第2話 童子

「……兄様、どうしてもわたしのもとに戻ってきてね」

 その言葉は彼にとって死より過酷な世界の中で唯一の救いであり、最後の呪いだった。

 物心ついたときから彼は死というものに慣れていた。慣らされていた。飼い慣らされていた。

 死は何より身近なもので、いつか訪れることが約束されている福音のようなものだ。いつ終わるかさえわからない、この苦痛に比べれば、必ず訪れて全てを終わらせてくれるとわかっている解放は、彼にとって救いに他ならなかった。

 初めは十二人いたはずの仲間は、ひとつの戦場を、死地を経るごとに、確実に一人ずつ減っていく。

 《二番ツヴァイ》は数百の兵を殺したが、《鬼血ブルート》を使い果たして死んだ。《四番フィーア》は数多の戦場を傷ひとつなく生き延びたが、《鬼血》に自分の血を喰わせ過ぎて死んだ。《九番ノイン》は可哀想に人間に捕まって、どうすれば彼らを殺すことができるのか確かめるため、危険な薬物を散々投与されて、発狂して自殺した。《十番ゼエン》は自分より圧倒的に巨大な妖種に呑み込まれて、それでも敵の体内で爆裂して道連れに死んだ。

 彼は、死にゆく同胞を惜しまなかった。彼に悲しみはなかった。むしろ死人を妬んでさえいたのだ。

 ──どうして、俺は奴らと同じように死ねない救われない

 そんな折に、彼を慰めたのが《十三番ドライツェーン》だった。

「兄様、わたしには兄様しかいません。どうかわたしを独りにしないで」

 彼女は、彼と違って孤独だった。たった一体の新型の被験体。未だ実験段階の彼女の身体は調整不足で実戦に堪えるものではなく、投入は見送られていた。

 彼は戦場に捨てられ、何人もの人を、妖を殺し、その血を雪ですすぎ、妹のもとに帰る。日々が続く。それは仮初めとはいえ、彼にとってかけがえのない時間だった。

 兄が、弟が次々と先に逝く中で、最後に残ったのは、たった二人の兄妹だった。彼らは我先に救いの死を求めて戦っていたから、数が減るのは少しも不自然ではなかった。《不惜身命》の戦術は彼らの代名詞だった。

 やがて二人は、たった二人の家族として、兄妹としての固い絆で結ばれるようになった。言葉にはしなくとも彼は妹のためなら死ねると考えていたし、妹も兄のために命を捨てる覚悟があった。

「兄様、わたしたち、ずっと一緒にいましょうね……」

 二人の戦場の中の平穏な日々は終わりの見えない戦争の惨禍の中で、唯一の終わらない幸福のように思えた。


          ○


 カンバスに紅い絵の具をぶちまけたように上等の白いスーツには真っ赤な血が飛び散っている。そして相対するのは、ひどく対照的な闇より暗い真っ黒の拘束服を身に纏った男。互いに一歩も譲らない視線の攻防は相手の指先さえ動くのを許さず、戦線は膠着状態に思えた。

 しかし──永遠に思えた静寂を破り、突如として戦端を開いたのは、白だった。

「英雄気取りかッ、老耄め──!」

 紳士然とした男はたった半歩で三間はあろうかという距離を軽々に詰める驚異の敏捷で迫る。その豪腕を、易々と去なしたのは数々の死線を潜り抜けた経験の代物か。

「馬鹿正直な拳筋だ。避けないほうが難しい」

「なん、だとッ」

 侮辱に歪めた男の顔に思い切り頭突きを食らわせる。額は鋼鉄のように硬く、すぐに自らの判断を後悔した。これまでの《眷属》相手なら、肉体をできるだけ多く破壊して血を失わせる面攻撃が有効だったが、ヤツは違う。

 恐らくは肉体の変性。血であれば辛うじて自分でも扱えるが、肉体はどうしようもないはずだった──あの頃までは!

 しかしヤツは《第三世代》と言った。それが本当なら、自分の考えている最悪の意味で使われた言葉なら、この能力も何ら不自然ではない。肉体の変性は、明らかに吸血鬼ノウブルの領分だ。妖種の出来損ないの《眷属》程度に扱える神秘では、決してないはずなのだ。

 終戦から十八年。本当に、長い時間だ。それだけの時間を掛けて、凍結したはずのあの計画が──水面下で進行していたとしたら。

 ──想像しただけで、怖気が走る。

「……所詮、あなた程度では僕を殺せない。これは性能スペックの問題ですよ」

 頭突きにわずかに怯んでいた白尽くめが難なく復帰して、にやりと笑う。しかし先ほどとは違い、その顔には明らかな怒りが浮かんで見えた。あるいは、不要な刺激をしたか。

「何が、目的だ」

 相手の出方を見るためにも、軽く問い掛けする。白尽くめは喉を鳴らして応えた。

「フン、あなたに教えてやる義理はありませんが……どうせあなたはここで死ぬ。冥土の土産にでも教えてあげましょう」

 白尽くめはしかし、未だに余裕を失っていない。油断し、侮っているのか──あるいは本当に、実力差を覆されないことによほど自信があるのか。どちらにせよ、時間を稼ぐに過ぎたるはない。

「バカな同胞が、この地域で《眷属》の生産を研究していたらしいんですが、何らかのアクシデントで被験体が逃げたらしい。そこで僕はその後始末のためにわざわざ別の地区から呼ばれたというわけです」

「《眷属》の、生産だと……」

 ククッ、とおかしそうに笑う。

「あなたもそうして生まれたのではないですか? 《肉体変性》も《吸血》も備わっていないなら、戦後すぐのモデルか、あるいは出来損ない、といったところか」

 推理の真似事をするような仕草で、白尽くめは愉快そうに話す。その間にどう対処するかの算段を立てなければならない。

「……しかし、そう考えると僥倖でしたね。つまみ食いをに見られたときはしくじったと思いましたが、ここで処分対象に出会えるとは。これで僕のノルマも減るというもの」

 さっきから少しずつ、白尽くめの放つ妖気は純化し、研ぎ澄まされていっている。吸収、あるいは「消化」か──これが《吸血》なのか。先刻の警邏員の、血液を。

「世間話もここまでにしましょうか。あなたももう満足したでしょう? そろそろ──死んでもらえますかねえッ!」

 不意に跳躍したその姿は、もはや人間の目に留まるものではない。音を聴いてから反応したのでは到底間に合わない速度で、白尽くめは拳を突き出す。その拳は純粋に掛けられた男の堅固な肉体の重さと、スピードによって、そして何より恐るべき《肉体変性》によって人体には有り得ないレベルで硬化させられた皮膚によって、今にも脆い頬骨を打ち砕き頸を捩じ切らんとしていた。しかし──

「……自分から飛び込んでくる、馬鹿がッ」

 ──白尽くめの拳は、黒くよどたわゆがみ、すべての悪と罪とを煮詰めたような色の、一振りのの、一刀にして両断された。

「《童子切ドウジギリ・◼︎◼︎》──抜、刀ッ!」

 歯を食い縛って、銘を怒鳴りつける。その刀は、決して抜いてはならない一振り。

 ──抜くということは、一秒でも早く鞘に納めなければならないということだ。

「長話をしてもらったところに済まないが、こっちの都合で早々に終わらせてもらうぞ」

「なんだッ、その、刀は──ッ!」

 流れるように斬りつける。否、叩きつけている。錆びた武器だ。斬れ味などハナから存在しない。当然、男もいとも容易く刀を弾き、叩き返し、躱していく。しかし──それでも白尽くめのスーツは少しずつ、血で濡れていく。それは他人の血ではないことを、白尽くめ自身が最もよく知っていた。

「な、何をッ、した──ァ!」

「本当は、こんなモノ使いたくはない。しかし……護るためには、仕方ないんだ」

 脳裏にはただ、芳乃の姿だけがあった。それは何を犠牲にしても、たった一人を守り抜くという決意に他ならない。その表情は、きっと鬼より鬼だった。

「……っぐ、あ、あぁッ、ッア──!」

 少しずつ男が太刀筋に対応しきれなくなってくる。それを追い詰める心境は、不自然に荒れていく。どうしようもなく目の前の敵が憎くなる。耐えられない憎悪。怨嗟。

 ──殺せ。コロしてしまえ。何を迷っている。あの日、あの時、躊躇いなくわしを殺ったように、ひと思いに斬り落とすのだ!

 ──その刀は、呪いそのもの。死と、無念と、腐食の権化。たった今よりその銘は──

 ──我が名は、《童子切》──!

「アハトさん──ッ!!」

 その声に、叩き起こされた。瞬時に《童子切》を地面に叩きつける。それは無様な男の姿を嘲笑うようにカラカラと嫌に軽い音を立てて、そこに転がった。

 息も絶え絶えに、自分の手を見る。そこには血が、まるで数百人の人間を殺したような血が、べったりとこびりついていた。

「……俺、は……」

 正気を失っていた。あのままでは、衝動のままに殺していただろう。引き戻されたのさえ、恐らくは偶然だ。恐るおそる刀を拾い上げて、納刀する。これは、魔性の刀だ。

「……ッ、ぶふッ……ッハ、はは……」

 白尽くめの男が、泡立った血を吐く。

「なんですか、それは……あなたのほうが、よほど反則じゃ、ないか……」

「アハトさんっ!」

 芳乃が駆け寄ってくる。手を取られて、初めて気がついた。

 自分の手が、震えていることに。

「……おい、《第三世代》と言ったな」

 恐怖する自分を誤魔化すように、もはや真っ赤に染まったスーツの男に尋ねる。

「ッ、ぐ、ぅ……その、通り、だ……」

「これだけは死ぬ前に聞かせてもらおう──お前は、?」

「ワタ、し、含め……すべて、の……《第三世代》、は……ッ、ぐ、ゥ……」

 喉には血が溜まり、今にも呼吸が絶えそうになるが、男は最後に口にしようする。

「……彼奴は、戦……のッ、生き……」

 しかし、途端に聞き取りづらくなる。

「おい、もっとはっきり……」

「…………」

「ッ!?」

 その響きは、ひどく懐かしいもので。

「──アハトさんッ!!」

 しかし、その感傷は刹那に粉砕された。

「なん、だ──ッ!?」

 芳乃が身体ごと拘束服を引きずり上げて後ろに飛び退っていなければ、死にかけの男もろとも三人が全員、肉塊になっていた。

 ──それは災害だった。

 禍々しいオーラはありありと存在感を放ちその場にあるすべての妖気が平伏していた。太く長く曲がったは二振り、威厳を持って顕現している。

 ──それは《魔》だった。

 ぐちゃぐちゃに踏み潰され、原型をとどめない《眷属》の死体を、さらに踏み躙る。血の音がやけに静かなあたりを舐め回すように響く。顔は見えない。しかし、ソレが笑っていることは誰にだってわかるだろう。

 ──それは、純粋なる《悪》だった。

 濃厚な死の気配。出会えば命は諦めるしかない。そういう類の《存在》だ。理屈や感情なんか屑のように吐き棄てる、道理の通じるはずのない《暴力》だ。

「…………ッ!!!」

 鬼。が。こ。ち。ら。を。見。た。

 その瞬間に死を覚悟せずに居られるものは生きとし生ける者にはひとつとしてありはしないだろう。その目は──

「オ、まえ、《眷ゾク》……?」

 信じられないほど、美しい、女だ。その額を突き破る二本の剛角さえ、なければ、その姿はまるっきり、美しい少女でしかない。

 息を呑む。その鬼は、質問を繰り返す。

「おマエ、《ケン属》……?」

 微動だに出来ない。その威圧感は、鍛錬を積まない者であれば呼吸さえ許されずに、窒息死してしまうほどの問答無用だ。さっきから芳乃がぜえぜえと喘いでいるのを感じる。それでも、何も、答えられなかった。

 その瞬間、鎌鼬のような激しい風が頬を掠めた。

「──ミ、つ、ケ、タ……ァ!」

 不意に顔を覆っていた黒布が、切って落とされる。鬼が角を一閃したのだと、気付いたのは遥か後。それは一瞬だった。

「あ、ハ、と……ォ!!」

 殺されると。もはや終わりだと。覚悟さえしていたのだ。しかし──

「ひ、ヒィ……っ、ひゃ、ひゃ、ひゃ……」

 途端に鬼が顔を押さえて暴れ出し始める。何を血迷ってか暴れるごとに周りの塀を崩すから、自ら瓦礫に埋まっていく。

「ひっ、ひ、ひひ、ひゃァあ……!」

 それでも動けずにいたところを、芳乃に再び肩を叩いて覚醒させられる。慌てて、しかし慎重に、その場から逃げることを選んだ。鬼と相対しては、戦う選択肢などない。

 《魔》を殺せるのは、同じ《魔》か、あるいはそうと者だけ。

 芳乃と連れ立って、命辛々逃げ出した。鬼とともにそこに残されていたのは、もはや誰も拾うことのないだろう、無残なスーツの男の亡骸だけだった。


         ◯


 その戦場は《血の雪原》と呼ばれていた。酷寒のシベリアの地。山と集った人の兵と強大な《魔》は、互いの命を奪うためだけに、自らの命を投げ出そうとしていた。

 屍を材料もとに骸の兵を大地に孕ませる最悪の大呪詛を吐いたのはどの《魔》だったか──生身で触れれば瞬時に肉が腐り落ちる濃霧を吐き出したのはどの《魔》だったか──輪廻を阻害するために死してなお死体から決して魂を離さないよう拘束する刻印を刻んで見せたのはどの《魔》だったか──

 かつて純粋強大な力を備え、《悪妖怪》と呼ばれた彼らは目的などなく、殺戮の限りを尽くしていた。彼らに理由など、どうでもよかったのだ。ただ殺すのは楽しかった。畏れられるのは心地良かった。それだけのこと。

 殺された人妖の血は死地の雪に染み込み、そこに大いなる呪いを刻み込んだ。それから雪は終戦を迎えてなお、二度と解けることはなく、新たなる呪いを生み出し続ける。骸の兵士は当てもなく旅人を斬り、毒霧は旅人の肺を蝕み、死ねば二度と抜け出せない牢獄に囚われる。それが──《血の雪原》。

 かつての人妖戦争の主戦場。そして、今や荒廃した土地。

 そこには、そうと決められた者が一人。

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