ? 記憶に虫食いができている。
「なんていうかなー。今日もそうだったけど、楽しい時間ってすっげー早く過ぎるじゃん。だから俺、何やってても、熱中し出すとすぐ時間忘れて。それで他のやつらに怒られたりとか、よくやるんだよね」
無限のような時間だったが、針の進みは早かった。早くこの空間から解放されたいとひたすら願っていたせいだろう。
もう3分くらい経ったでしょ、もう5分くらい経ったでしょ、もう10分くらい経ったでしょ、と、体感時計は確認するたび着実に針を進めていた。
それだって何の救いにもならない。
むしろガンガン進むから余計終わりが見えなくなっていて、針のむしろに寝転がるような苦痛は永遠かと思うほど辛かった。
「時枝ちゃん、時間の感覚っていうのかな、そういうのすっごいキッチリしてるじゃん。時計屋だからかな、やっぱ」
台詞は頭に入ってこない。なるべく入れないようにしていた。右から左へ抜けていく。
人の告白に聞き耳を立てる、それは悪趣味だという理性が残っていたのが半分あって、単にショッキングな場面に居合わせたせいで頭が回ってなかったのが半分。
「俺も、時計って結構好きだし。昔っから腕時計つけてたし、って前にも言ったっけ。まあ、別にだからってわけじゃないけど……」
「……側にいてほしいって、思ったから」
いや、ダメだこれは。
そうなるとは思っていたが何も現場ダイレクトに見ることはないだろ。
ダメだろ、これは。
時枝は何も言ってないのか? それとも俺の脳が時枝の言葉を無意識に弾いているのか?
そもそも一連の上野の台詞がちゃんと順番に並んでいたものかどうかも不明。頭の中がぐるぐるしている。
それほど耐えがたいものがある場面で、身じろぎひとつせずじっとしていられるのが不思議なほどというか、ズタボロの半死半生だから動く気力もないと言ったほうが正確。
俺は、ほとんど死んでいた。
もう時計を見ることもしたくなくて、文字盤は左手で覆っていた。
そうなるならそうなるでいいから、早くここから逃げ出したいと、それだけ思ってじっとしていた。
「だから、……もう一回、言う」
目を閉じた。
「俺と、付き合ってください」
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